<イマどきのバレンタイン>
無知とは、時に人の想像を遙かに超える行動を起こすものである。
米を洗う際に洗剤を入れるの然り。
人参の皮を剥かずに調理するの然り。
――そして、チョコを直接火にかけて溶かすの然り。
甘くも焦げ臭い匂いが広がるキッチンで、匂いの根源を前にしてあずさは考える。
何がいけなかったのか? チョコなんて所詮溶かして再び固めるだけのものではなかったのか? ちゃんと焦げ付かないように弱火にしておいたはずだ。そうでないとしたら、もしかして常温で溶けるのを待つのが正解だったのだろうか、いや、もしかして――。
思考は無駄に深みへとはまっていく。しかし、今回の作戦を行き当たりばったりで決行したあずさに原因も解決策も思いつくはずがない。
だが、秘密裏に事を運んでしまったのだ。誰かに協力を仰ぐわけにはいかない。協力を仰ごうにも、その相手はライバルか渡す相手しかいないのだ。
あずさはとりあえず、鍋に焦げてこびりついた部分以外をボールに移した。
ボールの中のチョコは確かに溶けてはいるが、あずさがイメージしていたものよりは固形に近い。完全に焦げ付いてはいないものの、焦げた臭いは少し移ってしまっていた。
もう一度やり直せたら幸いなのだが、あずさにはもう材料となるチョコは残されていない。焦げた臭いもその内消えるだろう、と高を括って作業を進めるしかなかった。
あずさはボールに適当な量の生クリームを加えて、溶かしたチョコと搔き雑ぜる。生クリームを加えれば甘い匂いが漂ってくるだろうという甘い考えと直感に従った結果だった。
本来、沸騰させた生クリームに刻んだチョコを加えて混ぜるものなのだが、料理をフィーリングで行う彼女が知る由もなく――実際は熱していないクリームの生臭さが加わっただけだった。
焦げ臭さの次は生臭さ。
あずさは頭を抱えることしかできない。
諦めかけようとする心に、乙女の使命が鞭を打つ。
ここで諦めてどうするのだ。
最後までやってみなければ分からないではないか。
あずさは己を奮い立たせ、再び戦場へと向かう。
とろみのあるチョコレートをスプーンで掬い、ハート型のチョコレートモールドに流し込んでいく。それが終われば後は冷やして固めるだけである。
あずさは爆弾の解除を行うようにそれを終えると、冷蔵庫の中に仕舞った。
冷蔵庫の扉を閉め、一息吐くあずさ。
たかがチョコレート、されどチョコレート。
溶かして固めるだけの作業。
そんなことを言える腕が、今はうらやましくて仕方がない。
一時間後、あずさは恐る恐る冷蔵庫を開けた。
冷え切ったチョコレートモールドを取り出し、ハート型に固まったチョコレートを丁寧に皿の上へと抜き出した。
完成品のチョコレートは、あずさの負の予想を裏切り、なかなかに出来の良い物に見えた。形は確かに少し歪かもしれないが、手作りの愛嬌で済ませられる範囲内のものに思える。固める前は気になった臭いも、今ではあまり感じられない。
チョコレートの内の一つを口に運ぶ。少し生臭いような気もするが、あずさが心配していたより何倍もチョコレートをしていた。チョコを取り出す前からの心境から一転、あずさは心を躍らせた。
この出来なら、来たる日を安心して迎えることができる。
あずさは不敵な笑みを浮かべ、チョコレートのトッピングに取り掛かった。
翌日の幸せな展開を夢見て――。
◇
あずさの努力に天が報いたのか、はたまた他の面子が気を遣ってくれているのは分からないが、当日あずさは難なく忍と二人きりになることができた。
工場内で二人きり、チャンスは今をおいて他にはない。
意を決したあずさは忍の名前を呼んだ。
忍も流石に今日の意味に気付いているので、心得た顔で対応した。
鞄から可愛らしい模様の描かれた、茶色の紙袋を取り出す。
頬を染め、忍に対峙するあずさ。
何も言わずにあずさの言動を待つ忍。
あずさは、たどたどしい口上と共に、その紙袋を忍に手渡した。
あずさは恥ずかしさに俯くことしかできなかった。
忍は恥ずかしさで俯いているあずさに礼を述べる。
暫しの間、会話のない気まずい空気が二人の間に流れる。尤も、気まずさを感じているのはあずさだけなのだが。
そうだ、と思い出したように忍が動く。
自分の荷物から、あずさと同じような紙袋を取り出した。違いがあるとするなら、無地だということだろうか。
首を傾げるあずさに、忍は告げる。
あずさのために作ったチョコレートだと。
今年は男子から女子に手渡すのが流行なのだと。
突然のお返しに運命めいたときめきを感じたあずさだったが、それは忍が他にも三つチョコを用意していることを知るまでの、ほんの短い間であった。
意中の女子から義理チョコを貰った男子の心中はこんな感じなのだろうか。自分が本当の意味で相手にされていないのを痛感して悲しいのだが、プレゼントされたという現実がまた誤魔化せないほど嬉しい。
そう。確かに複雑な心境ではあるが、とりあえず嬉しいことには変わりはないのだ。そして、その感情があずさにとっては目の前の全てだ。
今食べてもいいかと忍に訊ねながら、返事を待たずにあずさは袋の口を開ける。中に眠っている黒茶色の宝石を取り出し、その精巧な造りに思わず溜息を漏らしてしまう。
この愛する完璧超人は、自分ができなかったことをいとも簡単に成し遂げてみせる。あずさにとっては賢者の石を生み出すが如きチョコレート調理の苦行も、忍にとってはカップラーメンを作るようなお手軽な作業に違いない。
忍の作ったモノと比べれば、あずさがそれなりの自負を以って手渡ししたそれは、まるで小学生の工作のように稚拙な物なのだと。
気付いた時には遅かった。それじゃあ僕も食べようかな、と忍はあずさから受け取った可愛らしい袋を開け、中身を取り出していた。
ああ……と赤点のテストが親に見つかったようなリアクションをするあずさ。忍はそんなあずさの反応を知ってか知らずか、拙くも豪華に施されたチョコの包装を解き、何個かある内の一つを親指と中指で摘んで口に放り込んだ。チョコを租借する忍の顔は、あずさの眼には神妙な表情に映っていた。
合否判定を待つ受験生のような面持ちで忍を見つめるあずさだったが、美味しいよ、と忍が二口目を運ぶのを見て喜ぶよりも恥ずかしがるよりもまず安堵した。よかった、自分の苦労は無駄ではなかったのだ、と。
気を良くしたあずさは忍のチョコを口に放り込んだ。チョコレートのストレートな甘さとほんのりとしたフレーバー程度にしか感じさせない上品な苦めの後味があずさの舌に広がっていく。
その僅かな苦味が次を口にした際の甘さをまた際立たせるので、食べる者の手を止めることを許さない。あずさは調理者の眼から見て、実に有り難味もない――スナック菓子でも食べるような速さと手つきでチョコを平らげてしまった。
食べ終わった後、溶けたチョコが少し付いた指を、幼子がするようにしゃぶって舐め取る。
忍はあずさの行儀の悪さを嗜め、やはりこの少女は色気より食い気なのだろうか――と心配と安心が入り混じった複雑な心境になりながら、生クリームの油分が少し分離して浮き出ているチョコレートを食べきった。
他のメンバーがやってくる前に。
忍のちょっとした親心であった。
END