度差






 一日の練習がこれほど長く感じられたことはいままでなかった。



 コーチがたてたペース配分も、組み立ても、その日に課したノルマにも何の不足もない。手塚のプイレの総てを 知り尽くしている彼らには絶大な信頼を置いている。嘗てトッププロを何人も育ててきたイギリス人コーチと、 サブの日本人コーチ。そして専属トレーナーがトロイカ態勢で手塚をここまで支えてきた。
 痛みを克服し、見せることのなかった渇望をさらけ出し、今年は一気に高みへと。誰もがそう信じられるほど 調子はよかった。
 誰にも負ける気がしないとは倣岸だが、世界を渡り歩くには大人し過ぎるとの周囲の懸念が、今年の手塚の 自信に払拭されている。
 凄い年になるかも知れない。
 誰もが認め、手応えを感じ、その重責には震えがくるほど歓喜している自分がある。
 なのに。
 ロッカールームに引き上げ、着替えもそこそこに壁に背を預けた。利き手から滑り落ちたラケットは 裸のままでカランと高い音をたててその場へ横たわる。それをじっと視線で追った。
 大会半月前。確かに疲労はピークに達している。どん底まで落ち、その日に向けて這い登る。何度も経験 した過程だ。だが、何かが足りない。
 プレッシャーに押しつぶされるほど柔な神経はしていない。痛みとの戦いがない選手なんかもいない。 現に交通事故の意識不明から蘇って、ナンバーワンに返り咲いたアスリートだっている。
 けれども。
 暫く立ち尽くし、ノロリと体を動かした手塚は、バックの中から携帯を取り出した。そのシルバーボディを 握り締め、溜息しか落ちない。
 今週中に帰国すると言っていたあの男には繋がらないかも知れない。
 何が言いたいのかも分からない。そう思うだけで十分女々しい。
 嫌気が差しながらも、手塚はアドレスを繰っていた。



 成田に着いて携帯の電源を入れた真田は、着信記録を見て目を疑った。珍しくも三ケ月ほど会っていない同居人 からだ。もちろん留守録には何のメッセージもないが、十分劇的な軌跡を残してくれている。
 まず何かあったのかとそのことが頭を過ぎった。あの無精者がお帰りコールなど考えられない。 迷うことなく連絡をつけようとした携帯に着信があった。タイミングがいいのか悪いのか、柳からだった。
「俺だ」
『やあ、久し振り。いまどこだ? 日本か?』
「あぁ、たったいま着いたところだ」
『それはお疲れ。ところで、手塚、調子が悪いのか?』
 親友からそう唐突に切り出させたとき、真田の背が少し強張った。努めてゆっくりと息を吐き、そうか、と 確信的な答えを返す。
『手塚のプレイを見ていないだろう?』
 最後に見た試合はいつだったか、いや、何処かのコートで打ち合った方が後だったか、と記憶を辿ら なければならないほど希薄だ。
「しばらく離れていたからな」
『それは知っている。手塚の試合は? それも見ていないか?』
 久し振りだったから、会いに行ってね、と柳は言い訳するように続けた。
 見ていない。何も知らない。取り繕っても柳にはバレている。付き合いの長さは伊達ではなかった。
 ただ、耳を疑うというよりも、そうなのだろうなという想いが先に過ぎった。もやもやとしていた雲が払拭 された気さえした。
「それほどなのか?」
『何だろう。手塚が納得いかない顔をしたからかな』
「あいつはいつも、どれに対しても納得いかない顔をしている」
『そうだね。だからかな。全体的というよりも微妙なズレ。肩や肘を一度壊すと、怖くて自然とその部位を伸ばせなくなる。 届いていた場所に届かなくなる。ほんの小さな痛みにも過剰に体が反応することってあるんだ。弦一郎 には分からないだろう?』
「お前には分かるというのか?」
『そう、突っかかるなよ。そういうことがあるという話だ。しかし調子さえよければ、プレイを続けているうちに、 修正されてゆく。手塚ほどになればそれほど時間もかからないだろう。けれど、世界の第一線ではその序盤の狂いが、 命取りになることもある』
 言葉とは恐ろしい。あやふやだったものに明確な輪郭を与えてしまう。
 特にその手の言葉は呪いだ。怪我の多かった手塚に自覚させたくはない。だから敢えて気づかないフリを してきた。鷹揚そうに構えてきた。久し振りに接した柳でさえ気づいたのか、以前をよく知る男だからこそ 即断できたのか。プレイのズレは心のズレと捻りあって螺旋状を形成している。
 よくも悪くも一蓮托生。いかに自制心の強い手塚だって人の子だ。
 だから何があっても口にしてはいけなかったのだ。
『現役同士は辛いな。よく一緒に居られると思うよ』
「帰る場所が同じだというだけだがな」
『誰も自分のことで精一杯さ。お前を責めている訳ではない』
 気にかけるにしては多すぎるスレ違い。同居しているとはいえ、何週間も顔を見ないなどザラな 出来事で、それについてはいいスタンスだと互いで認識しあっていた。
 四六時中べったりと張り付いている関係など考えられない。シラフで言ったら殴られるのがオチだろう。 それでもヤツのことを一番理解しているポジションだと、慢心していたのかも知れない。
『お前たちの間に踏み込むようだが、少し言葉を選んで接してやった方がいいかも知れない。なぜか そんな気がしたから。言わずもがなだろうけどね』
 そう言い残して携帯は切られた。
 ポツンと一人取り残されて、手塚の顔が無性に見たくなった。見事なほど頑なな男の背中だけが想い 起こされる。正面切って向き合うことなど限られていて、いつも横顔か線の細い背中を見せられ、そして 同じように与えてきた。
 繋がりと関係が変わりつつあるのかも知れないと思いながら、真田は帰路についた。



 マンションへ帰り着くと、手塚は丁度シャワーを済ませたばかりなのか、ペットボトルを口にしながら 髪の毛を乾かしていた。
 当たり前のように視線が合わさって、そして生じる僅かな隙間。少したじろぐ真田。それを簡単に破ったのは 手塚の方だった。
「お帰り。久し振りだな」
「ああ。元気にしていたか? 調子はどうだ?」
「お陰さまで」
 絶好調と言えないのはいつものことだ。手塚の場合怪我と向き合って、騙し騙しプロ生活を続けている。 そんなことは百も承知だ。ただ――。
「関節の具合を聞いているのではない。お前のテクニックや試合運びに懸念を覚えるなど、僭越も甚だしいがな」
「どういう意味だ?」
 一蹴するかと思えば、意外なことに食いついてきた。まあまあだと、ただそう言って欲しかった言葉が、 形を変えて二人の間に横たわる。歪な色を成して。
 言葉の応酬が苦手な手塚が、自分から畳み掛けることなどほとんどない。この会話は打ち切った方がいいと、真田は判断した。
「別に深い意味はない。折角だから何か食いに行こう。俺もシャワーを浴びるから少し待っていてくれ。 お前、何が食いたい? やはり和食か?」
 バックを置いてバスルームへ消えようとする真田の腕を、意外な強さで手塚は押し留めた。
「きょう柳が練習を見に来ていた。何か言っていたのか?」
「ああ、聞いた。時間が空いたから寄ったらしいな。今度また食事でも一緒しようと。美味い天ぷらを食わせる 店を見つけたそうだ」
「嘘だ。それだけのことで柳がお前に連絡する筈がない」
「嘘だと? なぜお前に嘘などつかねばならん」
「ではなぜ、俺の目を見て話さない。なぜ俺がお前の携帯に連絡したのかを聞かない?」
 そう言われて初めて、腕から繋がった指先を辿り手塚の瞳に行き着いた。射るような視線に怯えている訳では ないが、まともに合わさず苦笑を漏らす。その様が手塚には気に入らないのか、掴まれた腕に痛みが走った。
「誤魔化すな。中学時代から洞察力の優れた柳の意見が聞きたい」
「では直接アイツに聞けばいいだろう。俺はきょう日本に帰ってきたばかりだ。いまのお前を知らなさ過ぎる」
 いなそうと思った訳ではない。それが本心だ。だが、手塚は空いた方の手で、真田の後頭部を固定する ように押さえつけた。苛立つ力加減に、真田としても怯む訳にはいかない。
「言えよ、柳から何を聞いた」
「しつこいぞ、お前も。自分で自覚しているから、そうやって人をけしかけているのか。それほど俺の口から 聞きたいのか。誰かに断言してもらわないと収まらないほど、無自覚でいたいのか? 違うだろう。誰に言われなく てもまず己が気づく。修正はそこから始まるのではないのか」
 カチリと何かの火が灯ったように、手塚はラケットを握ったときのような目をした。
「分かったようなことを。コーチですら気づいていない感覚的なものを、どうして柳は分かったんだ!」
「そんなこと俺が知るか! 絡むのもいい加減にしろ」
「じゃあ、なぜお前が気づかない!」
「何を――お前」
――突然、手塚からの噛み付くような口付けは、血の味がした。



 何度も歯がかち当たる情欲を置き忘れたような口付けだった。あせりから唇は何度か空振りし、漸く捕まえた と真田が思ったとき、既に手塚は力が萎えたように俯いている。それを両手ですくい上げ、目を合わせ、カチリと 点火させた。
 この状態の手塚に強いる行為に罪悪感はない。届かない言葉が体で埋められる筈もなく、欲しいと、ただ 性急に指は絡まる。もたつきながらも壁に手塚を追い詰めた。そのまま唇はそこここを蹂躙する。青い首筋 に、流離って耳朶を掠り、緩やかに胸の飾りに行き当たった。
 かみ殺す喘ぎ。ビクリとしなった細い背の震えに、支えていた真田の指から直裁に享受を伝えてきた。 それだけで眩暈がする。
 震える体は壁をズルズルとつたい降り、ひんやりとしたフローリングの床にへたり込む。その間も バラバラに動く真田の指は体中に跡を残した。
「自分から誘っておきながら、こらえ性のない」
 冷ややかな真田の物言いに、手塚は僅かに上体を起こして首筋に腕をからめた。僅かな隙間が寒々しく感じられて。 鼓動が重なって安心した。早鐘のような命の息吹だけがこの飢餓感を救ってくれる。そうでないとこの 行為に意味などない。
 壁を背に両膝をたてた状態で一度脳髄が弾け、その後も収まらない熱は体のあちこちに点在する。 どこもが敏感に反応し、どこもが感覚をなくして痺れを訴える。引きずり出されるように二度目。かみ締めた 唇は色を変え、そこを慈しむように真田は何度も啄ばんだ。
「も、無理だ」
「鍛え方が、足りんようだな」
 そう揶揄る真田も余裕はない。
 非難を込めた手塚を真田は横たえ、後ろから腕に閉じ込めた。体にかかる負担が少ないからと、しかしどこにも すがれない浮いた腕は、所在無く宙を彷徨うしかなかった。
「それで、何が気に入らない? 何に拘っている?」
「バ、カヤロウ、こんな、ときに聞くな!――」
「いまほどお前が、素直なときはないだろう」
 低く哂い体を進める。その度に声が上擦る。止めろと振り返りかけて、更に深みへと自らで誘ってしまう。
「ブレる――いや、視点が、定まらない――」
「痛みは?」
「――ない。調子は、いい。だから、だから余計に――」
「認めろ、手塚」
「何をだ?」
 酷く確信的な物言い。紡がれた次の言葉はもう聞き取れない。
「お前は、何も、分かってい、ない――」
 流れる涙と共に途切れた言葉を吐き出した。
 こんなものが欲しい訳ではない。
 与えて、与えられて。貪って貪られて登りつめる。そして突き落とされる。落ちた後の空虚感が 堪らない。いつまでたっても慣れない。
 何も変わらない。
 だが、誰にすがるつもりだったのか、と朧になりつつある意識の下で手塚は思った。



 月明かり。冴えた白。照らさせて静かに横たわる手塚のこめかみに真田は唇を寄せた。
 あどけない表情を晒したこの男は、目覚めれば何もなかったような涼しい顔をするのだろう。何せ筋金入り の堅物だから、と真田は笑った。
 硬い鎧を纏った日本人最強の男。内面も脆くはない。ないが、視線が上に設定されている分、自虐的 とさえ思えるほど徹底的に拘る。自らを苛む。見ていて気持がいいほど真っ直ぐに向き合う。
「諦めろ」
 彼はもう一度同じ科白を囁いた。
――俺は、お前が望んでいるものを与えてはやれそうにはない。
 同じフィールドに存在できるだけの喜び。ラケットを交じ合える幸運。そして共に、更に高みへ。
 手塚の寝顔を見つめながら、惚れているだけで十分ではないかと思った。それ以上でも以下でもない。
 カウンセラーなど死んでもなれない。そういう相手なら外を探せと。
――次は俺がお前をそのポジションから叩き落す。
 踏みとどまっている暇はない、と真田は手塚の頭を抱きながらそのまま横になった。






end




45678hitsを踏んで頂いた谷川さまへ捧げます。
ありがたいことに 「少年の孵化する音」シリーズを気に入って頂いているということで、二人が離れる以前の時期を選びました。 「胸に、胃に、子宮にグググーッとくるような話を」というお題に叶ってないですね。(もう笑うっきゃねぇ)
谷川さま。今回はご申告ありがとうございました! これに懲りないでやってくだせぇ。