――すべて球技は配球とゲームメイクにかかっているといえる。 関東大会準々決勝。前回の覇者にして全国をも制した立海大付属中は、関東の強豪青学と激突 した。そのシングルス3は奇しくも2年生対決となった。 いづれも部内では最強と呼ばれ、他校にもその存在を響かせている二人の対決とあって、ギャ ラリーの数も半端ではない。 (タイミングが巧い) クロスに来ると予測して動いた足元にボールを叩きつけられ真田弦一郎はそう思った。 コートのぐるりを取り囲んだ観衆がどよめく。 誰もが予測しなかったコース。それも今までそんな速球出してなかったぞ、という絶妙なタイ ミングだ。グランドストロークのフォームからラケットをかぶせ、ピンポイントに繰り出された スマッシュ。あれは完全に真田が右に動くと読んでいた。 コロコロと後ろに転がるボールに目をやる。 体格も、そしてそこから生まれる破壊力も自分とは比べ物にならない華奢な対戦相手に、先ほ どからいいように翻弄されている。 知らずその相手を睨みつけた。 ネットをはさんで佇むその人物は、人差し指をユニフォームの襟に引っ掛けて風を取り入れてい る。真田の視線などサラッと受け流し、ほうっと一つ宙を仰いだ。 青学シングル3手塚国光。 同じ二年生。涼しい表情を変えずゆるりと正面を切る。ざわついて いた観衆がその雰囲気の静謐さに息を呑んだ。真田も言わずもがなだ。 (これほど静の中に動を隠し持ったヤツも珍しい……) 真田のように何事も闘志むき出しで挑むタイプからするとやや覇気に欠ける相手。試合前、ネ ットをはさんで対峙したときそう感じた。これがうわさの手塚なのかと。それはゲームの序盤も 感じ続けていた。しかしここぞというとき、この相手は瞬時に牙を向く。 静と動。緩と急。剛と柔。見事なコントラスト。 昨年秋の新人戦では生憎対戦する機会はなかった。強豪青学にあって最強の一年生。うわさだけ が一人歩きをする。そのとき対戦したという他県のプレイヤーは言った。 ――いつの間にか負けてた……。 まさに言えて妙だ。 ボールには飛びたい方向があるのだと誰が言ったのか。 あとはラケットを添えてやればいいのだとか。だからなにも特異な体力や瞬発力や破壊力は必要 ないのだという。 ごく稀にそれを具現できる人間がいる。 それがこの男だというのか。 ひやりとした繊細さが際立つ端整な顔立ち。ラケットをにぎるより鍵盤の前のほうがいっそうお 似合いだ。骨格に恵まれた真田からすれば痛ましいほど細さの手足。成長過程であろうそれは、夜 中にギシギシと悲鳴を上げるのだろう。筋肉など必要最小限にしかついていない気がする。つまり 貫禄も威圧感も真田のほうが数段勝っている。 なのに―― ゲームカウント 5−4。 スコア以上の開きを感じるのはなぜだ。 あまりにしつこく凝視したからだろうか、体温を感じさせないと思われた視線がぴたりと真田に 合わされた。 手をかざせば瞬時に融解しそうな青白い炎を纏っている。 ぞくりと――酷く嫌な何かが背中を伝う。 ほんのつかの間、微かな笑み。 手塚はくるりと向きを変えるとポジションへと向かう。 ほんのつかの間。 照りつける日差しが痛い。静寂が肌を刺す。しかし心地よい。 (楽しみが増えたな) 真田もラケットを肩に担いで対戦者に背を向けた。 その真田の笑みが止まらない。 「ゲームセット。ウォンバイ、青学手塚!6−4」 わずかばかり反応が遅れて前のめりのまま真田の足がすくんだ。目の前を虚しくボールが転がる。 最後の最後に手塚から繰り出されたドロップショット。 あの位置から。 そしてあのフォームから。 見上げると額からの汗が目に入った。当の手塚は何事もなかったように試合後の握手のために右手を差し出し ている。ほんの少しの逡巡のあと、吹っ切るように真田は悠然とネットにつめた。 ネットを挟んで対峙し、もうすでに百八十センチ近い真田の眉が威圧的に歪められる。他意はない。 ただ手塚の反応が見たかった。彼が少しあごを上げる。いかにも不本意という表情だ。 こんなあからさまな敵意を向けられたことはないのだろう。真田に激しい嫉妬と焦燥感がよぎる。 試合に負けたことにではない。 このテニスの女神に愛でられし少年に対して。 人は努力すれば――特にスポーツにおいては、必ず報いられるというがそれは絶対あり得ない。 努力の量に応じた名声が万人に用意されていることなどないからだ。どこにでも一人や二人天才と呼ば れる人間が必ず居る。 その人種たちは一般人の横をなぶるように掠めて高みを目指していく。 しかしだれがその量を推し量ることが出来るのだろうか。隣の天才が自分より少ない量の努力でその地位を 確保したなど誰が言えるのか。 その言葉は必ず自分への言い訳に使われる。 ――あいつは天才、だと。 真田を纏っていた怒気がふわりと和らいだ。かなわないなどと思いたくもない。いずれ引き釣りおろ してやる。その孤高のポジションから。 「おめでとう。見事なゲーム運びだった」 「ありがとう」 交わされた握手は思ったとおり少しひんやりとしていた。 「お疲れ。残念だったな。だがいい試合だった」 さぞかしご立腹だろうと宥めに向かったチームメイトの柳は、いつまでも青学ベンチから目を離さない真田の斜めから 声をかけた。視線は厳しい。当たり前だろう。負けるとは思ってなかった相手からの一敗だ。プライドの 高い真田の胸中はいかばかりかと推測されるが、確かに全国でもお目にかかれるかというほどのレベルの 高い試合だった。 つられて柳も勝利の歓喜に沸く青学ベンチに目を向けた。はしゃぐチームメイトの中心にやけに落ち着 いた後姿。おそらく二コリともしていないのだろうと容易に図れた。 「――なんとも可愛げのないことで」 同意を求めようと振り返ると当の真田はじっと右手を見つめている。 「どうした? 公式戦一敗地にまみれた余韻に浸っているのか?」 揶揄ったつもりはさらさらないが、軽い口調はせめてもの情けだ。公式戦初黒星にしては不気味なくら い静かだ。内面で沸々と滾るものがあるのだろうと押し図った。こういうときはまさに触らぬ神に祟りな しだ。 「あれは素直なテニスというのだろうか?」 まだ彼は右手を凝視したままだった。 「……?」 意味が分からず柳は答えに窮する。 「ボールに素直なテニス。ただ、最後のドロップショットはいただけんな」 「何を言ってる? 見事な決め球だったと思うが」 「関節に負担がかかりすぎる」 「どうしたって球技なんて、筋肉や関節に負担はつき物だ。振り切ると見せかけての止 め球。肘は悲鳴を上げるだろうが、真田弦一郎を欺いたんだ。大したもんじゃないか」 「あの細い腕で――」 「は?」 ようやく真田は顔を上げた。信じられないものを見るように柳は彼を凝視する。 「体も何も出来上がってはいない。テクニックが体のすべての組織を凌駕している。まず基礎だろう」 「おまえの基礎トレ好きは定評があるが……? だから、何?」 「基礎体力はある。スピードも申し分ない。だが、如何せん細すぎる。いずれ破綻は目に見えているぞ」 「弦一郎?」 「いま使うべきではない。今こんな試合を続けていると必ずどこかに支障をきたす」 「え――もしかしておまえ、手塚を心配しているのか?」 あの真田がである。先輩諸氏に対しても慇懃素通りの無礼な言動を撒き散らす真田が柔らかな視線を送っ ている。見間違いかとごしごしと目をこする。しかしすぐにその表情は収められていた。 見間違いなんかじゃない。 勘違いでもない。 正直言って今後の展開が少し怖いと感じる柳だった。 「よくやったぞ、手塚!」 シングルス3を接戦で制した手塚がベンチに向かう。途中、シングルス2の先輩とすれ違いざまハイタッチで 互いの健闘を確認しあった。青学部長が真っ先に手塚に抱きついてきた。ほお擦りまでされそうになるのを身を よじって逃れる。この一年上の部長の行動はいつも過剰スキンシップにおよぶ。 「見事だ! すばらしい! これぞ王道テニスだ。途中から震えがきてな。心臓が痛かったぞ」 部長はほんとうに涙目だ。同種猫科の菊丸が逆方向から首に抱きついてきた。 「すっごいじゃん。さっすが手塚!」 いくら定温動物だとか呼ばれる手塚でも試合後にこれでは暑苦しい。それを察したのか低いトーンで不二が 割って入った。 「部長も英二もいい加減手塚から離れてください」 開眼不二の周囲を圧するオーラに、このときとばかり手塚タッチを目指そうとした チームメイトはしおしおと引き下がるが、まったくこの二人に雰囲気攻撃は効かない。 肘を押入れ、手で押しのけようやく引き剥がした。二人からブーイングが起こる。そんなこと 不二の知ったこっちゃなかった。 「ホントに油断も隙もない」 そういう不二の密着率もかなり高い。 「しかし、相手も二年だっていうんだから驚きだ。お前たちの代は選手層が厚いな。氷帝の跡部といい、あの真田とか いうやつといい。山吹の千石も曲者だ。まさに逸材の宝庫、才能の坩堝、天才の集団見合い」 「なんなんですか、それは」 確かに才能の偏りが見られることはあるが、この年代はかなり顕著だ。日本の男子テニス界を変えられるとい うのも夢ではない気がする。 もぞもぞと居心地悪そうに手塚が動いた。 「不二も離れてくれないか」 部長と菊丸がそれ見たことかと哄笑する。僕は君を守ってあげているのに、と開眼する不二に 手塚はにべもない。 「相変わらず手塚は抱き心地が悪いな」 「抱き心地のいい手塚なんて手塚じゃないでしょ」 部長、随分な科白だと手塚は思う。それに切り返す不二もどうかと。 コートではシングルス2の試合が始まろうとしていた。不二はちらりと立海大ベンチに目をやる。 「真田君、まだこっちを見ているよ」 「そうとう悔しかったんだな」 「バカだね。あれは悔しいって顔じゃないよ」 腑に落ちない手塚に不二はぽつりと呟く。 ――そう、あれは獲物を見つけた猛禽類の目だ。 「だれが獲物だ」 ふふ、と不二が目を細めた。 「いいんだよ、君はそれで。前だけを見ていれば」 「さっぱり意味がわからん」 シングルス2の試合が始まった。立海大選手のサービスエースが決まる。しかもノータッチだ。そのスピードに観衆から どよめきが起こった。二本目のサーブは逆コーナー。辛うじてロブに逃げたが絶好の高さだった。きれいに スマッシュを決められる。 「30−0」 「立海大は強いね」 「ああ、隙がない」 「選手層にね。うちは隙だらけだからな」 「辛辣だな」 高いインパクトの音が蝉の鳴き声と交錯する。誰もが固唾を呑んで見守った。立海大はすでに二勝一敗で アドバンテージをとっている。このゲームを落とすと青学の敗退が決まる。 立海大選手のボレーが決まった。 「ゲーム、立海大、2−0」 「あーあ、先輩サービスゲーム落としちゃった」 さして無念そうでもなく不二は呟く。 ここまでの戦績の結果、すでに青学、氷帝、立海大と全国の切符は手に入れている。だが、都大会も四位で 辛うじて通過。それで全国へ行っても十分に戦えるのかという不安は付きまとった。 「テニスで団体戦なんてバカている――」 一拍、呼吸をおいて不二が手塚を見た。 「って、思ってない?」 「いや、一向に」 答えは瞬時に返った。手塚は前を向いたままだ。 「そう、よかった」 そう呟いた不二の言葉が手塚に聞こえたかどうか。 先ほどまでの喧騒とは変わり、テニスコートを少し離れれば、木立が休息の静寂を与えてくれる。 手塚は手洗い場に頭から突っ込んで豪快に涼を取っていた。少しはすっきりしたようだ。手元に置いてあったタオルを手繰り寄せると、 頭上から声がかかった。 「決勝戦は見なくていいのか」 その決勝に登場するはずの真田が不敵に笑っていた。反応できずぱちくりと目を瞬きながら雫を取る。 その姿は眼鏡をかけているときより数倍あどけなかった。真田は気を取り直してゴホンと咳払いする。 「何だ。青学の手塚は、声をかけたのに無視を決め込むのか」 「決勝は出ないのか?」 「反応が鈍すぎる。しかも俺がでないわけがなかろう!」 なぜか相手は怒っている。それが先ほどの勝負とは関係のないことだけは、手塚にも分かった。 「何か用か」 「――手塚、お前の日常会話の語彙はどうなっているのだ?」 「別に、不自由はしていないが」 「青学の連中はよほどおまえの真意を読むのに長けているのだな」 「何が言いたいのかよくわからない」 どうも最近、この手の科白を言う回数が増えた気がするのは気のせいだろうかと、手塚は置いてあった眼鏡をかけた。 あっと真田が何か言いかけて引っ込める。不審そうに見つめられて、まさかもったいないからそのままに――とは口が裂けても 言えない真田だった。 ふと出てくる言葉がなく、さやさやとした葉ずれの音だけが支配する。 沈黙が怖くない相手。 そんな言葉が過ぎった。 コートの方で歓声が一際高く上がった。二人ともゆっくりとその方角に目をやる。 「全国大会でも対戦できたらと、な」 「ああ」 不意に真田の手が伸びてきて手塚の左肘を捕らえる。さも当然のようなその仕草に、手塚は無下に払うことができなかった。 「肘、痛むだろう」 「……」 「いいか、手塚。カルシウムを取れ。小魚よりも乳製品のほうが吸収はいいそうだ。牛乳でもヨーグルトでも何でもいい。 骨と筋肉をもっと鍛えろ。おまえの場合、これで十分ということはない。そのテクニックに劣らないものを作れ。そうでなければ――」 さながら妊婦を労わる夫という図式だが、真剣そのものの真田に敢えて突っ込む勇気はなかった。 「うわっ、手塚、何されてんの!」 聞きなれた声にびくりと反応する。不二をはじめ先輩たちだ。真田の視界にも青学メンバーが入った。 それでも手塚の肘に添えられた手をぎりぎりまで離そうとはしない。 「ふん、ナイトに護衛に門番まで登場か。残念だがこれで失礼する。またすぐに会える」 手当てとはよくいったもので、真田の手が添えられていた肘は、それが離れた途端に暖かさが過ぎていった。 「心配かけてすまない」 その言葉に真田は目を丸くする。 「おまえの得意技だったな。その絶妙なタイミングはずしと不意打ち」 不二たちが不穏な表情そのままで真田と対峙する。青学部長が一歩前に出た。 「何か問題でも?」 「いや、再戦を約束していただけだ」 真田は片手を挙げてくるりと踵を返す。そして背中越しに言ってのけた。 「青学も大変だな。そんな天然、放し飼いにするのはさぞ気苦労だろう」 「君みたいに大きな顔をして近づいてくる虫もいるしね」 少し立ち止まって肩越しに不二を見る。身じろぎ一つなく二人は向き合う。その緊迫状態を手塚はいとも簡単に破り、スタスタと 歩き出した。虚をつかれた不二たちは声も出ない。真田の笑い声だけが響く。 「ナイトの苦労も報われんな」 くつくつと笑いながら、真田は自身の学校が決勝戦を戦っているコートへと向かった。 end |