Take On Me 





――このくそ暑い夏に、大会を開こうなんて考えたヤツはどこのどいつだ。



 全国中学生テニス選手権大会、初日。開会式が始まるころには気温はすでに30度を超え、容赦ない日差しが選手たちの 体力を消耗させている。実際立っているだけで、スニーカー越しにクレイコートの地表温度が感じられるほどだ。 試合が休憩に入ると、大会役員によってすぐにコートに水がまかれるが、そのせいであちこちに陽炎がみられた。
 朝一番の開会式に強制的に出席させられ(当たり前だが)、実際の試合開始まで間が持てないからと、九州地区代表獅子楽中 二年橘桔平は、木立を見つけて横になる。辺りを見回せば、等間隔に林立した日差しよけには、チームメイトと談笑する者や、一人で 背中を預けている者などかなりいる。幸いにも湿度がそれほど高くないせいか、直射日光さえ凌げばかなり快適だ。



「おー!」
「すげえ!」
 ほどよい心地よさにうとうとしかけた橘は、そのどよめきにびくりと覚醒する。ちらりと薄目を開けると、目の前のコートを 取り囲んでいるギャラリーが妙に興奮していた。その前を通り過ぎようとしていた選手たちも、何事かと足を止めている。
 たかだか中学生レベルの試合でその反応はないだろうと、橘は背中を向けた。だが、
「うわー、強烈なコース。こいつほんとに二年かよ」
「冗談だろ。勘弁してくれよ」
 同年だということが、二年生にして九州地区二強と称される橘のプライドを刺激した。のそりと立ち上がるとポンポンとほこりを 払ってフェンスに詰める。



「青学、手塚か」
 橘はチームプレートを確かめて呟いた。関東の強豪校の一つだ。その中でも手塚の名は九州地区にも聞こえていた。
 スコアを見ると、4−0。一方的なゲームになっている。 相手が弱いのかと目を凝らせば、これもまた優勝候補に挙げられているチームだ。ふーんと一つ呟いてからコートに目をやれば、 ちょうど青学の手塚がサーブのトスを上げていた。
 サウスポーから繰り出されるそれは、スライスして相手選手の左を掠めてコートの外に逃げる。右利きの選手にとっては一番 取りづらいコースだ。ノータッチエースが決まった。知らないうちに橘は高い音で口笛を吹いていた。
「やな、コース! 当たりたくねえ」
「おまえ、あれ取れる?」
「絶対無理だって」



 他校の選手のそんな声を背に、橘は両方のコートを左右に見られる今の位置から、相手校選手の後ろの位置へと移動した。 ここからなら手塚の真正面に立つことになる。
 その位置にはすでに先客がいた。腕組みをしたまま真剣な表情でコートを 見つめている。同じ意図を持つ者なのかも知れない、とそんな考えが橘の脳裏を掠めたが、「30−0」という審判の コールに視線をコートに戻した。
 二本続けてサービスエースを左に決められ、相手校選手はバランスを少しその方向に移動させた。自然と右のスペースが 空く形となるが、これは次のサーブを右に呼ぶ陽動作戦だと橘は踏んだ。
 予想通り三本目のサーブは右。ピンポイントでコーナー際へ。相手校選手も読んでいたはずなのに届かない。ざわついていた コートまわりがしわぶき一つない静寂へと変わる。
「あれはわざと挑発に乗ったな」
「取れるものなら、取ってみろだ」
 知らずに口についた橘の疑問に返答が返った。彼はその相手をまじまじと凝視する。



 中学生にしては上背のある、端正というより荘厳な雰囲気を持った男だった。古武道の師範代だってこの男の貫禄には逃げを 打つだろう。その男が橘の姿を認めあからさまに眉根を寄せた。金髪ロンゲを風になびかせている男が、存在することすら 驚異だと言わんばかりだった。
 その容姿とあまりに一致する言動に、橘は堪えきれず吹き出した。
「獅子楽中の橘だ」
 何が可笑しいのかと睨みつけている相手に、橘は手を差し伸べた。その相手はやや躊躇してからその行為を返す。
「立海大、真田」
 そうか、と橘は納得した。
「前年度覇者、立海大の真田は青学の手塚を偵察中か」
 その言葉に真田の口の端が不遜に歪められる。心外とばかりに。
「手塚に偵察など必要ない」
「へえ、何。あんたのほうが強いからか?」
「いや、負けた」
「なんだ、そりゃ」
 真田は橘に移していた視線をコート内の手塚に戻し、ぽつりと告げた。
「きょうの手塚を偵察したところで、あすには進歩しているような男だ。意味がない」
 じゃあ、なぜここにいる――という問いに答えは返らなかった。いぶかしそうな橘の視線など肩ですかして、真田はじっと 前を見つめたままだ。追っているのはボールの軌跡かそれとも手塚自身なのか。
 橘も視線を戻す。そのとき審判から試合終了のコールが高らかになされた。
 ゲームカウント6−0。ワンポイントも落としていない。
「情け容赦のないテニスだな」
「あれが手塚だと思うと痛い目をみるぞ」
 そう言い残すと真田はコートには目もくれず立ち去った。
 橘は真田の後姿とベンチへ向かう手塚とを交互に見比べ、にやりと一つ笑みを零す。
 一歩踏み出したとき、自然と足が青学ベンチへと向かっていた。





 全国大会初戦、シングルス3をワンサイドゲームで制した手塚は、ベンチに腰掛けタオルで顔を覆ったままの前かがみ状態で 先ほどの試合をもう一度反芻している。
――クロスに運んだあのボールはフォアの方が良かったのはないか。
――あの位置にいた選手にロブを上げるのは無謀だったかもしれない。
 あの角度があのコースがと、集中力の権化となった手塚に近づくものは、レギュラー以下だれ一人いない。
 だからガードが甘かった。
 返す返すも甘かった。



 後ろに誰かがいる気配を感じて手塚は漸く顔を上げた。横から見上げると、彼が座っているベンチの背に手をかけた男と 目が合った。
「やっと気づいてくれたか。あんた、人の気配には相当鈍い性質だな」
 見覚えのない派手な男。その外見に反して向けられた笑みは男らしかった。
「どこかで会っただろうか?」
「いや、初対面。いいテニス見せてもらったんで、どんな選手かなと思って」
「そうか? まだ改善の余地はあると思ったが」
 橘の笑みが瞬時に消えた。
 初めて間近で見た手塚は、想像していたよりもずっと危うい印象を橘に与えた。怜悧なくせにそこはかとない色気すら漂わせる 容貌に反して、内面には自意識を高める不遜なまでの向上心がしっかりと根付いている。
――なんなんだ。このバランスの悪さは?
 際立ってよいということは、際立って危ういの同義語なのだと橘は思う。長い棒がただ一点のみで支えられている危険を はらみ、見ている者を落ち着かせなくさせる。
「倣岸だったか?」
 橘の表情の変化を勘違いしたのか、手塚はぽつりと漏らした。確かに相手選手にとっては耳を覆いたくなるような科白だろう。
「いや、そういう意味じゃない。ただ、不思議だなと思って」
「よく言われる。天然だの、意思の疎通ができないだの、考えなしだの、鈍感だの、エゴイストだのと、散々な言われようだ」
「だれがそんなことを言うんだ」
「エゴイストって言ったのは僕」



 いつ近づいたのか、そこには不二の姿があった。橘の横で同じようにベンチの背に手をかけている。
「そういう目に合わされたことがあったのか?」
 純粋な好奇心からの疑問。
「周りがどれだけ心配しているかを知ろうとしないからね。手塚が動くことの影響力とか、突っ走ることの気疲れとか、振り返って くれないことの寂しさとか」
「えらく抽象的だな」
「例えば君」
 不二はすっと橘を指差した。
「手塚が試合を終えると、必ずと言っていいほど君みたいな人が現れる。それはただ彼のプレイに対する賞賛だけで近づくとは 限らないんだ。今までの経験則から言えば。悪意が滲み出ていたり、もっと露骨な興味だったり。弱点を探そうだなんて可愛い もんさ。それなのに手塚は簡単に接触を許す。欲望むき出しの相手と平気で話したりできるんだ。僕からすれば信じられないよ」
 それはありそうかな、と橘は思った。
「俺だってそれくらい分かって話しているさ」
「いーや。分かってないね。鈍感すぎるんだよ。人の心の機微に疎すぎる。テニスに対する姿勢だってそうさ。周りは君が無理を しているなって分かってるんだよ。なのに大丈夫だとか言う。全然大丈夫じゃなさそうなのに、そんな風に言われる寂しさって 君に理解できる?」
 えらく会話が込み入ってきた。橘、目一杯所在がない。
「こんなところでする話じゃないだろ」
 おっ、と思った。考えなしだとか言いたい放題いわれた男が、ちゃんと周りに配慮しているじゃないか。
「なら、どこか密室にでもこもって、この続きする?」
 手塚がもの凄く嫌そうな顔をした。義理の母に頭が上がらないマスオさんの様相を呈している。たまらず、橘は吹き出した。 きょうはよく笑う日だ。
「えーっと。青学の君」
「僕は不二」
「不二か。俺は九州地区代表、獅子楽中の橘だ」
 不二と軽く握手したあと手塚の方にも手を差し出す。
「試合中あれだけ神経を研ぎ澄ましているんだ。コートを出たら緩むことだってあるだろう。それに天然だの考えなしだの 言われようと、分かって距離を置いて接しているんだろうし、不埒なやつなど寄せ付けない自身があるんじゃないか。現に今まで なんともなかったんだろ。それとも不二が睨みを利かせていたから無事だっただけか?」



 押し付けがましく心配を安売りするなと言われている気がして黙りこくった。
 君に僕の気持ちなんか分かるもんか、と言ってしまうのは簡単だ。でもそんなバカみたいな科白は絶対吐かない。 それは相手から真摯に語られた言葉を、拒絶する以外の何ものでもないからだ。だから彼は黙りこくった。
 興味がなくなったのか、手塚はすでにコート内で行われている試合に没頭している
 一体だれの話で、きょう出会ったもの同士が、喧々諤々していると思ってるの、と睨みつけるが利かない。 察した橘は苦笑しきりだ。
「相手の力量を見極める力なんか、たいしたもんだぞ、こいつは。どうやったらかわせるか、いなせるかを知る嗅覚は 動物並みに持っている。いいヤツかそうでないかは肌感覚で察知しているんだろ」
「何を根拠に言い切れる?」
「現にこの俺を寄せ付けた」



 文句のつけようのない笑顔を手塚に送っている。すぐに切り返せない不二を尻目に、なぜか手塚は振り返った。


――鈍いくせに、鈍いくせに、鈍いくせに。
 不二、心の叫びはだれにも届かない。





フェンスを握る橘の手に思わず力が入った。



 前年度覇者、立海大中のシングルス3。真田の強烈なスマッシュがコートにめり込むように決まった。
 そのスピードよりパワーより、気迫が迸り迫り来る。さきほど手塚のテニスを情け容赦がないと称したが、真田のテニスは それ以上だ。徹底的に打ちのめす。悔しいと感じる暇さえ与えず、攻め続ける。試合を終えた相手選手が、テニスに見切りをつけ るんじゃないかと心配するほどだ。
「そんなに強くフェンスを握るもんじゃない。ラケット握る黄金の右手だよ。橘くん」
 フェンス越しに立海大の選手の一人が、それに背を預け前方を見たままの状態で彼に話しかけてきた。 瞑目したように瞳を伏せたその選手は柳と名乗った。
  「強いだろう、弦一郎は」
 コート上では右に左にと翻弄された相手選手ががくりと膝をついている。
「ヤツと対戦した者は、まずその気迫に呑まれる。試合ってなると大抵緊張して普段の実力が出せないのに、それに 輪をかけて運動量二〜三割減ってとこかな」
 気の毒に、と彼は薄く笑った。
「蛇に睨まれた蛙状態ってわけか」
「うーん、蛇っていうのはちょっとイメージ違う。小鹿を片足で押さえつけたまま、いたぶるライオンと言うか、 平原を逃げ惑う兎を上空から威嚇し続けて、精神的にも肉体的にもへとへと状態になってからからめ取る大鷲と言うか……」
「えらい具体的だな」
 それはもの凄くリアルなイメージとして想像できた。
「でもそれは、どんな相手にも手を抜かない王者の風格ってもんじゃないのか?」
「それはいい表現だ」
 手ごたえのない相手と対戦したときの真田は、少し怒りを顕わにした余裕のなさで試合を進める。さっさとけりをつけたいと 言わんばかりで、そんな真田のプレイを見るのはあまり好きではなかった。
「そうだ。うちと対戦するときは君をシングルス3に持ってくるといい。あいつ、実力的にシングルス1を張ってもいいのに、 3に拘るんだ。3なら必ず試合できるから。そのくせ弱い相手とぶつかるとあんな風に苛つく。変な御仁だろ」
「あいつがシングルス3だからか?」
 前ばかり向いて橘とは視線を合わせなかった柳が少し身じろいだ。
「だれのことだ?」
「さあ、だれだろうね」



 真田が初戦を勝ちで終えて戻ると、ベンチ後ろ近くのフェンスにもたれかかった柳と、さっき出会ったばかりの男が腕組みを して待っていた。
 九州地区代表獅子楽中二年、橘桔平。立海大の連覇を阻むとしたら、この学校になるだろうと顧問の教師は言った。 総合力的に五角だそうだ。
「お歴々二人の出迎えとは恐悦至極だな」
 真田は柳の足元近くにどかりと座り込んだ。それを認めて柳が注意する。
「ちゃんとダウンしろよ」
「こんな試合にダウンなんか必要あるか」
「またそんなことを言う」
 柳は徐に真田の背をひょいと跨いで、丸くなった背中に腰掛けた。そのまま前のめりに、両手両足を伸ばしてのストレッチに真田の 息が詰まった。
「貴様。降りろ!」
「まったく、相変わらず硬いな。よそのチームの選手を心配してる場合か? おまえの方こそ怪我する」
「その青学だが、三勝一敗で初戦突破だ」
 真田と柳が二人同時にフェンス越しの橘の方を振り返った。
「そんなことをわざわざ報告に来たのか」
 すっと真田の目が威圧的に細められた。橘も真っ向から勝負に出た。
「そうだったな。あんたが興味あったのはあの男だけか。青学がどうなろうと関心ないわけだ」
「だったらどうだと言うんだ」
 真田を取り巻く空気が、臨戦態勢とばかりに緊張した。



 立海大の真田を挑発した橘も豪胆だが、いつものように一睨みで撃退しないで受け止めている真田もらしくない。 何か意識している。橘の何かに、そう柳は思った。
 実際、自身の心情の発露を覆い隠そうとはしない真田を橘は男らしいと思う。相手がそうくるならこちらも堂々と 挑む限りだ。
「青学の宿舎を今晩にでも訪ねてみようかと思う。お互い明日にでも負ければここからおさらばだからな。あんたみたいに試合で 勝負して、印象付けられるのが一番手っ取り早いんだが、そんな悠長なこと言ってられない自体だ」
「それなら六時前か九時以降にするんだな。夕食後ヤツは近くの河原を走ってるはずだ」
 目を見開く橘に、不遜を隠そうともしない真田の笑みが返る。
――きっちり自己主張していやがる。
 だれに勝負を挑んだのかと。
 そしてだれの所有なのかを。



 最初に惹かれたのは手塚のプレイなのだろうか。それとも真田の視線だったのか。なぜ自分は割り込むような真似をする。 そこに割り込む隙があるからか。純粋な興味からか。それとも。
 答えは出ない。突き止めようとも思わないが、なぜか欲しいと願う渇望に正直に。
――いつまでも余裕ぶっこいてられると思うなよ。
 橘はフェンスから離れる。彼らに背を向け、十分劇的に真田に告げた。
「俺、二学期になったら東京の中学に転校することが決まっている」



 真田の表情は伺い知れない。





 全国大会一回戦も滞りなく終了し、出場校の半分が姿を消した。
 夕食後、明日からの二回戦を前に一通りのミーティングを終えたあと、獅子楽中のレギュラーたちに自由時間が与えられた。 明日の対戦相手のビデオをチェックする者や、テレビのお笑い番組で疲れを癒す者、ゲームボーイア○○ンスの小さい画面で ストレスを発散する者など、時間は有効に使われる。
 橘は畳に上に横になり、後ろに組んだ腕を枕にチームメイトの姿をぼーっと観察していた。
 宣戦布告通り手塚を訪れてもいい。先ほどまでそう思っていた。だが、真田に言われたとおりの時間帯に訪れるのは、 手のひらで踊らされている気がして進まない。どうせヤツに一歩も二歩も遅れをとっているのだから、ここはあせらず 二学期からの勝負にかけようかと、仲間たちの喧騒から背を向ける。しかしそう思いながらも寝転んでいられなかった。
――二学期ってなぁいつのことだ。
 立ち上がり、そそくさとジャージの上着を引っ掛ける。部長が目ざとく声をかけた。
「出かけるのか、橘」
「ちょっと散歩」
「おまえも獅子楽での最後の大会だ。つまらん問題起こすなよ」
「わぁってます」
 部長、短気な後輩に釘を刺すことを忘れない。



 陽が翳ってかなりたつのに、未だ昼間の熱気が冷めやらない夜の街に一歩踏み出す。
 繁華街から離れていても、橘の派手な髪型に難癖をつけてきたり、絡んでやろうと面白がる連中はどこにだっている。 そんな連中をいなすだけの分別は持ち合わせていた。体を労わるスポーツマンとしては当たり前だ。しなくてもいい怪我なんて ごめん被りたいし、けち臭いプライドを盾にいざこざを起こして、仲間に迷惑をかけるなんてざまあない。
 わざと肩をぶつかるように歩いてきた高校生ふうの男を軽くいなしたが、やり過ごしたと思ったところ後ろから肩を掴まれた。
「あぶねえな。気ぃつけろ!」
 触るなとばかりに振り切るが、相手は執拗だった。
「あぶねえって言ってんだよ。聞こえてんのか!」
 わざと大声で叫んで仲間を呼んでいる。なんだ、なんだと、どこから沸いてきたのか、笑えるくらい同じような風体の 男たちに退路を断たれる。思わず舌打ちした。
「よろけて歩いてんじゃねえよ」
「しゃべれねえんか! なんとか言えってぇの!」
 胸ぐらを鷲づかみされ、握った拳に力が入りかけたそのとき――
「走れ」
 ざわめく哄笑の中、低く囁かれたその声をはっきりと聞き取る。
 ガラのよろしくない男たちのすぐ後ろ。その場にそぐわない風貌を確認した。
 突然胸の拘束が緩んだ。
「いってぇ!」
 橘の襟を掴んでいた男は、その手と違う方の手首を抑えてうずくまる。彼がその男の手首をひねり上げたのだ。
 そのまま逃走する彼の後を追うように、橘は走り出した。



 はるか後方で彼らを追う男たちの罵声が聞こえるが、日ごろ体を鍛えたことなどない人種たちに追いつけるわけもない。 二人は軽く息が上がる程度で振り切った。後方を確認してゆっくりと立ち止まる。
「助かった。すまない、手塚」
 橘は前を行く彼の横に並んだ。
 月明かりに翳りを浮き立たせた怜悧な横顔。りんと張り詰めた立ち姿は十分すぎるほどに幻想的で、何者と対峙しているのか わからない錯覚に陥る。あまりに間近でありすぎて、鼓動すら重なる。
 惹かれるように一歩踏み出し、伸ばしかけた右手が所在なく降ろされた。
「不注意だな。おまえらしくもない」
 生身の手塚の声を聞いて、どこかほっとした自分があった。



 二人してすっかり道に迷い、手塚は夏の大三角形を見上げて、まるでハイジのおじいさんのように方角の確認をしている。 彼は仕方ないなというふうにため息をついて、ジャージのポケットから携帯を取り出した。持ってんなら最初から使えよな、 と言うとえらく厳しい目で睨まれた。
 つながったはずの携帯に一つため息を落とし、すこしためらいがちに「俺だけど」と名乗る。その言葉に反応した。 てっきり宿舎に入れたと思っていたからだ。
「道に迷った」
 携帯の向こうから何か指示があったのか手塚は辺りを見回している。おそらく現在位置の確認をしているのだろう。
 何かが橘の中を駆け巡る。知らず沸き起こった感情のまま、橘は手塚の手から携帯をもぎ取った。
「橘だが」
 携帯の向こうの相手が息をのむ音を聞いて小気味よく感じてしまう。その優越感の所在など、まさに砂上の楼閣にすぎないと わかっていた。だがこの瞬間だけの絶対的優位を味わってもいいだろう。
「手塚をトラブルに巻き込んだのは俺の責任だ。心配しなくてもこいつに大事はない。時間までには必ず送り届けるから 安心してくれ」
 安心できるわけがない。
 激昂されるかと電波相手に身構えるが、震えがくるほど静かな沈黙のあと、「そうか」の一言で携帯は切られた。



 手塚に携帯を放り投げ、その彼の手を握り締めて早足で歩き出す。それに手塚は無言で付き従った。
「手塚。真田と付き合っているのか」
「付き合う?」
 メモリーされていた真田の携帯番号。きっとお互いがそうなのだろう。
「言葉どおりの意味だ。異性として、異性じゃねえな。同性として、ってのも意味が違って、その、なんだ。 好きか嫌いかって言うなら、好きなんだろうけど、もっと深い意味であいつが必要とかの付き合うだ」
 なんで、自分はこんなにこと細かく説明をしているのだろうと不思議だ。当の手塚は、しどろもどろの橘の問いに少し考えるふう を見せたあと小さく呟いた。
「真田は初めてかもしれない」
――何が初めてなんですかぁ!
 その短すぎる答えに橘の妄想はあらぬ方向へ吹っ飛んだ。手塚の次の答えがもう少し遅ければ、完全に切れた理性はどこへ 暴走していたかわからない。
「以前母に言われたことがある」
 その話の脈絡のなさにすっかり毒気を抜かれた橘は、辛抱強く次の言葉を待った。
「子供のころから母が気を回しすぎて、俺の言葉を待たないで要望を叶えようとした。何が欲しいのとか、どうして欲しいとか。 一人っ子だったし、かまう大人は母だけでなく祖父も祖母もいた。俺が自分から話さなくなったのは、そのせいかもしれないそうだ」
「うん、それで?」
 橘にはどうリアクションしていいかわからない。
「青学のみんなも同じだ」
 その姿は容易に想像できた。
 手塚が寡黙だからその真意を掴もうと周囲は気にかける。本当はかけたいだけかも知れないが、そうさせるものを手塚は持っている。  だからいっそう彼は寡黙になってしまう。
 言葉を奪ってきたと言えるのかもしれない。



「必要があれば手塚だって自己主張するよな」
「ああ。待っていてほしいんだ」



   朴訥に告げられたそんな他愛のない言葉に橘は衝撃を受けた。
――真田が初めてだった。
 手塚の言葉を待って引き出せる相手。ただそれだけのことが、これほどの男に安定感を与えている。
 真田にあって周囲のだれにもなかったもの。



 あせっていたのかもしれない。
 いたたまれなくなって、つないだ手塚の手を体ごと後方の壁に縫い付ける。もう片方の手も同じようにした。そんな状況にあっても 大した反応の鈍さで橘を見上げてくる。
 不二の言うとおりだと思った。欲望むき出しの相手と平気で話せたりするらしい。
――ちゃんと見張りつけとかないとダメだろ。
 本当にあせっていたとしか言えない。



 月が白い。
 引き寄せられ、そのまま斜めからゆっくりと口づけた。





ま白い月の魔力に引き寄せられて。そのせいにして。



 微かに唇が重なり合ったと知覚したそのとき、腹部に強烈な痛みを感じた。
「ぐふぅ!」
 手塚の膝がモロ鳩尾に食い込んでいる。橘はそのままくの字に折れ曲がった。せりあがってきた胃液の苦さをはき捨てて、 彼を見上げる。冷徹魔人、動揺しているの図でも拝めるかと思ったが、先ほどと寸分変わらない冴えた表情で橘を見下ろす。
――ホントに可愛げのない。
 橘はよろりと立ち上がった。
「何のつもりだ」
「ちったぁ動揺しろってぇの」
「何のつもりだと聞いている」
「キスしたあとに言うか普通。情緒ってもんを勉強しろ」
「無理やり押さえつけて、その言い草はアリか」
「雰囲気だして誘ったら、受けてくれんのかよ」
 シュッー。
 怒りの表情も殺気の片鱗もなく繰り出された右ストレート。橘は大きな動作もなく、ひょいとかわした。かなり異質な、しかし 頭に血が昇った野郎相手には効果がありそうな喧嘩作法だと思うが、 場数なら橘の方が上を行く。少しバランスを崩した右の拳を支えるように手を添えた。それを振り払って、手塚は体勢を立て直す。
「真田でないとだめか」
 一歩間合いを詰める。それを厭って手塚が後ずさりする。



「何の話だ」
「俺じゃだめか」
「だから……」
「手塚!」
 少し怒りを顕わにした橘の態度にも、手塚は怯まない。場慣れしていると思った。こういったシチュエーションなど、何度も 体験済みというわけだ。そんな相手の一人として数えられることに、激しい嫌悪感を感じた。真田はどうやってその中から頭一つ抜け 出したというのだろう。駆け引きが巧みだったのか、それとも押しの一手か。だが――
「真田がお前を口説いているところなんざ、想像出来ねぇな」
「口説かれたことなんかない」
「なんだって」
 軽い眩暈がした。あれのどこが口説かれてないって言えるのか。
「あいつに言わせると俺のテニスは無謀なんだそうだ。怪我に気をつけろとそればかり言う」
 心配性なんだと告げられた。
 橘は頭痛までしてきた。
 あんな泰然自若とした男が、だれにだけ心配性なのか本当に分からないらしい。ついでに心底真田が気の毒に思う。
 だが、周囲にはっきりとわかるほど手塚包囲網を敷いて、籠の鳥状態にして、中にいる手塚には気づかれないほどその懐は大きいのか。 今はそれでよしとしているのだろうか。
 だとしたら――。
「おまえ、もしかしてキスされたの初めてか?」
 当然の疑問を口にした。その問いには沈黙が落ちた。
 目をむく橘に手塚はくるりと踵を返す。
「きょうのことは忘れてやる」
 立ち去る彼にこれ以上の追求は不必要だと壁に背を預ける。だが自然と笑みが零れ、追い討ちをかけてやった。
「忘れるな。俺は忘れない。あれは本気だ」
 手塚の後姿がピタリと立ち止まった。そんな態度をとるものだから、また引き止めたくなる。手を伸ばそうとした気配を 察したわけでもないだろうが、振り切るように足早に立ち去った。



――あぁ、送るって約束したのに破っちまった。
 真田は怒るだろう。



   翌日、ベスト8をかけての二回戦。敗退が決まった青学は、この試合を最後に引退が決まっている最上級生の 悔し涙とともに会場をあとにした。涼しい顔をして帰り支度を終えた手塚を、橘は少し離れた場所から見送った。 自身は無敗のまま、周囲に鮮やかな奇跡を残して去り際は、満足のいくものだったのだろうか。その後姿からは 窺い知れない。
「無敗の男、団体戦に泣く、か」
「来年が見ものだな」
   妙な圧迫感を背中に感じると思ったらやはり真田だった。立海大も獅子楽も順当に勝ち進み、あすの準々決勝、対戦が決まっている。
「割りにあわんシステムに泣き言を入れるような可愛げはないな。ヤツが無敗だろうが負けは負けだ。来年は手塚の青学になる。 一年かけてチームの底上げをしてくるぞ」
「うかうかしてられません、か。相変わらず何もかも悟りきった口を利くヤツだぜ」
 苛立たしげにはき捨てる橘に、真田は手にしていた黄色いボールを放り投げた。それを片手で掴み、何の意図かと眉を寄せる。
「練習用コートが空いている。軽く打ち合いたい」
「せっかちだな。あしたまで待てないってか」
 それとも、と橘は不遜を隠そうともしないで口の端を上げた。
「きのうの仕返しってわけ?」
「時間がない。さっさとついて来い」
 橘の是非も問わず問答無用で前を行く真田と、わざと歩調を違えて続く。橘がコートのフェンスをくぐったとき、真田はすでに ネットを挟んで立っていた。ボールは一球。サーブはくれてやるという風情だ。



「きのう、あれから何があったか聞かないのか」
 ゆっくりとトスを上げ、肩慣らしのつもりでハーフスピードのサーブを相手コートに放り込む。承知している真田もコース取り だけを考えたスピードで返してきた。
「手塚を押し倒しでもしたのか」
「滅相もない。軽くキスを一つ頂戴した。もっとも膝蹴りもくらったがな」
「あれの爺さまは武道の師範か何かだそうだ。それで済んで僥倖だったな」
「実践して投げ飛ばされでもしたか」
「ねじ伏せてまで本懐を遂げようとは思わん」
「本懐ときたか」
 ウォーミングアップの段階からボールに重みとスピードが増してくる。むきになるのはお互いさまらしい。
 攻めあう。足元に叩きつける。それをすくい上げる。方向を変えてそれを追う。
 面白いくらいに拮抗している。プレイスタイルが似ているのかもしれない。
「手を引けとか言わねえんだな」
「それは手塚が決めることだ」
「あいつは決めないぜ。間違いなく自分で決めない。情にほだされて引きずられるタイプだろ」
 だから俺が決める――と真田の足元にボールを叩きつけた。背後に点々と転がるそれを真田はラケットで掠めて拾い、 くるりと振り返った。
「おまえはバカか? この俺を焚きつけてどうする?」
 傾きかけた夕陽の逆光で真田が笑ったのか怒ったのかはわからない。だが、眠れる龍の尻尾をわざと踏んでやったのだから、 そろそろ本気を出してもらわなければ意味がない。



 真田から奪いたいのはその余裕。手塚のことはあとからついて来る。
 そう思って、橘はトスを高く上げた。



 end




これぞ正真正銘の書き逃げ!去年の全国大会の様子なんて、妄想するにも限度があって。(苦笑)
青学って何回戦まで進んだんでしょ。ゴールデンコンビが一勝しかしてないって どこかにありましたよね。だもんで、青学二回戦負けってMy設定で。

わたしホントに橘スキーなんです。だから手塚の初キスの相手は彼って決めてたのさ。 それがある日突然真塚に芽生えてしまって。(心の師匠いたがきさまのSS読んで真田のかっこ良さに開眼。以降一途)
一夜にして橘は日陰の身へと。だからこのくらいの役得いいよね、 ということで、初志貫徹させていただきました。
けど、終わらないよ、この話。