まるで雨粒のひとつひとつが見透かせるような、激しい雨だった。
 通り雨だ、すぐに止む。
そう思うことにして、ふらりと手塚は地面を叩き続ける雨の中へ出た。
「手塚。」
 厚い雲に覆われた空が、不気味に唸り続けている。その合間に呼びかける声が紛れたような気もしたけれど、振り返らなかった。


 電話口の向こうでした、有無を言わさない口調にただ呆れて。
「…時間を空けろ。」
 少しだけ押し問答のような会話が繰り返された後、結局手塚は言われた通りに時間を空けた。夏休みも始まっていたし、 練習さえなければ都合の付く日もいくつかあったので。そんな言い訳を、ひとり考えながら。それが個人的な試合の申し込みだっ たりしたら、迷わずに断っていたと思う。けれど、どうも違うらしかった。
 ― 来なければ良かった。


 いまはそのことを、思ったよりも強い雨足のせいで見る間に重くなってしまった全身と同じくらい後悔していて。 ついさっきまではこんな空の下でも穏やかな気持ちでいられたはずなのに、ただ後悔していた。


 知らない街だ。少し後ろを黙ってついて行くだけで良かったから、駅までどれぐらい距離があるのか覚えていない。 それでも、走る気にはなれなかった。どんどん濡れていく体に電車に乗る時迷惑になるだろうなとは考えたけれど、動揺している ことを気付かれるくらいなら、そちらの方がマシだと思う。 雲の切れ間が光り出す。すぐに強い雨音さえかき消すような大きな音と一緒に、空と手塚の視界をまとめて引き裂き雷が近く に落ちた。
 まるで最初から約束でもしてあったように、お互いテニスのことは一切口にしなかった。それが手塚の気持ちを少しだけ楽に させたし、色々なところへ引っ張り回されたりしなかったのも助かったと思う。ファストフードが苦手なところは似ていたし、 同じ年代の人間にしては珍しく箸の使い方が端正なところが印象的だった。ぽつりぽつりと交わす会話のスピードも、自分には 合っていたと思う。


 それがどうだ。


こうなると、雨粒が縦に流れて行くだけの眼鏡はまるで役に立たない。諦めてシャツの胸ポケットにしまうと、視界は更に 悪くなった。 歯を食い縛る。薄暗い世界を埋め尽くすような雨に、それでも前を向いて歩いた。 俯くと何かに負けたような気持ちになりそうで、今まで感じたこともないような苛立ちを初めて手塚は味わう羽目になっていた。


「手塚。」
 暗い空がもう一度、気味の悪い光に瞬く。ぼんやりとした視界でそれを感じた時、右の手首が後ろから抑えられた。 まるで何かの武道の見本のように、大きな手がぴたりと骨を縫い止めて。無理やり解こうとも思わなかったけれど、わざわざ振り 向いて視線を合わせるようなこともしたくなかった。
「…つまらん真似をするな。」
 近い。続く雷の音に紛れて、低い声が落ちた。
 誰のせいだ。そう言ってやりたくなる。自分だって、濡れたくて濡れているわけじゃない。 ここから帰りは二時間近くかかる。その間のことを思えば、大人しくビルの影で雨をやり過ごすだけで良かったのに。
「離せ。」
 いつもなら全ての人間を退けられる口調で、短く返す。雨はますます勢い付いて、世界は今にも降り注ぐ水の中に沈みこん でしまいそう気さえした。 お前も沈んでしまえばいい。右腕を取られたまま、手塚は心の中で罵った。いっそ近くまで来ている雷にでも撃たれてしまえ。 真剣にそう思った。
「そう言うわけにも行かんだろう。」
 心なしか呆れたような口調が、癇に障った。


 帰り道、雨が来た。夏の午後にはよくある夕立で。
「遅くなるな。」
 シャッターの下ろされた小さなビルの影で降り出した空を忌々しそうに見上げる視線に、軽くため息をついた。
「…仕方ないだろう。」
 それから通りすがりによくある外資系のカフェを見かけたことを思い出して。短くそのことを伝えた。 もう少し。そう、雨が止むまでくらいは一緒にいてもいいとさえ思っていたのに。


 ふと、視線が合って。


 手馴れた様子でビルのシャッターに肘をついて距離を詰め、まるで当然のように降りて来た唇を咄嗟には避けられなかった。 それほど力を込められたわけでもないのに顎へかかった手を、ひんやりとした金属の壁に押し付けられた背中をどうすることも 出来なかった。
 ― そんなことをされるのは、初めてだったから。


 やがて離れた唇の感触に呆気に取られて、ただ立ち尽くしているしかなかった。 器用な親指に濡れた唇を拭われて、やっとまともな判断力を取り戻したような気になった。我に返った途端、他人の視線が 気になって。 けれどこんなどしゃぶりの雨の中、呑気に歩いている人間なんてどこにもいない。周囲には人影さえ見当たらなかった。
「止まんな。」
 まるで何もなかったように体を隣へ戻してから、真田の視線がもう一度空へ移る。途絶えた会話の続きをするように声を かけられて、手塚は唐突に確信した。場数を、踏んでいるのだろうと。
 返事出来るはずもない。いたたまれずにビルの影を出た。


 いまからでも遅くない、抑えられたままの手首を強引に振り解けばいい。何なら、一発殴ってやってもよかった。 ただし圧倒的な骨格の差は否めなかったし、大人しく殴られる性格だとはとても思えなかったから相応の覚悟は必要だった だろうけれど。
 今日3度目の雷鳴の後、もう一度呼ぶ声がした。
「手塚。」
 振り返るな。そう思った。どんなに取り繕っても、見定めのつかない感情の揺れを気付かれそうで嫌だった。 大きな手、広い肩幅、きっと後悔の欠片も伺えないはずの憮然とした表情。 自分が持たない全てのものがそこには揃っていて、今は何を見ても苦しいだけだと思った。
「…離せ。」
 容赦なく雨水が流れ込んで来るのに耐え切れなくなって、目を閉じる。さっき返したのと全く同じ言葉が、口をついた。 俯けば負けだ。そうも思った。視界を閉ざした時点で、とっくに勝負はついていたのかも知れないけれど。


 負けたくない。これ以上。


 何に負けたくないのか分からない、けれどもうこれ以上は真田に負けたくないと感じていた。


 本当にすぐ近くで何度目かの雷が落ちたとき、手塚はやっと告げるべき言葉を見つけたような気になった。
「…謝れ。」
 正論だ、当然の要求だと思った。形だけでも詫びて見せれば、許せるだろう。何をされたか、忘れてやることが出来ると思った。 それなのに。
「必要ない。」
 断固とした声が返って来る。今度こそ細い眉を顰め、激しい怒りを露にした手塚が振り返った。
「謝れ。」
 相変わらず右の手首は抑えられたままだったけれど、構う事はないと思った。こっちも男だ、本気でかかればどうとでもなる。 たとえ多少の怪我をしても、ここで引けば負けだと思った。顔に見っともない痣や傷をつくることより、もっと悪いことがある。
「何が不満だ。」
 予想通り不機嫌そうな表情に迎え撃たれて、ますます怒りが沸いた。少しは動揺しろ、悪いと思え。心の中で散々罵った。
「全部だ。お前の全部が不満だ。」
 なのに口に上るのは、ほんの一握りで。口数の少ない自分をこれほど歯痒く思ったのも初めてだった。
「とにかく謝れ!」
 苛立つ感情に、声が大きくなるのを抑えることが出来ない。
 ありったけの力を込めて掴まれたままの手首を振り解こうとした瞬間、その動きと合わせるように大きな手は離れていた。 事もあろうかそのまま手塚の額へ移り、雨で張り付いた前髪を掻き上げてみせる。
「…下らん意地だな。」
 怒りの余り声もない。真田の眉が片方かすかに吊り上がるのが見えて、本気で殴ってやろうと決めた時。
 空が光る。視界が白くなったほんのわずかな間に今度も唐突に唇が重ねられて、手塚の目がはっきり見開いた。


 ― 動けない。


 容赦なく辺り一面を揺るがした轟音にさえ、体は少しも反応しなかった。
 それ切りぱたりと閃光は途絶え、後は低い唸りと雨の音だけが延々と続く。不遜な真田を撃ってくれるはずだった雷は 、もうどこにも見当たらなかった。


 雨。ひたすら雨だ。


 世界を覆うふたつの響きと触れ合ったままの唇にわけもなく胸が苦しくて、諦めて目を閉じた。― そう、諦めて。 されるままでいようと決めた。
「…何が不満だ?」
 再び唇の距離が離れた後で、体だけ引き寄せられる。静かな問いが耳元で繰り返された時、手塚は全てを諦めることが一番 だと知った。
 きっと何を言っても、この男には分からないだろう。自分の気持ちなんて、分かりはしない。
 ため息ひとつ。それを最後に真田の言う下らない意地を、続く雨に流してしまうことに決めた。
 だからもう、言葉は必要ない。必要ないはずだ。そんなもの、全部雨に流してしまえばいい。
 小さく首を振って、終わりにすればいいと思った。どこでもいい、後で必ず2発は拳を打ち込んでやろうと心の中で誓いながら。 力が入らず下がったままだった腕を上げて、すぐそばにあるシャツを少しだけ握り締めてみる。雨の冷たさだけが指先から伝わ って来て、改めて真田の全身が濡れていることに気が付いた。
「…家へ寄って行け。こんな状態で帰れんだろう。」
 水を含んで刎ね上がることさえ忘れてしまったクセの強い髪を、大きな手が宥めるようして撫でて来る。今だけは好きにさせて やればいい、不思議と感情は穏やかになっていた。


 やがて雨は止むだろう。ひとり目を開くと、逞しい肩を透かした先には相変わらず薄暗い世界が広がっていた。
 この雨が途絶えたら、後には何が残るのだろう。
― 多分、答えは自分の知らないところにある。そんな気がして手塚はかすかに口元を綻ばせた。





…へ、返品は不可でございますよ!木島さん!!
亭主関白副部長と流されやすい手塚で、初デート。
そして砂を吐くほど甘い話を。
この方向を目指し必死で突っ走りましたが、何だか見事に玉砕模様です。しかも気付けば『例の台詞』を思いっ切り入れ忘れて おりまして…まさしく、たるんどる!状態でございます。
い、一応いたがき的にはラヴ度500%上昇のつもりでおりますが…リテイク、 謹んでお受けいたします




相互リンクのお祝いに、いたがきさまから頂戴しました。
師匠の真田に一途な木島の 望みを叶えていただいて、感謝の言葉もございません。
やっぱ師匠の甘甘はよいです。木島には百年経っても到達 できない微妙な心理の筆タッチ。刹那い二人の温度差。プライドの高い手塚の、さらに上をいく副部長。
このあと手塚がどうなっちゃうのか、大変気になります。(でへへ)