on one's own
〜2
「少し、つかぬことを聞きたいのだが、蓮二」
その日の練習も過酷に恙なく終了し、ドロのように疲弊しきった部員たちを飲み込み鬱蒼とした部室で
俺は、隣で汗だくのシャツを脱ぎ捨てた友人にそう言い放った。
夏の全国大会で他校を寄せ付けない強さで二連覇した我が立海大附属中男子テニス部は、長年の伝統と
実力と実績にものを言わせ、他のクラブが羨むほどのスペースを誇る部室を有している。
とは言っても名前と顔の把握ができないくらいの部員数を抱えているチームのこと。どんなに広くても
芋の子を洗うという表現はそのとおりだろう。
だが年功序列というよりも、いっそ見事なくらいの実力主義がうちの校風で、レギュラー組みと非レギュラーとの
待遇の差は歴然としていた。レギュラー専用スペースだ。それに一年からレギュラーだった俺と
蓮二は個人ロッカーの所有も許されている。
喩え最上級生でも、そうでない者はそこに足を踏み入れることは許されない。準レギュラーでさえない者は
その他大勢としか括られない。それが厭なら立ち去るのみだ。敗者にはだれも振り向かなかった。
別段それがうちの特徴だとは思わない。己の腕一本だけで勝負する世界で、それは当たり前の事実として
俺の前に横たわっていたし、気を抜けば部長だとて蹴落とされる。一瞬の隙も見せられない。
それほどうちの選手層は厚かった。
無論部室にあって、雑然とした猥雑さと男臭さからはどうあっても逃れられないが、ふつうに話す会話が聞きとがめられる
ことはない。だれも聞いていない。だから俺は思いきって蓮二に問うてみた。
ヤツは相変わらずの瞑目スタイルで、着替えの手を止めることもなく、頷いて先を促した。
「不愉快なら、聞いた瞬間に忘れてもらっても構わないのだが」
「うん? だからなんだ?」
「いや、だからあくまでも一般論だと踏まえた上で聞いて欲しい」
「やけにまどろっこしいな。言いたいことがあるならさっさと言え」
大人しそうな顔をしているが、コイツは結構気が短い。それに言いよどむ俺の心情を忖度するような性質も
持ち合わせていない。俺はキリと顔を上げてはっきりと言葉を紡いだ。
「おまえ、好きでもないヤツとデキるか?」
「試合相手に好き嫌いもあるのか? 要は対峙するほどの相手かどうかだろう?」
字ヅラをよく見ろ蓮二、と俺は言いたかった。スルとかデキるとか、真っ当で健康的でアウトドアな行動に使う
言葉ではないだろうと出かけた言葉を俺は呑みこむ。蓮二に非はない。俺の表現が的確ではなかったのだ。
だが続く言葉に躊躇する。俺の人生の中で、はっきりとそのテの単語を発したことなどいままであっただろうか。
俺に下ネタは似合わない。
泰然自若、古式騒然を地でゆく真田弦一郎が口にしてはならない言葉は、『ごめんなさい』だけではない。
もう一度言うがそのネタが俺を避けてとおる。
同級の丸井や仁王たちが繰り広げるあからさまで赤裸々な会話にも、表情ひとつ変えず見聞きしてきた俺だ。
健康な男子であるのだから、取りたてて眦を決するような野暮な真似はしない。しないが、かといって許容もしない。
それが俺のスタンスだった。
「意味が違う。だからつまり、アレだ」
エラソウに胸を張りながらも結局隠語しか使えない己に舌打しつつも、そんな俺の態度と言葉尻から真意を
汲み取れないほど蓮二のカンは悪くない。付き合いも長かった。
蓮二の無表情が少し翳った。
「ソッチ方向の話?」
「ああ」
「で、アレ――なのか?」
「そうだ。アレだ」
「おまえが?」
「あくまでも一般論だ」
隠密同士の符牒でもあるまいに、意味不明な言葉を俺たちは前を向いたままで呟きあう。端から見れば相当
滑稽だったろうが、そこは流石に親友。取り乱すこともなく真摯に対応してくれた。
「初めに断っておくが弦一郎。一般論だとか友人の話しだとかは、得てして己の心情を隠す手段として使われる。
俺相手に腹芸などと水臭い。と言うか情けない。正面切って白状してしまえ」
「どう解釈しようがおまえの勝手だが、俺は少し頭の硬いところがあるから、聞いてみただけだ」
「相変わらず頑迷な。分かった。俺は俺でそのつもりで聞くから」
あくまでも己のことではないとシラを切る。これは所謂相手に対する思いやりだ。ワンクッション置いた方が、
忌憚のない意見を吐ける。また聞けたりも出来る。もっと激しい内容の激白なら、相手のショックを和らげる
効果もある。
尤も、このテの会話を始めた時点で、蓮二のショックは相当なものだろうという気もするが。
「まあいい。それでその好きでもない相手と寝て後悔している男がいるのか?」
「寝たわけではないが」
「なんだって?」
「いや、こっちの話だ」
「そういう話なら俺よりも丸井や仁王の守備範囲だ。お前の好奇心を満足させられないが、俺的にはデキる
と思うが。男なら理解できるだろう?」
「男なら、そうだな」
「一体なにを悩んでいるんだろうな。相手のオンナに惚れているかどうかなど後から考えても仕方あるまい。
離し難いと思うなら関係を続ければいいし、ないのならきっぱりと一度限りにすべきだ」
「――」
「悩むくらいならそれほど好きでもないのだろう。けれど悩むほど相手を思い遣っているという気持も
確かにあると思う」
そんなこと、言わずもがなだろうけれどと言ってから、蓮二は少し驚いたように俺を見た。
「おまえ――いや、その男が気にしているのは自分の気持ではなくて、相手の真意なのか?」
俺はそうだとも、そうでないとも返事をしなかった。
答えられなかったともいう。
全国制覇三連覇に向けて新体制で始動し出した我が立海大附属の日常は、俺の中に滞っている澱のような
ものにかまけている暇もなく、ただ目まぐるしく過ぎてゆく。
実際幸村と俺とがトップになって、戦力が落ちただのと言われるのも我慢ならない話で、最上級生の抜けた
レギュラーの補足と補強に俺たちは余念がなかった。
幸村と俺との取り合わせはまさに柔と剛だとか、飴と鞭だとか、師匠と師範代だとか言われもしたが、ああ見えて
幸村という男も俺に負けず劣らず苛烈な質をしている。表面が温和なだけに俺よりも傑出しているかもしれん。
俺としてはサポートするに値する優れた選手であり部長だった。
だから毎日の気ぜわしさにすっかり落ち着きを取り戻していた俺に、あれ以来蓮二はなにも聞いてこない。
無論、アイツとはあれっきりだったから蒸し返されることなく、勝手に自己中毒を起こして、自己完結したと思い込ん
でいるだろう。
俺もそうだと思っていた。
そうだと思い込んでいた。
ことの起こりは、といっても大した出来事があったわけではない。その日、偶々練習が午前中で終了し、
ダブルスを組んだばかりの丸井とジャッカルが連携の確認をしたいと言い出し、幸村もサーブの調子が悪いと
同調し、仁王と柳生が付き合うと背中を押して、俺たち二年のレギュラー組みは、一旦学校を離れ、俺がメンバーに
なっているテニススクールへと向った。
あの日、アイツと勝負したあのコートへだった。
そう言えばあれ以来足を向けていなかったなと思いながら、メンバーたちの後についてロッカールームへ
入った俺はその入り口で暫く立ち竦むことになる。
瞬間にして凍り付いてしまった。
「真田?」
たじろぐ俺に気遣った幸村が振り返った。どうしたんだと問われるだけで糾弾された気がする。顔には
出なかっただろうが、俺の体内で血流量は増加し、心拍数は跳ね上がり、呼吸の乱れやら、異常発汗やら、
瞳孔の拡大やら不随意筋の弛緩やら、立っているのもやっとの重病人の如くだ。
そしてそれは身体のただ一点に集中してゆく。
俺はそこから一歩も中には踏み込めなかった。
あの日。
ここで。
この奥のシャワールームで。
アイツと。
アイツを。
言葉にも形にも現すことの出来ない激情に駆られて、狂ったように互いの熱を奪い合った。
どちらが先に火をつけたかと問われても、俺だったともアイツだったとも。それほど前後の記憶が緩慢だ。
思い出すものは何もない。
はっきりと言って行為自体覚えていない。ただ、激しい水音と壁に打ち付けた肩の痛みと、異常に高まった体温
と、そして――その瞬間だけがいまでも耳朶に手の中にはっきりと残っていた。
アイツと俺の二人分の抗い難い灼熱を。
そう知覚した瞬間――身体に染み付いた残滓が、俺の中で封印した筈のものが解放を求めて獰猛にのたうち
回った。
「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
幸村だけでなくメンバーたちの視線が痛くて、この場に留まり何気ない素振りで練習を続ける欺瞞さえ見つからず、
俺はただ、用事を思い出したと言い残しそこから逃げ出した。
そして今度は俺がアイツを求める。
だからと言ってアイツのように青学まで押しかけて、校門前で待つなど俺には出来ない。会ってなんと言う。
勝負したくなったと、真意を包み隠して何気ない素振りを装うのか。そもそも、俺にとっての真意とはなんだ。
あんな身が焦げるような打ち合いが出来る相手などどこを探しても見つからない。それは事実だ。アイツに
敬意さえ払いたい。それも間違いないだろう。また打ち合いたい。それには会わなければならない。
コートで対峙したいから会いたいのか、会いたい相手と打ち合いたいのか。
それともまたアイツとあのような行為を重ねたいがために、打ち合いたいのかさえも分からない。
つまり、俺にはアイツにかけるべき言葉をなにも持たない。戸惑う訳さえ分からない。それなのに総ての
神経は青学へと向う。一直線にアイツに繋がっていた。
まったく俺としたことが、堂々巡りの袋小路に己で追い詰めて、でかい図体を晒して通行人の邪魔をし、
駅の切符売り場でなにを迷う。
いい加減にしろと、俺は顔を上げた。
顔を上げ続けていろと叱咤し続けた。
一歩一歩手塚に近づく。手段はなにも弄さない。真正面からぶつかるのみだ。
そう。ただ、俺が受けた衝撃をおまえは感じ取ったのかと聞きたかっただけなのだろう。あの後、お前の中で
何らかの変化があったのか。それを知りたかった。
夏休みも残りあと僅か。青学の広大な敷地に足を踏み入れてもだれと出会うこともなく閑散としている。
体育館からグラントから、それぞれの部活の掛け声とボールを打ちつける音が聞こえてくる。そんな中、
耳慣れた音だけを頼りに俺はテニスコートを目指した。
やはり、最上級生の抜けた部活はどこか物寂しさを感じる。青学も結構な部員数を有しているが、ワンサイズ上
の服を着ているような空虚感は否めないようだった。
フェンス近くに寄り周囲を見渡せば、手の空いた部員たちからかまびすしいざわめきが起こった。立海大附属
の真田を認知してのことだろうが、そんなもの耳に入らない俺の視線は一点に絞られる。ちょうどコートから
下がるアイツの姿だけを追っていた。
俺を見つけた手塚の足がふと止まる。驚きを隠そうともしない瞳が丸く膨らんだ。キリと硬く結ばれた
唇がなにか言葉を形どり、その仕草だけで俺の中の余裕が少し戻る。多少なりとも狼狽えてもらえたようだ。
ただ見ているだけではなんの変化も感じ取れなかっただろう。それほどに微かで、それさえも見逃すまいと俺は
アイツを凝視していたという訳だ。
やがて手塚は少し歩調を上げてフェンスをくぐってきた。
余裕を見せ付けるために俺から声をかけた。
「久し振りだな。調子はどうだ?」
「ああ。悪くはない」
そう言ってから手塚は取ってつけたように、全国制覇おめでとうと社交辞令を述べた。思い切り棒読みのそれには、
苦笑するしかない。
「取りたてて賞賛されるほど大したことではなかったな」
「おまえならそうだろう」
倣岸不遜も顕わな科白に同じ視点で手塚も同意する。コイツにとっての全国もいまだ無敗のままだ。けれど俺と同様、
なにほどのことでもなかったのだろう。
戦いたい相手との試合でなければ意味がないと、ヤツの深淵を湛えた瞳は瞬時にして狩猟者のそれに変わる。
視線を下げるべきなのは俺なのに、なぜか見下ろされている気がした。
体格も骨格も気概も手塚に劣るものはなにもない。それなのに毛穴から立ち昇る不遜なオーラが、やたらとヤツを
大きく見せた。
手塚にとってのいまの俺は、さながら全国制覇という餌をぶら下げたげっ歯類という認識か。束の間見せた
食らいつきそうな視線に敢えて俺も挑む。
この真っ向勝負。負ける訳にはいかなかった。
「負けたなどと思っていない訳か」
「勝ってもいないが負けてもいない」
「あまりタカを括っているとどこかで足元を掬われるぞ。精々用心することだな」
「あり得ない。俺もお前もそんな中途半端な貪欲さを持ち合わせてはいない。執着しないものには見向きもしない。
だが、欲しいものはどんなことをしても手に入れる。その努力も怠らない。高みに到達しても視点を切り替えられる。
また機会を失っても次がある。なければ己でつくる」
――だからおまえだけは俺が倒す。
珍しく饒舌に、そして視線だけで焼き殺されそうな剣呑さを飲み込んで咀嚼して、俺はそれを血となし肉となす。
手塚の総てが俺の細胞レベルを活性化させる。そして進化させる。
そんな相手が直ぐ手の届く位置にいた。こんなに間近に、こんなに早く出会えた僥倖を誰に祝おう。
伝える言葉はひとつしかなかった。その後に続く千々乱れた感情の行く末はそれに付随される。どちらが先か
などもうどうでもよかった。
「手塚。打ち合わんか」
「ああ。望むところだ。少し待っていてくれ。もう直ぐ終わる」
「いま直ぐおまえが欲しい」
「やらん」
「そう言うな。お前の総てを食らいつくしてやる」
「それは俺の科白だ」
言い切って手塚は見とれるほどに艶然と微笑んだ。
戦って戦って戦って。
そうして俺と手塚の奇妙な関係は始まった。
continue
続けちゃいました(汗) ひっそりと不定期に連載しようかなと思ったり。
かっこいい手塚を書きたいと心に誓ったら、真田リリカル警報発令してしまいました。(滂沱) 二人とも
同時にかっこよく書けないのかよ〜
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