とある土曜日の部活終了後、立海大附属中学男子テニス部二年柳蓮二は、軽い足取りで 部室へと向っていた。「動かざること山の如し」を地でいくわが部の副部長の眉が、下がる瞬間を 拝めるかもしれないという思惑があったからだ。別段そのことに執念を燃やすほど彼も暇ではないが、 男子ばかりのむさ苦しいクラブ生活の一服の清涼剤として、柳の根底に巣くっていたりする。 それほど大げさなことではない。ただ、真田の驚いた顔が見てみたい――だけだった。 部室の扉を開け汗の充満した匂いと男臭さに顔をしかめ、自身のロッカーへ向う。素早く 着替えを済ませると、部長と打ち合わせ中の真田の、机を挟んだ向側に陣取った。 「よぉお疲れ」 部長は気軽に声をかけるが、当の真田は何の用かと一瞥をくれただけだった。柳はふんわりと した笑みを浮かべると、気障な跡部もかくやという仕草で、人差し指と中指に挟んで封筒の中から チケットを取り出した。 「いいものが手に入ったんだ」 部長が手を伸ばして掴もうとするのを寸前でかわし、真田の眼前に突きつける。彼は――目が悪い わけでもないのに、すっと視線を引き絞っただけだった。 「ジャパンオープンファイナルか」 「そ。あしたの試合。親父のつてで手に入った。結構いい席なんだ」 「それはよかったな」 「おー、すげぇとか、行きてぇとかの普通の反応は出来ないのか?」 真田はくだらん、とばかりに鼻白らんだ。 「あしたいい具合に練習休みだし、親父が行きたがってたのを無理に頼んで、二枚ゲットしてやったのに」 これ見よがしに室内灯で透かせるように掲げたそれは、後方から伸びてきた手によって強奪された。 「へぇ、明日のヒューイットとクラクトビルの試合か」 噂の一年、切原赤也とは俺のこと――が口癖の後輩だった。倣岸さでは真田と対等に張った つもりの侮れない一年だったりする。 柳の手から奪われたそれは切原によって逆さにされたり裏向けられたりしていた。 「いいな。コートサイドの指定席じゃん。ヒューイットのあのバックハンドからのオープンスタンス、生で 見れるんスね。真田副部長、ヒューイット好きっスもんね」 「返せよ」 「俺も行きたいな」 「行けば。チケット自分で手配しな」 「柳先輩、冷たいっスよ。可愛い後輩労わろうって気ないっしょ」 「僕はね、鏡だと思ってくれ。いいヤツに対しては僕もすごくいい人。それなりにはそれなり。 倣岸不遜、唯我独尊のおまえに親切にするいわれはないね」 「でも、副部長には優しいじゃないっすか」 真田を目の前にしてよくその切り替えしが出来たと褒めてやりたい。部長など口が無限大マークの ようになっている。当の真田は聞いていなかったのか、何か考えるふうをして立ち上がり、 切原の手からチケットをもぎ取った。 「二枚か」 徐に携帯を取り出すと真田は、三人から顔を隠すようにパイプ椅子の角度を変えた。 「俺だ。今大丈夫か?」 柳と切原は顔を見合わせる。 「あした部活は休みか? あぁ……。ジャパンオープンのファイナルのチケットが手に入った。 おまえ行きたがっていただろう」 「ちょっと、真田!」 「だれに言ってんスか?」 二人は交互に苦情を申し立てるが、しっしと片手であしらわれニベもない。 「……そう有明だ。十一時から。会場前はごった返すから、駅に着いたら携帯鳴らすか?」 真田はパイプ椅子の背に体重を預け、わざと彼らを振り返りにやりと笑った。 「……そうだな。親父のつてで手に入った、らしい」 無理やり取り戻そうと真田に覆いかぶさるが、それも難なくかわされた。ガタガタとパイプ椅子を 押し倒す形でつんのめった。 「いや、なんでもない。まだ部室だから喧しいだけだ」 携帯はそのままで、手を振って部室を出て行く真田の後ろ姿に柳の声がフェードアウトした。 「鬼! 人非人! 真田のバカヤロウ!」 翌日、絶好のテニス日和。有明コロシアムに世界の強豪選手が集う、おそらくアジアで最大のこの トーナメントは、テニスに関わる日本人すべての夢舞台だ。世界のプレイを目のあたりにする。目覚める。 そしてその影響を受ける。そうして裾野は広がっていく。 その神聖なコロシアム前にいかにも不審そうな二人組み。帽子を目深に被り、目だけをぎょろつかせ、 ポケットに手を突っ込んだままで、首からはすでに双眼鏡をかけていた。仮にも中学の全国大会を制した、 立海大附属の中心メンバーの姿にしては哀しすぎる。 「先輩、当日券なかったらどうするんスか」 「ダフ屋から買ってでも入る」 「金持ってんスね」 「あとで真田からふんだくってやる」 「意地になんなくても」 「喧しい。チケット譲ってくれた親父になんて言い訳すればいいんだ? おそらく帰ってきたらどうだった って聞いてくるんだ。真田に取られましたじゃカッコ悪いだろうが」 「親に気を使ってる家庭事情が滲みでてますね」 切原の哀愁漂うため息を聞き流し、チケット売り場へと急ぐ。 すり鉢状のセンターコート。最上段から階段を降りるにつれて、そこで行われる熱戦にすでに 飲み込まれそうになる。先に降りていた切原が席を見つけたのか、手を振ってよこした。 大歓声によって迎えられる両選手。プレーヤーの息遣いさえ聞こえてきそうな静寂と、観客の 腹から起こるどよめき。そして審判のコールの声とインパクト音だけが支配する空間。柳は試合に 没頭していった。 「結構知ってる顔いるっスね、先輩」 双眼鏡を一所に落ち着けずキョロキョロと見回していた切原が呟く。それには無視して黄色いボールの 応酬を見ていた。 「あっ、あれ氷帝の跡部だ。あんにゃろプラチナボックスに陣取ってますよ。生意気〜。うわっ、副部長 発見! えっ隣にいるの手塚さんじゃないですか」 「今気づいたのか」 「先輩、知ってたんスか?」 「真田のあの反応なら彼だろう、っておまえ試合見てないのか?」 「あの手塚さんがちょっと興奮して頬を染めてますよ。色っぽ〜」 いい加減にしろと切原の双眼鏡を下げさせたが、それを振り切る。 「げっ、あのセクハラ親父。手塚さんが試合に没頭してるのをいいことに、ふんぞり返って肩に手を 回そうとしてやがる。にゃろ、潰すよ」 ばかばかしいと吐き捨てたが、切原の呟きが気になって、折角のこの試合ボールの軌跡を追う ばかりになってしまっている。 「やっぱあの人綺麗だわ。私服姿が扇情的でさ。ねえそう思いません」 「さぁ、僕にはよくわからない」 ついつい答えてしまった。 「柳先輩は手塚さん嫌いなんスか?」 「嫌いとか好きとかないだろう。ライバル校の部長だ」 以前真田に問うたことがある。君は手塚に何を望むのかと。それに答えて真田は言った。 ――手塚らしくあることを、と。 それならばと続けた。 ――僕は真田らしくあることを願う。 魂が揺さぶられるような恋をして、自身を保っていられるのならかまわない、と今にして思えば 詮無いことを言ったかも知れない。真田は本気だ。力加減や駆け引きが出来る器用な男ではないから、 斬りあいのような恋になる。それがわかるだけに歯止めをかけたいとも思った。相手が手塚だから どうというのではない。だれにとってもそうなる真田は御免だ。 「うわっ! うわっ!」 興奮気味の切原の叫び声に、現実に引き戻された。切原が柳の腕を掴む。何事かと手にしていた 双眼鏡をかけた。何が哀しくってこんな出歯亀まがいのことをしなくちゃならないんだと、呟きながら。 立海大附属コンビ、思わず背筋が伸びた。 真田が手塚の肩を引き寄せた。そのまま顎をすくう。気づいてその手を押し戻そうとするが、 抵抗が弱いのかされるがままに唇は重なった。角度を変えてもう一度。 周囲の観客が気づかないのをいいことにやりたい放題だ。ほんの少しの隙を見つけて手塚が 拳を繰り出す。それを片手で難なく受け止めて、真田弦一郎実に満足そうに笑った。 驚く顔を拝むより希少価値がある。 ヒューイットのクロスが豪快に決まった。地の底から湧きあがるような歓声に、柳の手から双眼鏡が こぼれた。切原もごくりと喉をならしてそれから目を離す。しばらく呆然と前を見続ける二人。 「副部長、笑ってましたね」 「僕たちは何も、見てない」 「見なかったことに、できるかな、俺」 気がついたら試合は終わっていた。序盤しか見ていない。スコアを見ると圧倒的な強さで ヒューイットの優勝が決まっていた。表彰式なんかも始まっている。一体何しにここまで来たのやら。 大体あの野郎が――そう反芻するごとに怒りが込みあがってくる。 柳はもう一度声を上げた。 「真田のバカヤロウ!」 |
相互リンクのお祝いに、いたがきさまへ押し付けました。快く引き取って いただいてほっとしてます。 蓮二先輩の真田の呼称が「弦一郎」だったのに、 わたし完全に忘れてました。書き直そうかなとも思ったんですが、差し上げた師匠にも 了解をとってこの呼び方で押し通しました。この方が好きなので(頑固) 手塚ショックの 反動というには中途半端なコメディで申し訳ないです。立海大出歯亀コンビ道中記は 続くかも? |