「野中広務 差別と権力」 魚住昭
野中広務と言えば、私達の頭の中に浮かんでくるのは次の二つのシーンではないだろうか。数年前自民党の中でいわゆる「加藤の叛乱」という出来事があったが、その時、内閣不信任案に対して賛成・反対ですったもんだした挙げ句、〈みっともなく〉も涙を流し〈敗北〉した加藤紘一、その傍らでしてやったりと言う表情であった野中広務のあの老練狡猾な顔、そして昨年の衆議院選挙選挙の前に小泉首相に屈したような形であるいは抵抗の形で議員を突然引退した時の、無念さときっぱりした表情が交錯したような顔である。
私の野中広務に対する印象は一般的なそれと大して違わないと思う。京都の部落出身であり、国政の場に出たのは遅いが、典型的な古いタイプの自民党政治家であり、数々の権力闘争をくぐり抜け、政治的な駆け引きに卓越した能力を持った、いかにも老獪、いかにも権謀術数に長けた人物というものである。日本の政治家の本当に典型的な人だと思っていた。保守には違いないが、他の自民党長老政治家のように(宮沢喜一や河野洋平に見られるような)、先の戦争で辛酸をなめてきた体験から、平和や憲法9条に対しては、かなりのこだわりをもっている感じがしていた。実際今の民主党の若手(みんなとは言わないが)などより、はるかに〈ハト派〉だ。容貌がいかにも田舎の農家のおっちゃんという感じで、そこからも古いタイプの日本の政治家の臭いを色濃く漂わせている感じがしていた。
さてこの本は田舎の政治家でさらに部落出身である野中広務が厳しい差別の中で、日本の、そして百鬼夜行の妖怪達が蠢く永田町で、どうして権力の中枢まで上り詰めたのかというのを追いかけたドキュメンタリーである。
読む前に私はこの題名から、この本は生き馬の眼を抜くような政治闘争の中での野中の凄腕を描きながらも、どこかで彼の「平和主義」をその被差別部落での差別体験と結びつけ、さらに京都の田舎から出てきた野中が大衆の怒りや悲しみを代表する側面を持ち、従って弱者を切り捨てるようないわゆる小泉構造改革に離反していき、最後は決然と袖を分かったというような構図に納めようとしているのではないかと思っていた。
それはまあある意味ではその通りなのだが、だからと言ってこの本を読んで私の野中に対するそうしたイメージがより強まったと言うことはない。どちらかというと拡散してしまったような感じがする。自分も田舎出身だからいかにも農村出身という感じの野中に対して親近感が沸いてこないわけではなかったが、老獪だが絶対的な固い信念を持つ政治家というイメージはわいてこなかった。
作者も述べていたような気もするが、野中には実は強固な政治的理念というものはあまりなかったのではないだろうか。私はやっぱり野中が自らの出自を絶対的な核として、これだけは譲れない、部落差別だけは決して許さないという強固な意識を持ち、それをどこかで自らの政治的原動力の核心に据えていたと思っていたが、それもどうもなんか強烈に感じられなかった。
もちろん野中広務が部落差別に無関心だということでは絶対にない。彼は自分の出自についてはなかなか語らなかったそうだが、もちろん苛酷な部落差別を体験しており、町議や府議になる時も「部落出身の野中が…」というような露骨な差別を何度も体験してきた。部落差別を死ぬほど味わった一人に違いない。そして引退間際の総務会で「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」とどこかで言った(らしい)麻生総務会長に「絶対に許さん!」と述べたということであるが、必死に部落差別と戦ってきた政治家であることも間違いないと思う。しかし正直言ってこの本を読んだ限り差別と戦う野中の姿はあまり強いイメージとして浮かび上がってこない。もちろんこれは野中の自著ではないので、本当の彼の姿を伝えたものではないだろう。実際の野中は全然別の人間かもしれない。私達が部落のことを述べても当事者にしか分かるものかと一笑に付されるのかもしれない。しかし繰り返すが、「差別と権力」と題名に書いてあるほどにはどうもそうした側面はあまり強く浮かび上がってこなかった。この本の中にも登場しているが、かつての社会党の代議士であった小森龍邦などは本当に部落問題一筋という感じだ。それは彼が社会党であるとか、解放同盟の出身であるとか、国会で差別を取り上げたり、法律の制定に尽力したとかいう言う立場上だけのことではなくて、例えば昔かの「朝まで生テレビ」で部落問題を取り上げていたが、小森は何度も出演していたと思う。もちろんその席には解放同盟と対立あるいは別路線を歩む全解連あるいは全日本同和会(名前は忘れた…自民党系)なども同席して、激しい議論のやりとりがあった。小森はもちろん解放同盟の代表として議論に加わっていたが、他団体の解放同盟批判にも、きっと内心は怒り狂っていただろうが、極力穏やかに静かに、しかし自らのアイデンティティをかけたような絶対的といってよいほどの強い意志で議論していた姿を私はよく覚えている。二度ぐらいテレビで見ただろうか、私はこの人は本当に一つの信念で生きている人という感じがした。一人の人間として真底差別と戦っているという感じがした。自社連立という体制の後、社会党は解体してしまったが、そうした中で小森がとったスタンスにさらにこの感は強まった。もう落選して国会の場にはいないが、部落差別といった時に私は小森の姿を忘れることはないだろう。私が言うこの本からは部落差別と野中広務という政治家の間に絶対的な不即不離性が感じられないというのは小森に感じたようなものという、そういう意味においてである。
さてその次にこの本でも作者が多くのページを割いている、政治家としての野中の手腕である。京都の田舎の一町議が最後には日本の権力の頂点にまで上り詰めていくその過程はそれはもう本当にドラマを見るようだ。果てしなき権力闘争、激しい戦い、協調と確執、多くの政治家達、食うか食われるか、政敵をたたきのめすためのありとあらゆる策略、勝利と敗北、野中広務は卓越した政治的手腕で一歩一歩頂点に向かっていく。作者も言うようにむき出しの闘争心や冷酷性、反面大変な努力家でもあり、ここぞという時の決断力は群を抜いている、実行力、根回し、闇取引、人間関係の取り方の巧みさ、そして弱者に対する愛情、すごいというしかない。かつての京都の蜷川府政との対決、田中角栄との出会いなどの中で、日本という国の生々しい政治の世界の形相と連動しながら野中広務という一人の政治家の人生が描かれる。誰もがそう考えているし、誰もがそれはよく知っているはずなのだが、それにしても日本の政治というのはどうやって展開されていくのかを、改めてまざまざと見せつけられる。ありとあらゆる政治が、権力闘争の中で実行されているのがよくわかる。政治、行政、経済にかかわるどんな政策も権力闘争や利害関係の中、あるいは政党間の取引、あるいは時の権力者の一存で決められていくのがよくわかる。化け物・妖怪達の中で野中もまた辣腕ぶりを発揮して政敵をなぎ倒していく。
それはそれですごいのだが、やはりこの面においても私は、それほど野中に興味を覚えなかった。今述べたように野中はすごいやり手なのだろう。しかしこの本を読んで浮かび上がってくるのは、そうした面で言えば野中ではなくて(彼もすごいが)、やはり田中角栄や小沢一郎である。野中の政治的活動の中で当然こうした政治家の名前はしばしば挙がってくるが、私は政治家の権謀策術という面で言えば、はるかに彼らの方に興味をそそられる。地方の一庶民から政治の頂点まで駆け上がったという意味で言えば田中角栄に勝る人物はいないだろうし、永田町的政治の権化といえば例えば竹下登だろうし、権力闘争という意味では次々と政党を作っては壊してしまった(今も継続中だ)小沢一郎ほど興味ある人物もいないだろう。好き嫌いはともかく、また政治的評価はともかく、彼らは本当にある意味でそうした日本的政治の側面を代表している。この本を読んでも野中にそこまでは感じない
だから私はこの本を読んで野中に対する印象が拡散してしまったのだろうと思う。二流などと言う気は全くないが、どこか第一人者という感じが希薄なのである。変な話だが野中の評伝を読みながら、私はいつか書かれるであろう、小沢一郎や小泉純一郎の評伝みたいなものにより一層思いを馳せた。
そしてさらにこの本を読みながら、私の頭にずーっと浮かんで来るのは、この国に今現れている、あるいは現れようとしている(同時に消えようとしているのかもしれない)新しい政治現象である。旧来の日本的談合政治というか裏取引の世界から、確かに現首相の小泉は少々違うタイプのようだ。それはもう世間でよく言われているし、あるいは小泉は従来の派閥力学からは遠いと言っても、理念だけでまさか厚生大臣や総理大臣にはなれまいから、実はやはり野中に勝るとも劣らない手練手管の持ち主ではあろうが、それでも今回の閣僚選任や少し前の自民党からあれほど激しい反対や中傷があっても竹中平蔵を依然として大臣に据えたり、あるいは道路公団で猪瀬直樹をメンバーに残したりしたやり方などを見ていると、妥協や義理・人情よりはある程度理念・政治信条を優先させていると思われる。二度の北朝鮮訪問や何が何でも郵政民営化などは、いかに批判されようと、あるいは成果の是非はともかく、絶対に従来の政治家達ではできなかったことに違いない。
政策こそ政治の中心と言いながら、特定政治家・特定団体の為だけに談合を繰り広げてきた今までの政治の中に新しい潮流(というか変な流れ?)を小泉純一郎は確かに作り上げた。小泉擁護の気持ちはさらさらないが、時折見る彼の国会答弁はどこかの高校の誰かの話よりはるかに生々しく本音に満ちている。官僚的答弁もむろん多いが、えっと思うような虚飾抜き発言も随所に見られる。私だってこんなにはっきり言えないと思うようなことまで小泉総理は言う。
民主党の一部の若手にもあるいは一部の知事にもそうした政策本意の姿は確かに今現れつつあると思う。私が興味深いのはこれらの動きが一時的なものであり、いずれ国政も地方政治も再び〈野中〉的な旧来の政治に戻るのかと言うことである。政治の世界だけではない、私達にごく身近には〈野中的世界〉が至る所にあふれかえっている。野中広務ほどの凄腕でなくても、似たような人間はそこら中にごろごろいる。「やっぱりなんやかんや言う手も力関係やで」「あの人に任せといたら…」などという世界はどこかで人間世界の普遍的あり方であるという考えが私にもある。だが同時にその一方で、それが普遍的であってほしくないという私の個人的な夢想がある。
野中広務の「差別と権力」を読みながら最後に思ったのは、今後の政治構造ひいては人間社会の行く末である。「談合」が再び席捲するか、それとも「理念」が勝る時代が到来するのか、これから興味津々だ