World falling down |
どうしてその話になったのかは、実は覚えていない。 手塚は自分たちとテニス関係の会話を全くと言っていいほどしなかったし、特に弦一郎とは不自然なくらい その手の話題を避けていた。 一度も聞いたことのない、全く知らない名前だった。仮にも一年前まで青学の部長を務めていたはずなのに、 向かい合う柳はその時まで、耳にしたこともなかった。 選手として決して上位にいた人間ではないだろう、そう判断した。団体でも個人でもいい試合をしてさえいれば、 情報収集に余念のない先輩やOB達が放っておくはずなかったからだ。 「…いい人だった。」 ただその名前を口にする時、手塚は瞳の奥を揺らめかせた。密やかに、長い睫毛を二度瞬かせて。あくまで平坦に 呟かれた声が、周囲の絶え間ない会話に紛れて消えた。 「そうか。」 それが一体誰なのか確認のしようもないから、柳は頷くことしか出来なかった。果たして本当に前が見えているのかと、 部内では評判にさえなっている長い前髪の中で視線を降ろす。真夏の厳しい気温に店内のテーブルはすべて埋まっていて、 こちらは何度も耳にしたことのあるオールディーズが流れ続けていた。 「ああ。」 明確な答えは、最初から期待していなかったのだろう。手塚の視線がもう一度、眼鏡と窓、ふたつの透明なガラスを 通り抜けて外へ戻る。空は相変わらず雲ひとつなく、どんな影が差し込む気配さえない。店内から見る外の景色は固い アスファルトから沸き上がる熱気に揺らめいていて、照りつける日差しの強さが伝わってくるようだった。 大和。大和祐大。 明日、部室に行けば資料があるかも知れないとも思ったが、期待するだけ無駄だとも思った。零式ドロップショット とか言うちょっと普通の人間では思い付きそうにない、大袈裟な名前。それを命名した選手は、その他大勢の中に埋もれて しまっているだろう。 「手塚。」 柳の小さな呼びかけに応じて、窓の外を見つめていた視線が戻って来る。静かな瞳はもう、どんな色も伺わせなかった。 「どうした?」 ひとつひとつの仕草はとても流暢に映るけれど、テニスプレイヤーとしては不利な骨格でしかない細い指が自分のグラスを 引き寄せる。どうやら気に入っているらしい、ここに寄ると決まってオーダーする青茶を口にした。 どこが。 言葉にしかけて、柳はやめた。恐らく自分たちから見れば取るに足らないような選手のはずだっただろうから。事実、 その名前を聞いたこともない。そもそも青学自体がここ数年、全国へ出場していなかった。 「何でもない。」 「…変なヤツだな。」 けれど手塚にとっては、何よりも大きな意味を持つ名前なのだろう。かすかに苦笑するような調子に、肩を竦めてやり過ごす。 お互いが追求しない性格だということは、こんな時に楽だった。 「お互い様だ。」 路面沿いの窓から差し込む日差しが、テーブルの上で雫を纏わりつかせているアイスティのグラスに薄い影を作っていた。 ちらりと、手元の腕時計へ視線を移す。ここで長居は出来ないだろう、手塚はすぐに体を冷やす。少し遅れると連絡を寄越して 来た真田がやって来るまで、冷房の効き過ぎたこの店内で時間を潰すわけにはいかなかった。 「お前、もう少し前髪を切った方がいいぞ。目が悪くなる。」 珍しく手塚が他人のことに口出しして来たので、今度こそ苦笑する。わずかに眉を顰めてこちらを見つめて来るから、 曖昧な答えで逃げることにした。 「そうだな、考えておくよ。」 本当に不思議なことだったけれど、接点の限りなく少ない果たして友人と呼べるかどうかさえ怪しい目の前の人物に、 柳は気構えることがなかった。 もう定着してしまったような感じのする、手塚を表すときに使うあの言葉 ― 無敗のプレイヤーというのも実は柳に とってどうでもいいことだったし、仮に自分がコートで対戦したとしても心置きなく戦える自信はあった。 とは言っても、珍しく時間に遅れているあの男が今乗っているはずの地下鉄と一緒に消え失せでもしない限り、 自分が手塚と対戦するようなことは有り得なかったけれど。 「真田もそうだ、見ていて鬱陶しい。夏だから余計にそう思う。」 「…あんまりお前に言われたくないのは、気のせいか?」 心外だとばかりに眉間に皺が寄ったので、窓の外へと視線を逃がした。その中途半端な長さはどうにかならないのか? 心の中で呟くだけにして。所詮は似た者同士のような気がするのは、どうやら自分だけらしい。 「もう少ししたら、出ようか。この先に、新しく出来たショップがあるから。」 「真田を待たなくていいのか?」 「駅に着いたら連絡するように言ってある。」 ここより空調が少しはマシだといい。意味なく服の品定めをしていれば、時間は過ぎるだろう。今日観る予定になって いる映画には、余裕で間に合うはずだ。 「そうか。」 小さく頷いた手塚が、もう一度窓の外へ視線を移す。ふたり揃って、街の景色を眺めるような形になった。 日差しは衰えない。雲ひとつ見当たらない。行き交う人は皆、疲労の色を滲ませていた。よくある真夏の午後だ。 そのまま会話の途絶えた世界の中で、ひとり柳は残酷な予感を感じていた。 どんな情熱も、その名前には勝てないかも知れない。手塚の視線の先には、決して誰も踏み込めない感情がある。 大和祐大。 聞いたことのない名前だ。けれどその名前は。 遠いところで、車のクラクションが二度鳴った。 後方から、まるであの時と同じように車のクラクションが二度鳴って。些細な偶然に、らしくもない感傷が声を かけるタイミングをひとつ遅らせた。 「弦一郎。」 広い背中は振り返りもしない。肩にはいつものようにテニスバッグだ。二度と取り戻せないものなど、この暮れゆく 世界にはひとつも無いような気さえする。 返事は最初から期待していなかったから、ひとり続けることにした。 「許してやれ。」 変わらなかった歩調が止まる。朱色に染まった世界の中、それでもこちらを振り向くことをしない視線を待った。 あの日聞いた感情の薄い声と、瞳に浮かんだ揺らめきを思い出しながら。 あの日は、とても暑くて。遅れている弦一郎を待つ間、暇つぶしに立ち寄ったショップで絶対似合わないと思うような 色の服をお互い真剣に押し付け合った。生真面目な顔で手塚が持って来た、恐ろしく派手なジーンズに降参して後から やって来る弦一郎に着せてみようとつまらない悪戯を企んだりもした。 二度と手塚は、その名前を口にしなかった。内に秘めた感情を垣間見せるようなこともしなかった。 大和祐大。 どんな人だったのだろうと、初めて思った。決して自分たちには理解することの出来ない感情だったとしても、 あれほどの情熱を手塚に受け継がせた人間のことを。 もしかすると、弦一郎はあの日のことを覚えていないのかも知れない。合流した途端、試着室に引っ張り込まれ しばらく夢の中に出て来そうなジーンズ姿をあと少しのところで披露しなくて済んだのは、結局弦一郎の味方に 付いた手塚が助けに入ったからだった。 「大和、だったか。」 「ああ。」 あの時、呟かれた名前さえなければ自分もここまで鮮明に思い出すことはなかったのかも知れない。一生懸命、 表情の変わらない顔で弦一郎を庇う手塚がおかしくて代わりに目の覚めるような色のアロハシャツを着せようとしたら、 実に久々に喰らわされた鉄拳制裁の痛みまで思い出すことが出来た。 「2年前だな。」 「部に資料はなかった。」 背後から近付いて来た車が、車道を一気に通り過ぎて行く。 驚きもせずに振り返った黒い髪と制服のシャツが、排気ガス混じりの風に揺れて。そこには、二度と戻らないものを 知っている視線があった。 「そうか。」 もしその名前が、手塚を凌ぐほどの力を持つ人間のものだったとしたら。少しは分かってやれたのかも知れない。 けれど誰よりも強かった手塚が強さに憧れたわけではなかっただろうから、結局最後までその理由は分からないまま なのだろうと思った。 「…お前が、最初で最後なのかも知れないな。故障の無い手塚と、互角に戦った人間は。」 日暮れの世界に、目を開く。眉ひとつ動かさずにこちらを見つめて来る視線と、ただ見つめ合った。たったひとつの 名前のために。 九州へ発ったことは、遠くから伝わって来た。何も言わずに旅立ったところがらしいと思った。 ― 友人と呼ぶには、遠過ぎて。距離を埋めるには、余りに複雑な事情を抱えていたから。 開けた視界に、ただ願った。戻って来るなと。決してベンチを動かなかった、細い背中を思い出しながら。 もう一度、同じ場所に立つのがたったひとりの権利だとしても、今さらどんな意味があるだろう?故障した 人間が互角に戦えるほど、弦一郎は甘くない。どれだけ情熱を傾けても、自分たちがいる限り青学というチームが 夢を果たすことは有り得ない。誰も知らない名前のために、久し振りに眺める朱色の世界は意味のないことで 溢れかえるようになってしまっていた。 「…そうかも知れんな。」 かすかな、苦笑じみた感情が薄い唇を掠めて行くのを、言葉を継ぐことが出来ず肩を竦めてやり過ごした。多分、 手塚にとっては無敗の名前もひとリ歩きした伝説も何の意味も持たなかったのだろう。今ならそれが分かる。手塚は ひとつの名前のためだけに世界を終わらせてもいい覚悟だっただろうから。 「もう、無意味だ。」 残酷な手塚の願い通り、終わりを告げる厳かな声がして。その重さに耐え切れず、目を閉ざした。踵を返し、 再び歩き出した弦一郎に従うことにする。 網膜に焼きついたのは、世界を染める赤い日差し。そして。 背を向ける直前、弦一郎が見せた瞳の色は忘れることにした。たとえそれがあの日、手塚に見た揺らめきと全く 同じものだと知っていても。 果たされない情熱は、一体誰が救うのだろう。 途絶えた道先を探すように、長い影が前へと伸びた。 |
…す、救い様のない話になってしまいました。本当に申し訳ないです。 散々お時間頂いた割にはこの出来か! お叱り覚悟で…。 でも、原作通りに行くと大和裕大の存在の大きさは無視出来ず、副部長はそう簡単に許しそうに はないかな…と。蓮二先輩は、もっとシビアな性格の予感がしますが。泣いても笑っても今年は真塚決戦、 どうかどちらにも本懐を遂げてもらいたいものです。 |
main veinのいたがきさまから交換リクで頂戴しました。 微妙で繊細な描写がもう、大満足です。蓮二先輩優しいし、気遣いの人だし。真田はわが道を行くだし。木島の理想ですよ。 大和部長との約束を果たそうとした手塚を理解できないという 件、納得です。 また機会があれば是非是非、お願いします。わたしのはあんなのですが(泣き) |