<イマどきのクリスマス>
料理という行為はある種の魔法である。
食材という始点から始まるこの行為は、まるで可能性の限界を知らない。発想は未知への終着点となり、工夫は無限の軌道となって新たな味と感動を生む。その果てしなく広がる世界に人は惹かれ、届かない終点に焦がれる。
包丁は食材を多種多様な形に刻む魔法の刃であり、鍋は抛りこまれた食材を一つの『作品』に変えてしまう錬金釜だ。そんな魔法の道具を扱う料理人は、さながら手品師のようで。
調理を行う様は、ステージを駆け回る踊り子のようであった。
忍は今夜自宅で行われるパーティの準備に勤しんでいた。言い出しっぺは自分であるので、一番のウェイトを占める料理は忍が担当である。尤も、忍にとっては料理という行為は娯楽の一種に入るので苦にはならないのだが。
忍は淡々とリズムを刻む。フライパンを返す音、鍋を揺らす音、食材を刻む音、キッチン内を移動する音。
それぞれ異なったリズムは、流れるような連続性を持ち、一つの纏まった音楽性を生み出していた。忙しなく動いている様ですら、見ている者に優雅さを感じさせた。
そして、それを感じているのは紅緒あずさだ。
あずさはキッチンの少し離れた場所でエプロン姿の忍が料理をする様子を見ていた。テキパキと要領良く調理を進める忍。その流れるような動きは機能美を備えた芸術と言っても過言ではないかもしれない。
今、ここで下手に介入するのは芸術への冒涜に他ならない。
なので、あずさは見物に徹していた。
ただ料理をするのが苦手で面倒臭かったとか、エプロン姿の忍にあらぬ妄想を抱いていたわけではない――そういう訳では決してない。
だが、人が働いている様をただ眺めているというのはどうにも居心地が悪いものだ。だからあずさは後ろ手を組んでもじもじしていた。
そんなスライムベスの様子が横目に入った忍。
「そうだ。あずさ、今ヒマ?」
暇かどうかは一目瞭然だが、とりあえずそういう訊き方をする。心遣いというものだった。
「うん、ヒマ」
「じゃあちょっと手伝って」
「え……あたし、あんまりこういうの得意じゃないよ?」
「大丈夫。ただ切るだけだから」
忍は二つのボールをあずさの前に差し出した。それぞれにボイルした蛸とブロッコリーが入っている。
「それを適当に食べやすいサイズに切ってからボールに戻しといて」
「わかった。テキトーなら任せて」
『2cm角に切って』と指示されたなら、あずさはきっと発狂していたに違いない。だから忍は敢えてそう指示した。
あずさは手を洗ってから包丁を取り、まな板の前に対峙する。赤く茹で上がった蛸をまな板の上に置いた。
「切って刻んで〜すり潰す〜」
謎の歌を歌いながらあずさは蛸の解体を始めた。ダンダンと荒々しく包丁が振り下ろされ、蛸の太い足が数センチ角のパーツに切り分けられていく。
「すり潰してどうする……というか、ちゃんと手を添えてゆっくり切らないと。危ないよ」
「ご、ごめん……つい興奮して……」
やはり、あずさには見学を任せたほうが安全なのかもしれない。
忍がそんなことを思った矢先、貴宮家のチャイムが鳴った。
「あずさ、切るのはやっぱりいいから出てきてくれない?」
「あいあい」
あずさは包丁を置くと、小走りで玄関に向かった。
玄関の扉を開けるとあずさの見知った顔が並んでいた。先頭に笛子、その隣には沙也加、後ろには塚本兄弟が並んでいた。
「やほ、あずさ。メリークリスマス」
「メリークリスマス。笛子ちゃん。葉子ちゃんもメリークリスマス」
「メリークリト――」
葉子の挨拶は笛子の肘鉄によってあっさりと阻止された。
「痛いです……」
「警戒しておいてよかったわ……」
「?」
二人のやり取りを、あずさは不思議そうに眺めていた。
「メリークリスマス、あずさ。忍はどうしているの?」
沙也加が笛子達を差し置いて玄関の中へと入り込んだ。
「料理中。あたしも手伝ってたところ」
「そう」
殆ど結果を残せていないというのは口に出さない。
「忍の家に上がるのも久しぶりねー」
それに続いて笛子達も家に上がる。最後尾にいた斎は玄関に入るとドアを閉めた。
「メリークリスマス。斎くん」
斎は無言で頷いた。
◇
「おー、主夫やってるわねー」
「忍さんのエプロン姿……」
雑多な物音や声と共に、一行がリビングへと上がりこんできた。
「メリークリスマス。みんな」
忍は家事に追われる新婚主婦のような面持ちで、一同に挨拶をした。
「メリークリスマス」
「メリークリト――」
「それはもういいっての」
笛子の肘鉄が再び葉子の腹にめり込んだ。今度は斎も後ろから頭を叩いていた。
「二人がかりなんて、酷い……」
「自業自得よ」
「忙しそうね。手伝いましょうか?」
沙也加はコートを脱ぐと、キッチンへと入っていった。
「あ、そうしてくれると助かるかも」
「今日は家の人は大丈夫なの?」
「大丈夫。ちゃんと許可は取ってある」
今夜、所用で千鶴は家にはいない。
「そう、なら安心ね」
笛子は沙也加が脱いだコートを手に取った。
「とりあえず、私達は片付けでもしてましょうか。忍、ハンガーはある?」
「あー、僕の部屋にあるけど……あずさ、取って来てくれる?」
「ら、らじゃー」
「忍さんの部屋……」
忍の部屋、という単語にそれぞれの反応を示す二人。葉子は言われなくてもあずさについて行く気マンマンだった。
「葉子はここにいてね」
「何故ですか?」
「何となく」
嫌な予感がしたからだった。
「じゃあ、私はここで忍さんとの新婚生活でも妄想しています」
「そうしてくれると助かるよ」
葉子は頬を赤らめた。
「じゃあ、行ってくるね」
そうして、あずさは忍の部屋に。
忍と沙也加はディナー作りに。
斎と笛子は部屋の片付けを。
そして葉子は妄想に精を出すのであった。
◇
淡々と、それでいて賑やかにパーティの準備は行われ、陽が落ちる頃には全て終了していた。
部屋の中は本格的ではないにしろ、色紙などでちょっとした飾り付けが施されていた。子供らしい趣向だが、笛子の提案だったりする。
テーブルの上には忍が作った料理が並べられ、後はそれぞれが席に着くだけ――なのだが。
「あの不良ヤロー! 遅いー、遅すぎるー!」
「まぁ、ある意味章二の方が正しいクリスマスの過ごし方なのかもしれないけどね……」
笛子は呟いた。ここにいる大体は章二が今ここにいない理由を解っている。
「昨日から予定は詰まってるだろうしね。一応、間に合うようにするとは言ってたんだけどな……」
「仕方がないわね。料理が冷めても困るし、頂きましょうか」
「うん、そうだね。来ないってことはないと思うし」
「性なる夜を過ごす若者には冷めたライスがお似合いです」
さらっと酷い事を言う葉子。僻みに聞こえないこともない。
「じゃあ皆これを持って」
笛子はクラッカーを皆に手渡した。
「……笛子って、意外とこういうのに凝るよね」
「ストレスが溜まっているのです」
「そこ、勝手なこと言わない。――はい、あとおチビにはこれ」
笛子は鞄からサンタの帽子を取り出すと、あずさの頭に乗せた。
「うぉ、サンタ帽だ!」
「流石に服までは用意できないけどね……あんたに似合うと思って」
「確かに似合ってるね」
イメージの問題だろうか。あずさには赤色が良く似合う。
「そ、そうかな……」
忍に褒められて、あずさも悪い気はしないようだった。
「じゃあ『いっせーのーで』でクラッカーを鳴らすわよ。料理に掛からないように気をつけてね」
笛子は仲間達を見回す。それぞれが無言で応えた。
「いっせーのー……で!」
紐が引かれ、ほぼ同じタイミングでクラッカーが鳴った。
「「「「「メリー・クリ――」」」」」
それと同時に。
訪問のチャイムが部屋の中に響いたのであった。
「待たせたな下郎ども。感謝しろ、俺様が特別に――」
忍に招かれて上がってきた章二だが、部屋に入ると同時にあずさ達の冷たい視線に晒されることとなった。
「ど、どうした……?」
「……あと一秒。早くベルを鳴らせなかったものかしら」
笛子はため息を吐いた。
「今まで何してたんだよ! バカ章二!」
あずさは吼えた。
「裸で町を一周してこい。ぺっ」
葉子は毒を吐いた。
「何故だ!? 何故チキンを調達してきた俺様がこんな扱いを受けなければならない!?」
「タイミングが……悪かったんだよ」
そのあまりに中途半端なタイミングの訪問は、冷遇されて然るべきだった。
◇
宴は淑やかに、それでいて賑やかに行われた。
夕食の後片付けも終わり、今はそれぞれがケーキを乗せた皿と紅茶の入ったティーカップを手に、自由に過ごしていた。
「んー、ケーキあまひ〜」
あずさはケーキに舌鼓を打つ。ケーキはバタークリームとチョコレートでデコレーションされたシンプルな物だが、上品な味に仕上がっている良品だった。
「流石にケーキは市販のものに限るね」
「忍の料理も素人の物とは思えなかったけど……ちょっと自信なくしちゃうわ。女として」
笛子が不満そうに呟いた。
「沙也加が手伝ってくれたお陰だよ」
「私達が来た頃には大まかな調理は終わっていたし、あまり私の手は加わっていないわ」
「うーむ、婿に欲しい……」
「マスオさん前提なの?」
「そう、そして私はサザエさん」
葉子は忍に擦り寄った。
「忍さんとのタラちゃんが欲しいです」
「そんな斬新な告白、聞いたことないよ」
「褒めないで。濡れてしまいます」
「濡れないで。お願いだから」
「…………」
馬鹿らしいやり取りを横に、沙也加は静かに紅茶を口に運ぶ。沙加の周りだけ、騒がしい空間から切り取られているようだった。
紅茶を飲む沙也加は、さながら優雅の権化。
「おい。シャンパンを持ってきてるんだ。姫さんも飲もうぜ」
そしてそれをぶち壊す章二は粗野の権化であった。
「ちょっと……これ、クリュッグじゃない?」
笛子は章二が取り出したシャンパンを見て驚いた。一本云万円する高級シャンパンなのだ。とても学生の身分が軽々しく入手できる代物ではなかった。
「そうだ、大奮発だろう。ようやく俺様に感謝する気になったか」
「……できれば食事中に出して欲しかったんだけど」
忍は珍しくいじけた。この高級酒を料理と味わえなかったのがよほど残念だったのだろう。あらかじめ伝えておけば、酒に合わせた料理を作っていたのかもしれない。
「お前らが俺様を無下に扱うから忘れていたんだ」
いざこざや争いは、何もプラスを生み出さないという良い例だった。
「これ章二が買ったの? あんたそんなに余裕があるの? 昨日だって色々と使ったんでしょ?」
「うっ……そ、それはだな……」
笛子の質問に、何故か章二は言い淀んだ。それに敏感なモノを感じ取った各々。
「あー、なんか怪しい」
あずさがジト目で章二を睨んだ。
「きっと、昨日までヨロシクしていた女に貰ったんですよ。エロい。この男エロすぎる」
身も蓋もない言い方だが、葉子の言葉は真に迫っていたようだった。章二は溜息を吐いた。
「……まあいいじゃねえか。タダで旨い酒が飲めるんだ。シノ、グラスを用意してくれ――まさか、未成年の飲酒がどうこうとは言うまいな?」
章二は先に笛子の出だしを挫いた。
「まあ……少しだけなら。今日は特別に」
笛子も高級シャンパンに少し興味があるようだった。
「あたしも飲みたーい」
サンタあずさがハイテンションに挙手をした。
「別にいいけど……一口だけだよ。酒気を帯びて帰ったら怒られるからね」
「うん、わかってる」
あずさは嬉しそうに頷いた。
「よし、じゃあ乾杯といこうじゃねえか」
章二は屈託なく笑い、シャンパンの栓を開けた。
◇
宴は酣を過ぎ、低廉だが緩やかな空気が一同に広まっていた。ある者は会話をすることを楽しみ、またある者は会話を聞くことを愉しんでいた。
そんな団欒を壊す、不躾な音。
章二の携帯が鳴る音だった。
章二は部屋の外に出て電話を終えると、微妙な表情で帰ってきた。
忍にはそれが何を意味しているのか解っていた。
「もう帰るの?」
「あぁ、またあっちに行かないといかん。俺はそろそろ去ろう」
「一番遅く来た奴が一番早く帰る……」
笛子は何かを言いたそうだった。
「うるさい! 俺だって……色々と大変なんだ」
「じゃあ、あたしもそろそろ帰ろうかな。一応言っては来ているけど……あんまり遅くはなってもダメだし」
あずさは立ち上がり、酔い潰れて横になっていた葉子の顔にサンタの帽子を被せた。
「これ、葉子ちゃんにパス」
「おぉ……暗い」
酔いどれ葉子は呻くことしかできなかった。
調子に乗って一番シャンパンを飲んだ結果がこれだった。
「じゃあ俺様が家までエスコートしてやろう」
「ダメよ。あんたみたいな見るからな不良に連れてこられちゃ、親御さんが心配するでしょ。私が一緒に行くわ」
見るからな優等生こと笛子は、そそくさと帰る支度を始めた。
「そうかい。じゃあ俺はもう行くぜ」
準備を済ませた章二はそそくさと部屋を出た。
「章二」
その後姿に忍は声をかける。章二は振り返らずに立ち止まった。
「メリークリスマス。良いお年を」
「おう」
片手を挙げて答えると、章二はそのまま去っていった。
「じゃあ、私たちもそろそろ……」
笛子とあずさが並んで部屋の入り口で振り返る。
「バイバイ、忍くん」
「気をつけてね」
「うん、だいじょぶ」
「それじゃあ、またね」
あずさは忍と沙也加に手を振ってから部屋を後にした。
「…………」
次は斎の番だった。酔い潰れた妹に自分の上着を被せ、背負う。
「斎も気をつけて。風邪、ひかないようにね」
斎は無言で頷く。
「忍さんのクリスマスプレゼントになりたい……」
サンタ葉子はうわ言のように呟いたが、無情にもおんぶマシーンに運び去られていった。
「……さて、沙也加はどうする?」
忍はソファに座っている沙也加に問いかけた。
二人きりになった部屋。深々としたムードが二人を包み込んだ。
「そうね。酔いが醒めるまで此処で過ごそうかしら」
「うん、それもいいんじゃないかな」
忍は紅茶を淹れたカップを沙也加に手渡し、沙也加の隣に腰を下ろした。
「偶には浮かれてみるのもいいものね」
「そうだね。いいもんだ」
家族と過ごすクリスマスもあれば、恋人と過ごすクリスマスもある。勿論、仲間と過ごすクリスマスも。
行事は共に過ごす者によって形態を変える。少し歪だが、このクリスマスを否定することは忍にはできない。
沙也加は紅茶を口に運ぶ。たった一つの動作の中に、上品な艶やかさが窺えた。
その美しさに忍は暫しの間、心を奪われる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
忍は心の中に浮かんだ感情を紅茶で洗い流した。
「さて、話すこともすることもないけど……どうする?」
「音楽でも聴きたいところね」
「じゃあ、そうしようか」
忍は立ち上がる。が、沙也加の手によってすぐに引き戻された。
「……どうしたの?」
「やっぱりいいわ。今は酔いの眠気に任せてこうしていたいの」
珍しい沙也加の様子。照れを隠すように瞳を閉じた。
「……いいよ。でも、朝まで寝ちゃダメだよ」
忍も瞳を閉じながら。
暗闇が忍の意識を支配していく。肌で感じる隣に座る者の心地良い暖かみ。聞こえてくる息遣いはさながら聖夜を彩るBGMのよう。
そこに程よい酔い心地が加われば――眠りにつかない方が異常なのである。
忍が次に気がつくのは朝。
その時、沙也加の姿は忍の隣にはない。
ただ、毛布とほんの少しの温もりを残して――。
END