<そして、そしてまた>

 

 

 

 

 

「――お勤めご苦労様でした、司」

 突如現れた少女に深々と頭を下げられた。

 目覚めた瞬間に『ご苦労様』と声を掛けられる人間など、この世にはそういないだろう。本当に、突然のことだったので驚いた。

 俺はついさっきまで寝ていたのだ。白くまどろんだ牛乳のような世界で、出口を求めて延々と歩き続けている夢を見ていた。

 そして、夢の中で出口を見つけたと思ったら――この見慣れた公園で『ご苦労さま』攻撃だ。驚かない方がおかしいだろう。

「さっきからボーっとして、どうかしましたか?」

 目の前にいた少女が心配そうに俺の顔を見つめる。

 …………。

「あのー?」

 …………。

「大丈夫ですかー?」

 俺の目の前で手を泳がせる。

「……え〜と」

「はい?」

「誰だっけ?」

「ひぎっ!?」

 少女の顔が一気に泣き顔になった。

「嘘だよ、末莉だろ?」

 どこの世界に女房の顔を忘れる奴がいる。

 ただ、あまりにも懐かしい――数十年前の姿をしていたので戸惑っただけだ。

「そうですよー、末莉ですよー。司のたった一人のワイフですよー」

 泣きながら末莉が俺の胸に抱きつく。

 …………。

「末莉……」

「……はい?」

 俺は末莉の頬を掴み、引っ張った。

「ふひゃは、ひひゃひふぇす〜」

 伸びきった口から情けない声が漏れる。

「お前……本当に末莉か?」

「ひょうひんひょうふぇいの、ふぉひひんふぁふりふぇふふぉ〜」

「ニセマツリじゃないんだな?」

 ニセマツリとはオリジン末莉と対をなす、おいぼれを安らかにあの世へと送る量産型末莉のことを指す。

「ふぉんなふぉひひふぁへん〜」

 やはり本物のようなので解放してやる。

 いや、本物だってのはとっくに解っているんだが、どうにも悪戯したくなるのだ。

「いきなり何をするんですか〜」

「いや、久しぶりだからつい、な」

「意味が解りませんよ〜。それに、ニセマツリって何なんですか〜?」

「死を恐れる心が創り出した、心優しき妖精のことだ」

「ますます意味が解りません〜」

 呆れながら悩む末莉。器用だ。

「もういいです――早く帰りましょう。みんな待ってるんですよ」

「はは、随分待たせちまったもんな」

 俺自身、予想しなかったことだ。

「そうですよ。みんなでいっぱいいーっぱい待ちました」

「いいじゃねえか。俺もその分苦労したんだ」

 本当に、色々と。

 出来の悪い家族の次は、出来の悪い子供や孫の相手をしなければならなかったんだから。

「言い分は署で聴かせてもらいますー」

「カツ丼は出るんだろうな?」

「カツ丼どころじゃ済みませんよー。今日は満干全席です」

 それはいい。ちょうど腹が減っていたんだ。

 カツ丼の一杯や二杯じゃ全然足りない。

かと言って、一人で満干全席は多すぎるが。

でも大丈夫。

みんなで食うんだ。

「よっしゃ、帰るか」

「はい。若い体にはもう慣れましたか?」

「おう、正真正銘のフレッシュ・ヤングメンだ」

一度経験した老いの感覚もすっかり忘れてしまっていた。

 では参りましょう、と末莉が俺をリードして歩く。

 まぁ、案内などもう俺には必要ないのだが。

 既に帰るべき場所は思い出せている。

 それでも、末莉が俺の少し先でちょこちょこしながら歩いているのが懐かしくて、面白くて。

 俺は末莉の案内を、成すがままに受け入れていた。

 

 

 帰り道の道中、俺は末莉から高屋敷家の近況(というのも変な話だが)を聞かされていた。

「え? 景も一緒に住んでいるのか?」

「そうなんですよー。わたしがこっちに着いた時にはもう家に住み着いてまして……」

 その時のことを思い出したのか、末莉は疲れた笑みを浮かべた。

「なんか『この家は私がいただいたー!』って屋根の上で叫んでました」

「戦後の陣地取りみたいだな……」

 死んでまでも性質の悪い奴だ。

「結局、青葉おねーさんが来るまでは誰も景さんを止めることはできなかったんです……」

「――なに!? 青葉がいるのか!?」

「はいっ!?」

 急に叫んだので驚かれてしまった。

「信じられん……」

 天地がひっくり返っても、青葉が天国(なのかどうかは判らないが)に来ることなどないと思っていたのに。

「あいつ、一体どんな手を使いやがったんだ?」

「さあ……でも、閻魔大王がどうとかって言っていたような……」

「…………」

 もしかして閻魔様を……?

いやいや、まさかな。 

 それはいくらなんでも有り得んだろう。それこそファンタジーすぎる世界だ。

「そして、青葉おねーさんにやっつけられた景さんは、現在楓ちゃんと一緒に司の部屋に住み込んでいるのでした」

 ちゃんちゃん、とオチをつける末莉。

「ちょっと待て! 突っ込みどころが多すぎる!」

楓までいるのか!?

つーかなんで『ちゃん』付けなんだ!?

つーかなんで俺の部屋に住んでる!?

「都合の良い部屋がなかったもので」

「庭の物置があるだろうが!」

「はは、青葉おねーさんと同じことを言ってる……」

「む、そうなのか」

 だが、その点に関しては、青葉と同意見だ。

 なんで俺の部屋をあいつに使わせなきゃならんのだ。

「でも、楓ちゃんまで物置生活は可哀相じゃないですか」

 景だけなら別に構わないってことか。

 哀れ、景。

「それよりさっきから気になってたんだが、『楓ちゃん』ってなんだ『ちゃん』って」

 普通、年上に対しては『さん』付けするもんじゃないのか。

「楓ちゃんはですねー、高屋敷家の五女になったのです。だから、わたしより年下の姿なのですよー」

 末っ子引退です、と嬉しそうに末莉は笑った。

 嬉しがるのは別に構わないんだが、なぜ幼女化?

 誰かの――陰謀なのか?

 この世界は色々と解らないことが多い。

 だが、それは気にしないほうがいいのだろう。

「……色々と分かったが、それじゃあ俺はどこで寝ろっていうんだ?」

 まさか、俺が物置行きか?

「わたしの部屋があるじゃないですかー」

 末莉は当然のように言った。

「あー、そうか末莉の部屋な」

「これからは一緒のお部屋ですね。お布団も一緒で……」

「そうだな――って、ちょっと待て」

 頬を赤らめている場合か。

「どうかしましたか?」

「いくらなんでもそれは無理なんじゃないか?」

 ただでさえ春花と一緒で狭苦しい部屋なんだ。

それに違う――問題もある。

「わたしは狭くても大丈夫ですよ?」

「いや、そうじゃなくて」

 どうして解ってくれないのだろうか。

「じゃあ、なぜなんですか?」

 かくん、と首を傾げる末莉。

 ……こいつわざとやってんじゃねえだろうな。

 いや、可愛いんだけれども。

「いいか、末莉」

「はい」

 末莉は真剣な表情で俺の顔を見つめる。

「俺達は夫婦だ」

 そう、夫婦なんだよ。

 だから解ってくれ。

 三人部屋(・・・・)は何かと不都合だろう? 夫婦にとって。

「確かにわたしたちは夫婦です」

「そう、夫婦。俺はダーリンおまえはワイフ、OK?」

 俺と末莉を交互に指差して確かめ合う。 

「わたしは司のワイフですよ?」

末莉は未だに理解してくれていないようだった。

「……そうだ。そして俺達は今、若さ100%の状態だ」

 弾けるエナジー、瑞々しい超健康体なのだ。

「そうですねー。わたしは若いを通り越して幼くなってしまいましたが……」

「…………」

 あー! お前は頭の中まで若返りすぎなんだよ! 中途半端に!

こうなったら、はっきり言ってやる他方法はない。

 俺は末莉の肩に手を置いた。

「いいか――」

 思いっきり息を吸う。

 

「――周りに人がいたら、夜の営みができないだろうがっ!」

 

 叫んでやった。叫んでやったぞ。

 とっとと気づけ、この馬鹿妻!

「あ、あぅ……そ、そうでしたね。長い間ご無沙汰だったので忘れていました」

 そうだよ、ご無沙汰だったんだよ。

 若返った体は色々と求めるもんなんだよ!

 色々とな!

「だから、一緒の部屋なら二人部屋だ」

「はい……」

 俺の瞳から『今夜は寝かせないぜ?』的オーラを感じ取ったのか、末莉は茹蛸のように火照ってしまっていた。

「あ、でも……それなら部屋割りを考えないと……」

「そうだな……」

 春花を移動させるか、景を移動させるか、の二択だ。

「考えるまでもない。問答無用で景に移動してもらう」

 あいつはいわば『居候』だ。高屋敷家の中で一番権力は低い。春花が景の為にわざわざ苦労することはないだろう。

「うー、そこの所はお任せします……」

「任された」

 あー、末莉を説得するのに疲れた……。

 ちょっと一服したくなってきた。

 無意識の動作で、ポケットに入ってた煙草取り出し――

「あー! 駄目ですよー!」

 吸おうと思ったのだが、末莉が俺の取り出そうとした煙草を箱の中へと押し戻した。

「なにすんだ――」

 と、口から出ようとした文句を飲み込んだ。

 末莉が俺を睨んでいるのだ。

 それはもう、すんごいジト目で。

 口を膨らませた様子は栗鼠みたいで可愛いが、それを言ったら余計に不貞腐れるので言わないでおく。

 長年の生活で習得した伴侶の対処法だ。

「何をそんなに怒って……」

 ……。

 …………。

 ……………………ああ。

 思い出した。

 末莉がいる間は禁煙してたんだった。

慌てて煙草の箱をポケットにねじ込んだ。

「思い出した。禁煙中だったんだな」

「『思い出した』? ……まさか、わたしがいなくなってからまた吸ってたんですかっ?」

 怒ってる怒ってる。

禁煙を始めた時もこんな感じで怒鳴られたっけな。懐かしい。

 なんて耽っている場合じゃないな。

「い、いや……おまえが生きている間は我慢できたんだけどな?」

「もんどーむよーです! ぼっしゅー」

 末莉は俺のポケットをまさぐり、煙草を奪おうとしてきた。

 しかし、俺も為されるがままという訳にはいかない。

 末莉のおでこを手で押さえて、どこかのコントのような状態になってしまった。

「はーなーしーてーくーだーさーいー」

「断る。大体あれだ。もう死んでるんだから煙草吸ったって何の問題もないだろ」

「心の問題ですー」

「俺の心は問題には入らないのか」

「喫煙者に人権はないんですよー」

「とんでもねぇ嫌煙者だな」

 調子が狂うったらない。

 この末莉(・・・・)の姿で、これだけ押しが強いことはなかった

 こいつがこの姿の頃は、どんなことでもアドバンテージは俺にあった。何をしようが最終的には俺の腕の中に収まっていたのだ。

 だから飼いハムスターに手を噛まれる、という訳ではないが少し戸惑ってしまう。

 負けはしないが、勝てもしない。

「どーしても、ダメなんですか?」

 末莉は上目遣いで俺を見る。

「うっ」

 俺の対末莉シールドに70%の損害。

 艦長、次は耐えられません!

「だ、駄目だ。今なら何の害もないんだから……吸ってはいけないという文句は通用しない」

「わたしがイヤだっていう理由じゃダメなんですか――」

 

「――おにーさん?」

 

 おにーさーん、おにーさーん、おにーさーん(エコー)

 ――シールド決壊。

 

 それは――反則だろう。

 

 おにーさん、それは、マツリ。

「――いただきです♪」

 と、俺が余韻に浸っている間に、末莉は俺のポケットから煙草の箱を引っ張り出していた。

そして距離を離す。

いつからこんなに強かになったのか。

違う、外見が外見なだけに騙されているだけだ。ああ見えて、俺と一体何年の付き合いだと思っているんだ。

だが、それすらを忘れさせるあの魅力。まったくもって恐ろしい。

「おにーさん詐欺だ!」

「見た目に騙される司が悪いんですよ」

 そんな外見で騙されるなという方が難しいだろう。

「とにかく、返しなさい」

 末莉の手から煙草を奪おうとする。

 が、末莉は意外にも機敏な動作で俺の腕をかわす。

「む……」

「肉体は若いままで、レベルは据え置きですよ♪」

 末莉はご老公の印籠のように、煙草の箱を俺に見せ付ける。

 そして、俺に背を向けて駆け出した。

「俺に挑戦とは……いい度胸だ!」

 負けじと俺も末莉の背中を追いかける。

 若い肉体でレベル据え置きなのは俺だって同じこと。今の俺ならあの寛にだって対抗できる自信がある。

 そんな俺から、

 逃げられると思っているのかー!

 全盛期を思い出させる猛ダッシュ。

 末莉がいくら懸命に走ろうが、俺から逃げ切るなど不可能なのだ。

 捕まえて、煙草を取り上げてあーしてこーして(以下、自主規制)してやる!

 若いって最高!

 俺と末莉の間はみるみる内に狭まっていく。

 そして、

「――ぅわ、わっ!?」

 意外にあっさりと末莉は捕まった。

 急に引き寄せられた末莉はバランスを崩し、倒れ込むようにして俺の腹に収まる。

 ここまでくれば、末莉に勝機はない。

「かーえーせー」

「だーめーでーすー」

 体を丸めて必死に煙草を守る末莉。俺は覆い被さるようにして、上から横から手を差し込んで末莉を攻撃していく。

 密着する体と体。体勢が体勢なので、末莉の髪が俺の鼻腔を刺激するわ、腕だの胸だのが柔らかくて気持ちいいわで……。

 ああー、何だか辛抱たまらんくなってきた。

 込みあがってくる愛しさを制御できない。

「――えっ、あ、ちょ、ちょっと!」

 急に抱きしめられ、動きを止めてしまう末莉。

「く、苦しいですよー」

 とは言いながらも、末莉は抵抗の意思を見せない。だから、俺も腕の力を緩めることはない。

久しぶりだ、この感触。

何十年ぶりだろう。この幸せの塊は。

まごうことなき【末 莉 感 覚】の再来。

「こんな昼間の往来でー」

「家に帰ったらのんびりくつろげないだろう」

「で、でも……あの……ここ……」

 落ち着きのない末莉。

「いいじゃねえか。久しぶりなんだ」

あっちに着いたら嫌でも騒がしくなる。

「……長い間、一人っきりにしやがって」

「あ……」

 年齢差や性別から言って、俺が末莉を迎えてやる筈だったんだ。末莉だけじゃない、他の奴らもそうだ。

 それなのに、どいつもこいつも好き勝手に逝きやがって。

「ちょっとぐらい、我が侭言わせてくれよ」

「……はい」

 末莉も向き合い、俺の背中に腕を回す。

 真っ昼間から道のど真ん中で抱き合う二人。

 恥ずかしさなど微塵もない。あるのは誇らしさと愛おしさだけ。

 周囲から突き刺さる視線をものともせず、俺達は愛の温度を確かめ合った――

 ――ん?

 視線?

 嫌な予感がする。

 末莉の髪に埋めていた顔を上げた。

 …………。

「若いっていいわねぇ」

「……見境のないこと」

「外が騒がしいと思って来てみたら……」

「おおー、ラブラブだねー」

 俺の左方に広がるのは、懐かしき我が家の風景と思い出の中の面々。

「……末莉?」

「はい?」

 ハグ中断。

 そしてうめぼし()

「いたーーー!?」

「こういう大切なことは、もっと早く言えー!」

「言おうとしたのに、司が止めたんじゃないですかー!」

 俺達が白昼堂々と抱き合っていたのは、まさしく高屋敷家の目の前だったのだ。

 つまりはくっさい羞恥プレイ。

「お前らも、いつからそこにいたー!?」

「『イイジャネエカ。ヒサシブリナンダ』」

 目を細めた真純さんが、目の前の空気を抱きしめるジェスチャーをする。

「――ぐらいからかしら」

俺の真似をしたつもりなのだろうか。

何故か片言なのが妙に腹が立つ。

「ツカサ―、わたしもツカサにハグしたいよー!」

「うぶっ!?」

 末莉の存在を忘れて俺の胸にダイブしてくる春花。

「ツーカーサー! ひさしぶりー!」

「こらっ、春花! 痛いだろうが!」

 末莉が俺と春花の胸でサンドイッチ状態になってしまっていた。

「ぐ、ぐるしい……」

「あはー」

「春花ちゃんだけずるいわぁ。わたしだって――えい♪」

 春花ほど大胆ではないが、真純さんも俺の胸に。

「ちょっ、真純さん!」

「うぷ……」

「いいじゃないの。久しぶりなんだから♪」

 そう言う真純さんの瞳は少し潤んでいた。

「真純さん……」

 真純さんは俺の首に回していた腕に力を込め、顔を胸に埋めた。

「すごーい、本物の司くんだわー。若いわー」

「真純さんも……若い、じゃないですか」

 ……さんじゅうだけどな。

「……なによぅ。その妙に意味ありげな間は」

「いや、真純さんも立派な三十路に若返ったなぁ、って」

「しかたがないじゃない! わたしは母親なんだから設定上、皆より年上じゃないといけないのよ!」

 わたしだってピチピチギャルに戻りたかったのよ! と真純さん、涙の訴え。

「でも、ギリギリ年上という設定にすれば二十代には返り咲けたんじゃ……」

「――っ!」

 真純さんの背後に雷が落ちるのが見えた。

「そ、そんな手があったのね……」

 というか、それぐらいは気付いて欲しい。

 まぁ俺も二十代の真純さんを見てみたい気がするだけに、残念な気がしないでもない。

「でも、もう歳を取らないし、いいじゃないですか」

「それはそうなんだけどね……」

 はぁ、と溜息を吐く真純さん。

 どうやら落ち込ませてしまったようだ。

「とりあえず、そろそろどいてくれませんか。ほら、春花も」

 いい加減少し暑苦しい……特に胸元が。

「あら、ごめんなさい」

「ごめんよー」

「きゅう……」

 二人が下がると、押し花状態だった末莉が地面に崩れ落ちた。

「あら大変。末莉ちゃん、大丈夫?」

「頭がグラグラします〜」

 あれだけ胸を押し付けられたら酸欠にもなるか。

 男としては少し羨ましいシチュエーションだが。

「ふう……」

 予想はしていたが、さっそく慌ただしいことこの上ない。

「はあ……」 

 俺の溜息とタイミングを合わせるように、どこかから漏れるもう一つの溜息。

 やや遠目からこちらを見ていた準だった。

「準、久しぶり」

「……ん、久しぶり」

 まるで朝の挨拶のような軽さ。交わす言葉はそれだけだが、互いの意思を伝えるには十分だ。

 また素っ気なくなってしまったが、肉体と精神が若返ると老いによって身に着いた達観性も抜け落ちてしまうので仕方がない。それは俺を含めたみんなに共通している。

 年老いた時はもう若き日の性格には戻らないだろうと思っていたが……何とも不思議な感覚だ。

「豚下郎の分際で最後の登場とは……まったく良いご身分ね」

今まで玄関の戸に背を預けていた青葉が、両手を組んで偉そうに歩み寄ってきた。

ああ……こういう例外もいたか。

老いも若きも変わらなかった奴。

「余生をたっぷり楽しんだって顔して。憎たらしいこと」

「……おまえも相変わらずだな。どうやって地獄行きを免れた? 閻魔様を軍門に下したか?」

 皮肉を込めて笑ってやる。

「ふふ……閻魔大王なんて、名前ほど大層ではなかったわ」

 …………。

 いや、きっと聞き間違いなんだろうな。うん。

 気のせいということにしておこう。

 きっと、耳の調子が悪いんだ。

 

「おー司ちゅわーん。マイラブリーサンー」

 

 だからほら、こんな幻聴が聞こえるんだ。調子が悪いに決まっている。

「パパだよー、父さんだよー、父上様だよー」

 幻聴幻聴……。

「うーん、久しぶりに感じる息子の背中の温かみに父さん感動。すりすりすり」

 ……スマン、もう無視できねぇ。

 ああ、そうだよ。もう一人いた。

 青葉より地獄行きが相応しい奴が。

 先程から背中に張り付いている、気味悪い物体の頭を握り締めた。

「て・め・え・は・な・に・を・し・て・や・が・る・ん・だ?」

「何って愛の抱擁に決まっているじゃないか。男一人で父さんずっと寂しかったんだぞぅー」

「冷遇されるのは、自分のせい……」

 呆れたように準が言葉をこぼした。心なしか、準の言葉には棘があったような気がする。

「司がいないと誰も止められない。最近、また怪しい物を作ろうとしてて大変」

 あ、そういうことか。

 浪費する者はすべからく準の敵だ。

 そうでなくても寛はみんなの敵だ。

「つーか、また懲りずに変なものを作ってんのかアンタは!」

「安心しろ! 今度の作品は、今までの商品全てを過去にする程の出来栄えだ!」

「新しいもの作ったら全部過去になるっつーの! つーか、背中に「の」字を書くな、気色わりぃ!」

 力任せに寛を投げ飛ばすが、軽々と着地を取られてしまう。

「ふっふっふ……久しぶりに父としての威厳、見せなければなるまい」

 鶴の構えを取る寛。

「甘くみんじゃねえぞ……俺だって色々と技を身につけたんだ。それに加えて肉体の若さでは俺が勝っている……いわば、今の俺は完全体!」

 この勝負、どう考えても俺が有利!

「――かかってきなさい」

 くいくい、と人差し指を曲げて挑発する寛。

「上等ぉ!」

「ほちょー!」

 今こそ雌雄を決する時!

 互いに距離を詰め、握り締めた拳を相手の頬に――

 

「――あー、うるさいなぁ! せっかくのんびりと昼寝してたのにー!」

 

 玄関の戸を開けて、空気の読めない乱入者が現れた。

 握り締めた拳が固まる。

「け、景……」

「――あ、沢村君じゃない。久しぶりー」

 恐らく、一番久しいであろう顔がそこにあった。

「すきありいぃぃ!」

「――っ!?」

 横を向いた瞬間、寛の拳が頬に突き刺さった。

 油断していたために為す術なく吹き飛ばされる。

「いっ……ってぇ! てめぇ、なにしやがる!?」

「真剣勝負の最中に余所見をする方が悪い」

「何を――っ!?」

 立ち上がろうとするが、視界が揺れて立ち上がることができない。

「ふふん、思ったよりダメージは大きいようだな」

 寛が不敵な笑みを浮かべながら、ゆっくりと近付いてくる。

 畜生、今のレベルなら勝てる――つーか、不意打ちを喰らわなければ勝てた筈なのに。

「では、これでとどめだ」

 万事休すか――!

「――そうそう。沢村くんちょっとこの娘見てよー」

 そこで再び空気の読めない女登場。

「あ、寛さん邪魔」

 そして、寛を片手で突き飛ばした。

 ――戦闘終了。

「あふん、お父さん負けちった……」

「そんなのありかよ……」

「いいじゃんいいじゃん。それよりさー、みてみてー」

 と、景は片手で抱いている少女を目の前に差し出した。

「あ、沢村様……お久しぶりです」

 抱き上げられている少女が、深々と頭を下げる。

 十にも満たない少女ではあるが、知性溢れる顔立ちには覚えがある。楓だ。

「おー、楓か。久しぶりだな、元気にしてたか?」

「お蔭様で。沢村様こそ壮健そうで何よりです」

 もう死んでるけどな。

 幼くなってもお堅いところは相変わらずのようだ。

「ねー、可愛いでしょー? 幼い顔立ちとメガネの奥から滲み出る知性のコントラスト、もうお姉さん辛抱ならんですよ」

 抱きしめながら楓に頬ずりをする景。楓は控えめに抵抗して見せるが、体格の差もあって効果はなかった。

「浮気なんかしたら小夜が泣くぞ」

「小夜ちゃんはもう立派に独り立ちしたから大丈夫でーす。それに、私にはこの世の全ての子供を愛する権利があるんだから」

 その愛を拒否する権利は子供にはないのか?

 ……ないんだろうな。

 景と楓は共に俺の部屋に住んでいるらしいが、やはり楓のことを考えると景とは距離を置いたほうがいいだろう。何しろ、楓が不憫すぎる。

 今のうちに話しておいた方がいいかもな。

「あー、景。物は相談なんだが」

「んー、なにー?」

 景はご機嫌宜しく楓いじりを続けている。

「今日からお前は春花の部屋に移動してもらうからな」

 頬ずりしていた首が、凍った。この機とばかりに景の腕の中から楓が抜け出す。

「それと、できたら楓とも別の部屋になってもらう」

 停止ボタンを押したかのように、景はピクリとも動かない。

「ちょ――」

 暫くして、ようやく口が動いた。連動して体も時間を取り戻し始める。そして、

「ちょっと待ってよー! それって横暴すぎない!?」

 一気に爆発した。

 予想通りの反応だ。ワーギャーピーギャーけたたましいことこの上ない。

「元々は俺の部屋なんだから文句は言わせんぞ」

「横暴だー! この家を最初に占領したのは私だぞー!」

「知るか。そんなに楓といたけりゃ、楓みたく小さくなって六女にでもなるんだな」

 六女になるということは、即ち楓より小さい子供――幼女になるということだ。それではミイラ取りがミイラになってしまう。

 成る程。だから楓はあんなに幼くなったのだ。そう考えれば全て合点がいく。

 全てはここに繋がる伏線だったのだ。

「うぅ……困ったなぁ。自分が小さくなったら、小さい子を触っても楽しくない……」

 …………。

 この女ロリコンめ。

 なら自分の体でも触ってろ。

「大体さー、楓ちゃんと別部屋って、どこに行ってもらうのさー!?」

「う、そう言われれば確かに……」

 楓が住めるスペースはないように思える。

「私と同部屋はダメだし、司くんと同じ部屋も問題あるんじゃないのー? 詳しくは言わないけど」

 いやらしい笑みを浮かべ、景が反撃に入る。

「くっ……」

「居間なんかで寝させるのは可哀想だしー、他の部屋も先客がいるしー」

 景の言い分も尤もだ。

 寛と真純さんは夫婦として体を成しているので無理、青葉は問答無用で却下だ。準だって拒否するに決まっている。

 みんなを納得させる部屋割りにするには、少々難しい。

 楓の顔を見やる。

「あの……私のことならご心配なく」

 新参者ですから贅沢は言いません、と笑っては見せるが、どこか笑顔が痛々しい。

 このままいたいけな少女をロリコンの餌食にしていいものか。いや、よくない!(反語)

 だが、それならどうすればいいのか?

 いくら考えても妥当な案が出てこない。

 そんな俺を見て勝利を確信したのか、景は嬉しそうに笑う。

「じゃあ、やっぱり私と――」

「――じゃあ、私が預からせてもらう」

「――って、えぇー!?」

 突然、横から提案してきたのは準だ。俺も驚いたが、実の妹である景の方がもっと驚いていた。

「俺はそれで構わないが……いいのか?」

「な、何故です!? 準姉さん! 私の唯一の楽しみを取らないでー!」

 四つん這いになり、涙を流しながら景、必死の訴え。

 しかし姉は動じない。

 つーか、自分の発言に少しは恥じろ。妹。

「妹の歪んだ趣味で被害者を出すわけにはいかないから」

 準はさり気なく楓を見やった。

「……それに、コネは作っておくに越したことはない」

 成る程。姉は金銭欲で妹は性欲、どちらにも楓を欲する理由はあるということだ。

 だが、準の楓を見る目は、もう少し違った種類の――強いて言うならば、母性のようなものが篭っていたような、そんな気がした。

 

 

「よぅし! 問題も解決した所で、皆の者ちゅうもーく!」

「うぉ、いつの間に!?」

 先程までそこでのびていたはずの寛が、みんなの中心に立っていた。

「長き漂流を経て、我ら高屋敷家+αはようやくこの場所に戻ってくることができた! これも偏に私が大宇宙真理教の教えを尊んでいたからに他ならない!」

「いや、そこは全力で違うだろ」

「いいや、そうでなければ末莉をお雑煮で殺した殺人犯が天国に行けるはずがないではないか!」

「そういうさり気なくナイーブになる発言はやめろ!」

 冗談抜きで結構気にしてるんだぞ!

「まぁそれはともかくとして、だ。我々は誰一人欠けることなくこの場所に再び集まることが出来た――」

 寛が不敵な笑みを浮かべた。

 この後に続く言葉。それはこの場にいる全員が簡単に予測できるものだろう。できないはずがなかった。

 

「――ここで、私は再び家族計画を提案したいと思う!」

 

 そして予想通りの言葉を、寛は高らかに言い放った。

「だが勘違いしないで欲しい。我々が生前に行った『家族計画』とはあくまでも互助契約。互いが互いの利害を補うために『家族』という最も適した形態を取ったに過ぎない」

 そう、確かにそうだった。最初だけは。

 しかし、いやいやながらも一緒に過ごしている内に、本当の家族のような連帯感が生まれてしまったのだ。

……不覚ながらも。

「確かに今の我々には互いに助け合う理由など何もない。住む家がないわけではないし、金がないわけでもない、何かから逃げる必要もなく、身寄りがないわけでもなく、再起を掲げているわけでもない……」

 拳を握り締めて力説する様は、どこか懐かしい。

 みんなも微笑ましそうに演説する寛を見つめていた。

「しかーし! 我々は生前の計画で利害関係を超える素晴らしいものを築き上げた! 利害や効率などではない、それらを超える『家族』であるために本当に必要なものを我々は手に入れたのだ!」

 そう、だからこそ俺達は今、ここにいるんだ。

「我々が手に入れたものとは一体何か……」

 寛はどこから出したのか、ホワイトボードに大きく文字を殴り書きしていく。

「――それは『絆』だ」

 寛はホワイトボードに書かれた『絆』の文字をコツコツと叩いた。

「利益や見返りが一切なくても、共に生きていける存在――すなわち真の意味での『家族』になるための計画、これが今回私が提案する『家族計画』であーる」

 こほん、と咳払いをして寛の演説は終わった。

「そんなこと言われなくても、みんな最初からそのつもりでここに来たんだから」

 真純さんの言う通りだ。

 この中で、誰一人として寛の演説を聴く必要があった者などいない。

 計画は始める前から成功している。

「そうだな。俺達はもうとっくに『家族』になってるんだから、わざわざ『家族計画』を立てる必要がない」

 家族に対して『今日から家族になりましょう』だなんて変な話だ。

「まあでも……寛の演説がないと始まった気がしないっていうのは確かだな。うん」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 そこで突然襲い掛かる沈黙の視線×5。

「な、なんだよみんな揃って……」

「いえ、何だか司くんらしくないなー、って」

「あなたが寛さんのフォローをするなんて珍しいわね」

「司、死んだからって羽目を外しすぎ」

「沢村くんって、そんな臭い台詞を言えたんだねー」

「ツカサ、はずかしー」

「…………」

 ……そんな冷静に突っ込まれたら恥ずかしくなるだろうが。

 しかも一斉に。

「うっせー! あんまり調子乗ってると、お前らの今際の言葉をばらしてやるからな!」

俺はお前らの弱みを握っているんだ。

「うっ」

「それは困る……」

 途端に黙り込む準と真純さん。

 どうだ、逆らえまい。

「イマワってなにー?」

 しかし春花は動じない。というか通じてない。

「そんなことをしてみなさい――呪い殺すわよ」

 青葉に至っては逆に強迫する始末。

「あれ? 私って死ぬとき何か言ったっけ?」

 そういえば、何を言う間もなく死んだ奴もいました。

「もう俺の負けでいい……」

 一番重要な奴らに効果がないのなら意味がない。

 俺の完全敗北だった。

「――さて。家族ぐるみのコントも済んだところで、そろそろ飯にでもしようではないか」

「お前が一番言ってはいけない台詞だよな、そういうのは」

「今日は司くんの歓迎パーティね」

「腕によりをかけてお料理を作りますよー」

「わたしも作るよー」

「私も僅かながらお手伝いをさせていただきます」

 今日は豪勢な食卓になりそうだ。

「私は手伝わないけどいっぱい食べるー」

「うん。景は帰っていいよ」

 宇宙の果てとか、どこへなりと行ってくれ。

「さあ、皆の者引き上げだ。これ以上ここで騒いでいてもご近所迷惑になる」

 寛の一言で、ぞろぞろと玄関へと向かっていく高屋敷家一同。

 

 

 

「――ん、ああ。そうだ司よ。そういえばひとつだけお前に言い忘れていたことがあった」

 

 先頭にいた青葉が、戸に手をやるのと同時だった。

「言い忘れていたこと?」

「そうだ。私としたことがすっかり忘れたいた。――なぁ、みんなもそうだろう?」

「あ、そういえばそうねえ」

「すっかり忘れてたよー」

「ドタバタしてましたからねー」

 みんなは寛の目配せ一つで解ったようで、青葉と準は気恥ずかしそうに、残りは嬉しそうに笑っている。

 なんだ? 何を言い忘れてたっていうんだ?

「覚悟は良い? 沢村くん?」

 景の「せーの」という合図で、みんなが一斉に息を吸う。

 そして、一瞬の後。

 

 

「――おかえりなさい!」

 

 

 ああ。そうか。

 そうだな。

 

 

「――――ただいま」

 

 

 

END

 

 

戻る