この世に恨みを残し、死にたくなくても
死ななければなかった
甲高く、張りのある音が響く。
その音色は時に切りつけるような鋭さがある。
まるで誰も近づけまいとするような刺のある音。
それなのにどこか焦りと怯えが滲んでいて
聞いているほうはその刺に突き刺されても
そばに駆け寄ってやりたいような気にさせる。
だから、
女はその扉を開けた。
日本には芸能と言うものが多くある
浄瑠璃草子
誰かが、音のない叫びを上げてる
「…どうしてサークルに入らないんだ?」
思わず声のほうに顔を向けると茶色い髪を一本に絞るように結んだ人物が
扉付近に立っている。相手は口の端をあげて笑いながら言った。
「随分といい音を出すじゃないか」
女優にたとえると江角マキコと鈴木京香、それから松雪泰子を足して3で
割ったような雰囲気タイプの女性だった。
俺が何もいえないでいるのも気にしないで俺のそばまで来る。
立つと俺とギリギリ並ぶか、僅かに相手のほうが小さいくらいだろう。
俺もそんなに背が高いわけでもないがそれでも172、3cmはある。
「珍しいな、若者が三味線を弾けるなんてな」
「…偏見だぞ、それ」
ああ、解ってるよ。と肩をすくめながらまた口の端を上げた。
「バンドに三味線が組み込まれているグループがあることくらい知ってる」
「…失礼だけど、誰・・?」
相手に聞くと口の端両方の上げた。とても自然な笑いだった。
「私か? とうじょう かおる。漢数字の”十”に一条天皇の条の旧字で”條”
匂いの香りの”か”に…それから浄瑠璃の瑠…十條 香瑠だ」
「なんともいえない字を使ってるな…」
口調が男の俺よりも男らしいとおもったがそれは言わなかった。
単純な感想を言うと”とうじょう”と名乗った相手はまた大声を上げて豪快に笑う。
「よく言われるよ。えーと、君は…北村 隆司(きたむら りゅうじ)でよかったな?」
また、含み笑いをする。
「泰智さんが”君”は、私と同じ大学に居ると聞いてな。どんな男か見にきた」
「兄貴の知り合いか?」
泰智(たいち)というのは俺の兄の名前だった。
皮肉めいた笑いを更に深める。
「…どういう知りあいだよ。あの人、女ッ気ないので有名だぞ」
すると、相手はわずかに目を見開いたようになり、今度はなぜか笑いを無理に
隠したような形容しがたい表情を作る。
「?なんだよ」
「いいや」
さっきまで皮肉めいた笑いをうけべていた相手は眉毛を少し上げてほんの少しだけ
笑いを拳にした手で口元を隠した。
「私は彼と付き合いがある」
「それって彼女ってことかい?」
返事はなく、ただ、二ィと笑う。
一瞬。世界が凍った。
大声を上げそうだったが上げなかったのはむしろ絶句したからだろう。
「驚いたみたいだな」
俺の様子を見て香瑠と名乗り、且つ兄の恋人だとも言った相手は又笑う。
「よかった」
「うん?」
「いやー、あの人一生彼女とか出来ないんじゃ…て心配してけど、杞憂だったみたいだ」
よかったよかった。
ただ、兄の好みタイプがこういう女性だったとは知らなかったが。
「大体あの人は中学から大学までずっと男子校だったし、おまけに…」
「恋人は人形?」
さえぎるように、言われた言葉に思わず三味線を落しそうになる。
「あの人浄瑠璃一筋だな?それの話をするときだけはとても目が輝いてる」
やはり兄は恋人である彼女を差し置いて人形に打ち込んでいるらしい。
「さっき良かったと言った手前、こういうのもどうかと思うけど、
苦労することになるよ。…大丈夫かい?"十條"さん」
「”香瑠"で構わないよ。"隆司"君」
香瑠さんは苦笑して近くにあるイスを引き寄せ、俺と向かい合うように座った。
そうですか、と俺は肩をすくめる。
出会ってすぐの相手を名前で呼ぼうという気はしなかったが相手からの
要望なら呼ばないわけには行かない。
さすがに、いきなり呼び捨てや、妙なあだ名で呼べといわれた場合は
一生相手を苗字で呼ぼうと決意を固めるが…。
「兄は幼少のころ浄瑠璃を見てね。それに魅入られた。俺も一緒に見に行った」
何が良かったということはいえない。
現代のはやり美人でもないのに、人形が綺麗だと思った。
しかし、物語は大抵、悲しいものばかり。絶対に幸せになることはない。
それが酷く悲しくて、逆に美しさを生んでいたのかもしれない。
芸能と言うものは歌舞伎などではどうかは良く解らないが、
浄瑠璃などでは明るくて幸せなタイプの話は題材にならなければ、
主人公にもなりえないらしい。
元々、浄瑠璃をはじめとする芸能には供養の意味があって、それを成し遂げる為には
決して明るい話ではいけない。
死にたくない、しかし死ななくてはならなかったという
悲しく運命に飲み込まれた者の運命を見た者が、それを悲しんで哀れむことに
よって、この世に未練や恨みを残す魂を慰めるのだと言う。
とある友人が言っていた。
そして同時に、
日本の芸能は美しく、誇り高く、そして長い歴史がある。
しかし、
芸能が多いと言うことはそれだけ、供養しなくてはならないことが多くあった。
日本という国は悲しい国なのかもしれない、と
「兄貴ほどでないけど、俺もアレは幼心に何故か響いたよ」
「だが、君は三味線をとった」
「俺はどちらかと言うと、三味線の音が異様に気になったんだ
だから、俺はいまこの手に三味線を持っている」
両手で三味線を持ち上げて見せる。
「ところで、兄貴とは結婚を前提にお付き合いを?」
香瑠さんは笑い出したが俺には結構重要な質問だった。
「もしそうなら、香瑠さんは今以上に大変になるし、将来、俺の義姉になる」
「”結婚”すればな」
それに、と彼女は続けた。
「父が文楽人形師なんだ」
「兄貴との出会いはそれか」
女性とのかかわりといえば、やはり浄瑠璃関係でしか
なくなってくる。今は特に世間とのつながりを切っているといっても
過言ではない。
それは人間関係にも該当するらしく、
彼女が、わざわざ俺に干渉してくる理由もわからないではない。
「彼が人形師になるわけにもいかないだろう」
「ということは将来は香瑠さんが継ぐってことか」
「いや、私も妹も、家を継ぐ気がないから父も困ってる」
香瑠さんがくすくすと笑っているが実際に彼女たちの間では
いろんな問題が渦巻いているのだろう。
後継ぎという問題は軽視できないので余計だ。
「妹がいるんだ?」
「ああ、私とは6つ離れてる」
「へぇ、そりゃまた…」
香瑠さんの実年齢は知らないが、予想的に二十歳して
その妹は大体14くらいだろうか。
青春真っ盛りの14歳の子まで巻き込んで、後継ぎ問題とは…。
香瑠さんにばれないようにため息をつく。
「隆司くんはそれで食っていくのか?」
香瑠さんは俺が両手に抱えている三味線を指差して言った。
俺は苦笑して首を振った。
自分の実力など高が知れている。
「なんにせよ、香瑠さんと話せて楽しかったよ。
将来、義姉さんになるにしても、ならないにしてもさ」
三味線を傷つけないように気をつけながら立ちあがって言った。
ずいぶん長い間話をしたような気がする。
と、いうよりも、"個人"と話をしたのが、と言うほうが正しい。
「行くのか」
頷くだけの返事をして、三味線を片付け始める。
「ここに居る確率は高いか?」
「低い。っていうか0%」
言い切った俺に案の定、香瑠さんは眉を潜めていた。
「…人には内緒だったんだ。とくに、兄貴の彼女ならなおさら」
言葉を捜している香瑠さんにあえてその隙を与えずに続けて言う。
「あの人には内緒なんだ。三味線が弾けるの」
彼女が特に言葉を発しなくとも視線だけでその理由を問い掛けている、
と感じたのは、多分気のせいではないだろう。
「…あの人は俺をあの世界に入れたがらない。それだけ」
俺は自分の荷物を肩にかけ彼女が入ってきた扉を開けて、
彼女のほうは向かずに さよなら、といった。
静まった廊下を歩きながら、出てきた部屋からイスを
引きずる音が聞こえた。
香瑠さんがイスを元の位置に戻した音だろう。
確かにこんなに静かならキャンパスに
残っていれば三味線の音が聞こえるのは当たり前だ。
もっとはやく気が付けばよかった
そうすれば、彼女に会うことも、三味線のこともばれなかった。
しかし、もう起こった事象をどうすることも出来ない。
また新しい場所を探せばいい。それだけだが…。
「兄貴に彼女が居るとは知らなかった」
兄のことだから、浄瑠璃人形みたいな大和撫子が好みかと
思っていたが、現実と理想は違うらしい。
俺が彼女のことを知らなかったとなると、まだこっちの両親に彼女を
紹介していないことになる。
果たして、兄がどのあたりまで彼女のことを考えているのか…。
「そのことはあの二人の問題だ。俺が口出しすることじゃない」
声が響いたことに驚いて、ふと独り言を言っていたことに
気が付いて苦笑する。
独り言なんて悪い癖だ。他から見れば奇妙この上ない。
どちらにしろ問題なのは
今日、彼女に会ったことも遅かれ早かれ兄に知られる。
彼がどういう反応をするのか、解りきっている。
よく考えれば要らない事をベラベラと喋り過ぎた。
多分、彼女は兄貴にいろいろと聞くだろう。
それで…。
手先が冷たくなっていたことに気が付いて両手をさすった。
指
俺はこれのためだけに生きていた。
たとえ、これを職業に出来なかったとしても。
これを奪われるってことは存在意義どころか、命を奪われたといってもいい。
「今日、家に帰るのは止めようかな」
話し相手などいないのにつぶやいた。
明日の大学の講義を休みたくないし、かといって教材も基本的に置き勉して
いないから家に帰らないとそれはそれで辛い。
もし、家に帰るなら、”あれ”をしなくてはいけない。
「…あれ、痛いし、金かかるから嫌なんだけどな…」
だが、家に帰るなら、”それ”が必要だろう。
それをするだけで指が守られるなら…場合によっては死ぬ可能性も
なくはないが指を折ったりするよりはマシだ。
赤色の色彩が視界の端を横切ったので無意識にそちらに目が行く。
キャンパスの前に設置されている掲示板だった。
牡丹の花を刺繍した着物を纏う浄瑠璃人形のポスターが
貼られてる。
とある期間から上演される浄瑠璃の告知らしい。
「…写真じゃあんまり解らないな」
これの良さはやっぱり、語り部、三味線、操り人たちが集まって
初めて現れる。
確かに人形だけでも勿論美しいのだが…。
浄瑠璃を見ていると、ふと人間も実際は 操られているに
過ぎない気がしてくる。
「人の行動は三つの事象から…か」
三百年くらい前の浄瑠璃・・・つまり、近松門左衛門や竹本義太夫の
活躍していた頃の浄瑠璃人形は一人で操っていたらしいが・・・。
現在の浄瑠璃人形は三人がかりで操る。
それが時々どこかの国の3人の神様のように思える。
人間もそうやって操られているのではないだろうか。
運命というよりも、三つの事柄の繰り返しによって。
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