<Don't say goodbye>
兎にも角にも、大学病院のインターンというのは忙しいものである。仕事内容が楽ではないというのもそうだが、プレッシャーによる精神的疲労の方が大きい。人の命を救う仕事に関わるという責任感、気を緩めていては幾ら見習いとはいえ勤まらない。
僕がこの病院に勤め始めてから何日が経ったのか。
それすらも分からないほど、この病院で過ごす日々は慌しく、ハードなものだった。
だが、その苦労が解消される出来事も多い。
一言で表すのなら、それは患者とのコミュニケーションである。
人のことは言えないが、この病院には少々変わり者が多い。
まずは屋上によく居ついている『 』。彼女は長年父親から虐待を受けていたらしく、少し前に大怪我をしてこの病院に運ばれてきた。昼休みの休憩時にはよく屋上で話をしたりする。少々背伸びして生意気なところもあるが、歳相応のあどけなさを残した可愛らしい女の子だ。
次は中庭で気ままに遊んでいる『 』。小さい頃、近所で幼馴染だった女の子だ。今でも当時と変わらずこちらに懐いてくるのは気恥ずかしくもあるが、やはり嬉しいものだ。ただ、肝臓に重い病気を持っているらしく、そこのところが少々心配でもある。
資料室に居座っている女の子もいる。確か名前は『 』。彼女は交通事故に遭ってこの病院にやって来たらしいが、命に関わるような重傷という訳でもなく、比較的早く退院できるので飄々とした入院生活を送っている。ある意味、一番気楽に付き合える患者でもある。
後は――今思い出しても悲しい、『 』。心臓に疾患があるとかで長らく入院していたのだが、先日急に体調を崩して亡くなってしまった。そんな風には見えないほど気丈だったのだが……人は見かけによらないものだ。
他には――誰かいたっけ? いたようないなかったような。退院した人は? いなかった? まあ、退院したのなら喜ぶべきことだ。そういうのはどうでもいい。
そんなことを考えている内に、僕はとある病室の前に辿り着いた。確か新しく入ってきた――誰だったっけ? そんな人はいたのかいなかったのか。
よく分からないがドアを開けてみる。回診はちゃんと行わなければいけない。後で『 』さんに怒られてしまう。
夕暮れの病室。沈みかけた朱色の光がドアの隙間から差し込んでくる。逆光が酷くて思わず目が眩んだ。
「……え――?」
ふと、光の中に何かが見えた。
それは患者には違いないのだけれど。
どこか神々しく、どこか禍々しく、どこか綺麗で、どこか醜悪な。
はねの――――はえ、た――
◇
――主観とは個々人の世界を模る映写機である。
聴覚視覚嗅覚味覚触覚の全て、又はそれを超える何かも用い、人は人それぞれの『世界』を映し出し、それに従い生きている。
我々が五感を行使することによってそれは形を成し、この世に存在する。それは即ち、主観によって世界は成立しているということだ。言い換えるなら、世界は主観なくしては成立しない。
人の主観を以って、世界は初めて形を持つ。
我々が見ることにより絵画は初めて彩を放ち、聴くことにより音楽は初めて空気を唸らせる。料理は味を具え、花は匂いを滾らせ――自動車は人を轢き殺す。
また、個人の主観とは唯一無二である。誰も他の主観を自分の主観によって認識することはできない。
そこで世界に対する疑念が生まれる。
――我々が個々の主観によって共有している『世界』という舞台は、本当に同一なのだろうか? と。
私はそれを『赤い』と言った。
隣の誰かも『赤い』と言った。
『それは赤である』という社会的認識による知覚。『赤』と学ぶことによって知り得る認識。
――だが、果たして、その『赤』は本当に同じ『赤』なのだろうか?
私はそれを『甘い』と言った。
隣の誰かも『甘い』と言った。
――だが、果たして、その『甘い』は本当に同じ『甘い』なのだろうか?
疑念はあれど、五感による共通の認識の差異を確かめる術はない。
しかし、それでも世界は問題なく回っている。たとえ『それはそれである』という認識に差異が生じていたとしても、その差異によって認識に誤差が生じることはあり得ないからだ。
そして人は生きる。確かめようのないこの世界で。
何が真で何が偽なのか、その疑問を先送りにしたまま。
真を真であると確かめないまま、偽を偽であると疑わないまま――
――そう、彼の生き方はその疑問の果てに存在している。
五感全てを欺き、目の前に存在する世界を歪め、真偽の程すら放棄した生き方。
彼にかかれば三畳もないコンクリートの牢屋はたちまち広大な校舎に変わる。多くの人間が通う病院にも、どんなものにでも。
彼の視覚は世界に多くの人間を生み出し、聴覚は会話を成立させる。嗅覚はそれらにリアリティまで付加させる。
傍から見れば、それは継ぎ接ぎだらけの滑稽な世界なのかもしれない。しかし、傍の主観は関係ない。大切なのは、彼の主観なのだ。
彼の主観によって、彼は世界を生きている。
既に現実も妄想もその体を無くした。混沌とした世界の中で、彼は混沌と生きて――死んで――いくしかない。
決して救われることはない。
傍の主観で救われることは。
◇
――僕がこの学校に赴任して何日が経っただろうか。まだ一月も経っていないだろうが、もう何年も勤めたように感じる。
その時の流れの遅さが、赴任してからの僕の苦労を表しているのだろう。緊張に次ぐ緊張、問題に次ぐ問題。本当に、赴任してから今まで何をしていたのか思い出せないくらいだ。
だが、その大変だった日常も、学校に馴染んできた今となっては逆に清々しく感じる。
本当に、この学校にしてよかったと思う。
僕が赴任した学校は教育実習に訪れた学校だった。
ありがちな話だと思われるかもしれないが、それでも僕は構わない。僕はずっと考えていた。教育者として弁を振るうならまずは全てのきっかけとなったこの学校から始めようと。
教育実習生として訪れた時にいた生徒はもう卒業してしまっているのは悲しいが、僕には新しい生徒たちがいる。教育実習生の頃に世話になった大森となえや高島瀬美奈もまだこの学校にいる。しかし、今は一教師としての仕事が忙しいので話す機会も少ない。教育実習生の頃とは負う責任も課せられる仕事も違うのだ。
「それにしても……」
思わず口から溜息が漏れる。ついでに独り言も。
「毎日居残る生徒の面倒を見るのも大変だ」
可笑しな事に、僕が担任を受け持ったクラスには問題児が多い。不良が多いという意味ではないのだが、妙な所で手を焼かせる生徒が多いのだ。
毎日屋上で惚けて帰ろうとしない『 』。場所を変えて図書室に居ついている『 』。こちらは図書委員だからまだいいのだが。他には歳の離れた近所の子の『 』。懐いてくれているのはいいが、他の生徒の前で「お兄ちゃん」と呼ぶのは頂けない。他にもまだまだいっぱいいる。いるのかもしれない。けど今日はもうよしておこう。
今、丁度『 』を屋上から帰して教室に向かっているところだった。『 』は僕が帰ってからこっそり戻ったりしてるのかもしれないが、そこまで疑うことは出来ない。第一、あの年頃の子になると色々あるものだ。それが非行にも走らず、屋上で惚けるだけで発散されるなら良いことじゃないのかと僕は思っている。
杓子定規な先生と生徒の関係ではありたくない。ちゃんと、教師である前に一人の大人として『 』と向き合ってあげたいのだ。
僕は自信を持って言える。みんな良い子だ。みんなみんな――
――と、感慨に耽っている場合じゃない。
危うく、ドアに衝突しそうになった。
僕はドアを一度睨みつけてから開ける。夕暮れ時の太陽は、教室の中を朱色に染めていた。
「ああ、こら。まだ残っているのか。もう下校時間は過ぎているぞ」
教室に生徒の姿を見咎めた僕は、教師らしく注意をした。女生徒の体が怯えたように跳ねる。
「……すいません。もう帰ります」
その女生徒は静かに、それでいて慌しく立ち上がった。鞄を持つと駆け足で教室から出て行く。
確か、この子の名前は――
「先生――」
――なんだったっけ。
せなかに、
「あ……」
なにか、
「――さよなら」
見覚えが――――あった。
「さよ、なら――」
◇
――傍の主観は考える。
彼が救われない唯一最大の理由。それは、彼の世界の全てが妄想で賄われていることに他ならない、と。
妄想は何一つ現実に作用しない。何故なら、妄想とは妄想をする者の頭の中にしか存在しないからだ。妄想の中で幾ら経験を積もうがそれは霞。自分の中の『確固たる何か』には成りえない。自分を支える柱には成りえない。乗り越えても彼の経験は塵ほども継ぎ足されない。
だから、現実と対峙した瞬間、全ては幻のように消えうせる。なかったこととなり、振り出しに戻ってしまう。彼が過ごしたまやかしの経験の中に、たった一つでも現と繋がるものがあれば、彼はそれを支えに乗り越えられるかもしれない。
しかし、現実も既に妄想に取り込まれ、一体化してしまっている。それは不可能な話だった。
溺れる者は藁をも掴む。しかし、彼が溺れている場所にそもそも藁は存在しない。掴んだとすればそれは水である。
藁を掴んだ妄想を見るか、それとも、溺れているということすら投げ出してしまうか。どちらにしろ、彼の体は深い水の底に沈んでいくしかない。
泳ぎさえすれば助かることもできたかもしれない。しかし彼は泳げない。そもそも泳ぐことは放棄している。最初から『泳ぐ』という選択肢など存在しないのだ。妄想の中の世界と同じように。
水に沈み、呼吸がままならなくなっても、彼は自らの妄想の中に生き続ける。今頃は掴んだ藁のお陰で陸に上がった場面だろうか。それとも、そもそも水のある場所になどはいなかったのだろうか。
どちらでもいい。彼の体は既に陽の光も届かない場所にある。その現実は変わらない。
酸素がなくなり、意識が薄れる中、人が最期に見るのは己の過去、走馬灯、天国、幸せな幻。
彼の主観によって彼は世界を生き、そして死んでいくのだろう。
最期に彼が生き、死んでいく世界は、一体どんなものなのだろうか――
END