<背触れ>
高校時代、私には秘密の時間があった。
家族が外出して、家の中に私しかいなくなったその時。
私は彼女を呼び出す。
彼女の苗字は知っているが、名前までは知らない。
近所に住んでいることは知っているが、何をしているかは知らない。
同年代と思われる、苗字と住所しか判らない女。
出逢ったきっかけは偶然だった。
夏休みのある日、帰り道途中で遭遇したのだ。あと二回曲がれば家に着く、という場所で。
いや、それは『遭遇』とは呼べない程に些細なものだったに違いない。
何となく目が合ったのだ。
本当に、何となく。
それだけだ。
気が付けば、私は彼女を家に誘っていた。幸いにもその日は誰もいなかった。
何を考えていたのかは覚えていない。多分、何も考えていなかったのだと思う。
意識はあるが無意識だったのだ。本能のみで行動していたと言うべきか。
家に至るまでに私達が交わした会話は、
「俺ん家に来る?」
「うん」
と、三秒にも満たない短いものだけだった。
そして彼女を家に招いてからはもう何も喋らなかった。無言で私の部屋に移動し、部屋に入った瞬間、彼女の体を引き倒した。
そこからはただ己が欲望を尽くした。彼女も解っていたのか、抵抗はしなかった。
それから彼女とじゃれあう日々が始まった。
家に誰もいないと私は携帯で彼女を呼び、彼女はその呼び出しに応じる。
上に乗ったり乗られたりしながら、私達は関係を愉しんだ。
私が彼女と関係を持っていた間、私達は殆ど会話を交わさなかった。私が彼女の声で今でも覚えているのは、漏れる息遣いぐらいのものだ。
私達は終えるものを終えると背中を合わせて座り、互いに体重を預け、何も喋ることなく呆けることが習慣になっていた。
ことに及んでいる最中より、私はその時間にこそ幸福感を覚えており、癒されていた。
そんな感覚に私は毒されていたのだろう。親が共働きだったこともあり、私の彼女を呼ぶ頻度はどんどん上がっていった。彼女も毎回私の呼び出しに応じ、肌を重ね続けていった。
いつまで経っても、私達がまともに話すことはなかった。
高校を卒業し、大学に入ると私にも普通の彼女ができた。その頃になると、私は『彼女』と会うことはなくなっていた。
新しい彼女との時間はつまらなく、面倒なものでしかなかった。
愛や信頼という名の契約、何一つ解放できない自由。世の中に蔓延る恋愛とやらは、私に只の一秒の安らぎすら与えてくれなかった。
だが『彼女』は違った。私と彼女との間には確かな安らぎがあった。
確かに私と彼女の間には、肉体関係という事実しか存在しなかった。名前も、詳細も、好意を持っていたのか、何を考えていたのか、何もかもが不明のままだった。世の人々は、それをなんと脆く不誠実な関係だと馬鹿にするのだろう。
しかし、それでも私達は機能していたのだ。
少なくとも世の人々とは違って。
彼女と背中合わせでいる時は、責任も証明も必要なく、ただ幸せがあった。温もりを求めるだけの最低限の、手続きも理屈も要らない究極の『愛』というものがそこにはあったのだ。
結局、彼女こそが私の求めていた『女性』であり『異性』だったのだが、気付くのがあまりにも遅すぎた。
遅すぎたのだ。
私は今でも懐かしく思う。
彼女の背中の重みを。
その暖かい感触を。
あの比類なき安らぎを。
もう二度と味わえないことが、残念で仕方がない。
彼女も今、同じ事を思っていてくれているだろうか。
私は携帯に眠っている彼女のメモリをそっと消した。