国一翁の子育て日記





十月吉日 初孫誕生!

 きょうは朝からすっきりとした晴天だ。一昨日まで降り続いた長雨の影響は微塵もなく、仲冬の、肌に 刺すほど冴えた冷気は総ての器官に心地よい。
 庭に出て、ウンと背伸びをし思い切り早朝の空気を吸い込んだそのとき、居間の電話がまるで寿ぎを告げる かのように鳴り響いた。
 恐らく病院に詰めている息子からだろう。いつもなら家長たる者、電話や呼び鈴などになんの反応も 示さないがきょうは勝手が違う。朝食の支度をしていた家内を制し、逸る気持を抑えて儂は努めて ゆったりと受話器を上げた。
「手塚です」
『ああ。お父さん。もうすぐだそうです! いま分娩室に入りました』
「そうか。いまから向うとしよう」
『急がれた方がいいですよ。たぶん三十分くらいだろうと助産婦さんも仰ってましたらから』
「なに!」
 三十分だと! ならなぜもう少し早く連絡して来ん、と儂は受話器を強く握り締めた。
 折角の内孫の誕生だ。その産声も聞き届けたい。できれば産湯を貰う前の一番動物に近い状態の赤子という ものを腕に抱いてみたい。生憎息子の誕生の時代は出産間近の妻の横に付き添うという風習もなかったので、 その吉報は仕事先で聞いた。だからこそ、今回はもの凄く楽しみにしていたのだ。
 なぜそのくらいのことが配慮できんのだと語尾を上げると、息子のヤツ、
『言い争っている暇はありませんよ。待ってますから』
 と言って切りおった。
 だれに似たのか押しは弱いくせにマイペースなヤツだ。たぶん家内だろう。儂は支度途中の家内をせっつき 表通りに出てタクシーに飛び乗った。



 病院への行き先を仏頂面のまま運転手に告げ、そのまま後部座席でシートに身を預け取り合えず瞑目する。 こんな朝っぱらから、しかも指定先が病院なものだから、恐らく一刻を争う状態に陥っていると推測したのだろう、 気の利く運転手は軽快に流れていたラジオのスイッチを切ってくれた。それを認めて家内は嬉しそうに儂の腕に 手をかける。
「そんなに緊張されなくても大丈夫ですよ。こんないいお天気なのだから必ず元気に産まれてきます」
「そんなことは分かりきっておる。儂が心配しているのは、間に合うかどうかだ。国晴のばかもんが。もっと 早くになぜ連絡できん!」
「分娩室に入ったとしても時間がかかるものです。三十分だなんて最短の時間を仰ったんじゃないかしら」
「最短で産まれるかもしれんということだろう。状況が状況だ。せっかちな子供だと言ったのはおまえではないか」
「それはそうですけど。あなたは子供が産まれる手順をなにもご存知ないですから」
 吐き捨てた儂に家内は嫌味で応酬してきた。国晴誕生のときに付き添っていれば分かることだと言いたいらしい。 だから時代が違うのだと、分かっていながらシコリを残した顔をする。まこと扱いづらい。 そのうえ長閑にも余裕の面構えだ。苛つく己が酷く矮小に思えてきたわ。



 手塚家は、まぁ家構えを見てもらえれば分かるだろうが、何代もその土地に根づいた名家と言われている。 時代錯誤と呼ばれようと確かに格式は高い。別段言い触れ回っているつもりはないが、他人もそういう目で見る。 だから長男の国晴にはそれなりに見合った家柄のお嬢さんを嫁にと考えておった。
 いい年をして何度も見合いを断り、諦めかけていたときに初めて息子が連れてきた女性は、当時儂がもっとも 苦手としたきゃりあうーまんだった。
「初めまして、彩奈と申します」
 ニッコリ笑って挨拶した女性は確かに美人と呼ばれるに違いない。そのうえ立ち姿が美しい。背筋をピンと伸ばし、 なんら臆することなく義理の父母になろうかという相手に微笑みかけるのだから、胆力も相当のものだろう。
 嫁に胆力が必要かどうかは別としてだが。
 儂は眉間の皺をいっそう寄せ、家内は嬉しそうにアラアラと笑いよった。
 我が子ながらどこか亡羊とした国晴が見つけたにしては上出来だと言いたい。しかし我が家は宗家だ。 嫁となる者にきゃりあは必要ない。しつこいようだが、お茶やお花や、本流としての切り盛りやらが必要と される。その嗜みはあるのか。覚悟があるのかと問えば、
「お母さまにお願いしてもいいですか? 結婚しても仕事を辞めるつもりはないんです、わたし」
 と、返しよった。
 少し驚いた家内はそれでもコロコロとやけにご機嫌だ。そして、
「『国晴さんもいいと言ってくれています』って言わないところが、素敵だわ」
 訳の分からない感心の仕方をしている。要するに国晴に頼らずに己の信念を言い切ったこの娘の心根に 共感したらしい。女とは分からぬものだ。
「そんなこと許される訳がない。手塚家の嫁が共稼ぎだなどと」
 声を荒げたりはしないが、儂は威厳たっぷりに恫喝するがごとく言い放つ。ふつうの女子供なら萎縮してしまうとさえ言われている。 武道を嗜む者の腹の底から湧き出る威厳だ。国晴も少しは考えればよいものを。反対されることは最初から分かって いただろうに。儂だとて、あたら若い女子を泣かせるような趣味はない。
 しかし、
「出来ればご理解いただきたいのです」
 とふつうの娘は頭を下げた。臆するどころか、さらに重ねる気概に、儂は少しきゃりあうーまん というものを見直した。
「家のことはどうするつもりだ。居候でもあるまいし、三食昼寝つきで仕事とやらに励むのか?」
「昼寝はしないよね、彩奈さん」
「久し振りに口を利いたと思えば言うことはそれか、国晴!」
 儂の一喝できゃつは首を竦める。まったく、こんな男でいいのかと逆に彼女に問いたくなってきたわ。
 ニコニコと笑っている息子と家内。その中で将来の嫁に対してひとり気を吐く分からず屋の老人という 図式も格好のよいものでもない。緊張感のない周囲に宥められるかのように、そのまま月日は流れ、 綺麗に背筋を伸ばした少々生意気な娘は、後姿も美しい花嫁御料となった。



 多少反対はしたものの、それなりに嬉しかったのだろう。家内の手間が少しも減らず、くちさがない連中からは 嫌味のひとつも頂戴したが、それでも誇らしかった筈だ。
 それなのに、儂は彼女にとんでもない言葉を投げかけ傷つけ、後悔する羽目になる。



 息子夫婦には何年も子供が授からなかった。宗家だ家督だと騒ぐ連中は、総て仕事を持っている嫁のせいにする。 環境を変えなければ授かるもののそっぽを向くと、なんの責任感か儂に直談判してきた遠い縁者もいた。
 天邪鬼な性質が災いしてか、そうなると不思議なもので儂は一躍嫁の味方だ。
「総て息子夫婦に任せてある」
 他所の家庭に口を挟むなと一言の元に断罪する。少しは格好よいだろうと家内の方に視線を移せば、縁者を 目の前にして当の嫁と楽しそうに雑談中だった。
 無意味だったのか?
 こいつたちに援護射撃は必要なかったのを失念していた。周囲の声など我が道をゆくふたりには ムシに刺されたくらいにしか写らなかったのだろう。
 だから嫁の妊娠が分かったときには本心からあり難いと思ったし、六ヶ月までは働きたいと申し出た嫁の 好きなようにさせていた。家長である儂の一言の重みなど女二人にかかればなんの効力もないと分かり始めて いたからだ。
 ところが、順調だと太鼓判を押されていた経過が、産み月まであと少しといったところで急転した。
 間隔的に陣痛がきているらしい。嫁はそのまま即入院。とにかくギリギリまで絶対安静にし、産まれようとする 赤子を少しでも長く母体に留まらせるしか手はないようだった。
「あともう少しの我慢なのだけれどね。せっかちな子なのかしら。でも近頃の医療は発達していますから、 多少早く産まれても大事ないようですよ」
 病院へと向うタクシーの中で家内は相変わらず長閑に語りかける。そんなことが聞きたかった訳ではないのだ。 医療が発達しようが防げる事態をなんとしても防ぐ気持が嫁にはあったのか。仕事を取って腹の中の子を 蔑ろにしていたとは思わない。だがいま少しの配慮が必要ではなかったのか。
 言うまいとする言葉を呑みんだまま病室の入った儂は、元気そうな素振りで迎えた嫁に、つい、口に してしまった。
「だから仕事などさっさと辞めてしまえばよかったんだ!」



 しまったと気づいたときにはもう遅かった。
 ハッと息を呑む家内。嫁の瞳が少し歪む。気概など失っていた筈の息子に至っては、始めて儂に侮蔑に近い視線を 突きつけていた。
 ごめんなさい、と途切れそうな声が胸を引っかいた。かすれ声でも出していないと泣き出しそうな 嫁の顔があった。間違いなく、一番苦しんでいる彼女に、さらに畳み掛けてなにが名家の当主だ。 儂の方向性を見失った辛苦など、この打ちひしがれた嫁のどこより勝っていると勘違いしていたのか。
 だが発した言葉はもう戻せん。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 潤んだ嫁の瞳からは涙など零れることなどよしとせず、ただ大きくなった腹をさすって謝り続ける。
 儂にではなく腹の中の子に。
 それこそ何度も何度も何度も詫び続けていた。
「いや、すまない。言い過ぎた」
 そう告げても嫁は夕陽の傾きかけた病室で何度も腹を撫でていた。



「彩奈ちゃんがあなたを嫌いにならなければよいけれど」
 帰りのタクシーの中で徐に家内は言い放つ。黙り込んだ儂にそれでも収まらないと糾弾の声は厳しい。
「彩奈ちゃんが嫌うということは産まれてくる孫もあなたを嫌うということですからね。こんな鬼のような お爺さま、嫌われても仕方ありませんね。お気の毒」
 鬼はおまえの方だと言ってやりたかった。儂がこれほど打ちひしがれているのにまだ敵は続けた。
「折角なんとか持ち直して、ゆったりと養生すれば産み月まで妊娠を続けられたでしょうに、酷いことを 言われたストレスで出産が早まらないといいですけど。そうなったら、彩奈ちゃんと産まれてくる子供と、 あちらの親御さんにも申し訳が立ちませんよ」
 言い捨てる家内に、そのとおりだと告げる言葉を儂は失っていた。
 あれほど闊達で活動的だった嫁は病室に閉じ込められ、点滴でパンパンに張った腕に泣き言ひとつ言わず、 医者の指示通りに絶対安静に勤めた。これ以上の引き伸ばしは、かえって母体に悪いと判断され、そしてきょうを 迎える。
 長いものだとは正直な感想だった。待ちわびる儂たちがそう思うのだから、腹に宿した嫁はもっと切実 だったろう。
 とにかく無事で。
 かける言葉はそれしか思い浮かばん。
 そうして儂たちが病院の分娩室へと転がるように飛び込んだときには、緊迫した空気が一掃されるような 鳴き声が辺りに響いていた。
 まるで、闇を切り裂く黎明のような泣き声だった。
 儂は膝が萎えたようにその場に凍りついた。
 丁度白衣を着させられた息子が、満面の笑みを更にクシャクシャにさせながら控え室に出てきたところだった。
 腕の中には壊れそうなほどに小さく、だがその存在を全身で証明するかのような赤子の姿があった。
 家内はすぐに傍まで駆け寄る。儂はその場に吸い付いたように動けない。まぁまぁ、と言葉にならない 喜びをかける家内が儂を振り返った。息子もそれに倣う。
「男の子です。辛抱強い子ですよ。彩奈さんも頑張ったけれど、この子もよく耐えた。よくここまで 踏みとどまってくれました。確かに標準よりも小さいけれど、こんな立派な泣き声を上げてくれて、もう、 それだけで満足ですよね」
 と、差し出された小さいものは、真っ赤な顔に皺をいっぱい刻んで全身で震えていた。握り込められた 五指にそっと儂の小指を添えれば、赤子とも思えない強い力で掴んでくる。
 そう言えば、ひとが泣きながら産まれてくるのは、その後に控える数々の苦難を既に知っているからだと 何かの本で読んだことがある。辛い人生を祝福するが如く、先に泣いておくのだとか。
 将来この子の歩む道に、儂が何かの手を添えてやれるとも限らんが、それでも出来うる災厄は振り払ってやろう。 それが嫁に対する贖罪であり、この子への餞だと思うと、不意に、涙が零れた。
 それほど新たなる生命の誕生は衝撃的だった。



 産まれたての赤子はこんなにも脆い。しかし恐ろしいほど力強かった。
 手塚本家の長男は国光と名づけられた。ほんんど儂の一存だ。
 爺の欲目でもなく、赤子にしては凛々しい顔つきをしておる。そのまま抱き上げて周囲に自慢して回りたい ほどだ。
 うむ。よくやってくれた。
 明日からが楽しみだ。
 爺が思い切り可愛がってやるぞ、国光。







絶対この視点で書くだろうと思ってました(ハイ)
手塚が早産だったなんてファンブックのどこにも書いてないです(←だれもそう思わないって)
ちび手塚たちの さり気ない日常って感じで、もう、そりゃ、まったりと続きます。たぶんお話は一直線に進まないでしょうけど、 お付合い頂けたら嬉しいですv