真田一族の内紛 〜4







「真田が帰って来ないんですよ」



 恭一郎の指を留めるには十分過ぎたその言葉に、一番驚いているのは手塚自身だった。思っていた 以上の女々しさに戸惑い、彼の腕の中で不埒にもクツクツと哂う。その囁きを紙キレ一枚の位置で聞いていた 恭一郎は真意を掴めずに口の端を上げていた。
「喧嘩別れでもしたのか。弦一郎が君を置いてゆくとは、意外とこらえ性のない。しかし、それを君は寂しい と感じているのだろうか」
「よく分かりませんがそれはないです。精神的にそれほど依存はしていない。俺も真田も狭量だから、 気持半分持っていかれている分、弾かれることの方が多いですし、俺のキャパの残りを占めている 割合はささやかだったりする。それはお互いだと思います。けれど、その空きスペースに、ただ、 アイツがいない」
 腕の中の手塚がどこか頑是無い子供に思える。残り僅かしか空けていない場所に、真田がいないとだだをこ ねている。大部分をテニスに明け渡しているくせに、普段は何カ月顔を合わせなくても気にも留めないくせに、 その隙間を見つけてしまって安定を欠く。
 バランスが悪い、と。
 それがどれ程貪欲なことかと思わないのだろうか。このような状態で、至極当たり前のように 告げる手塚の心の深淵を垣間見た気がした。
 揺るぎなく、深みの部分で、誰を欲して止まないのかを。
 だから敢えて恭一郎は、眠った何かを揺り起こすように湿った音を立てて口付けを落とす。深く、深く 貪るように。何度も何度も。
 その行為を受けながらも手塚の意識はそこにはなかった。
 菩薩のようなと称した恬淡とした表情のままで。
 たとえここで体を開かせたとしても、手塚の心に何の烙印を押すことも叶わない。何の爪あとも軌跡も 残せない。それほど無為に手足を投げ出したままだった。
「どれほど――」
 唇を少し離して恭一郎は呟く。
 どれほど、君に焦がれているか分かるだろうか、と。
 自身にとっても思いも寄らない言葉だった。
 いままで、末弟と彼の関係をどこか冷静に見つめてきた。そういう関わりもアリだろうと、感覚は至って蚊帳の外。
 どのような恋だって終わりを告げる。終焉を迎えてどう形を変えるかなど関心はなかったはずなのに、 いつだって一直線な弟の視線の先にあったこの怜悧な美貌の男に、目を奪われるようになったのは一体いつからか。
 戯れのような言葉遊びで弟を翻弄してきた。誰に似たのか傲岸不遜も顕わな末弟が、多少なりとも狼狽えるさま を楽しんでいただけのはずが、何を切欠に深みへはまってしまったのかと、いま気づいた。
 届かないと知りつつも告げずにはいられなかった。
 この想いを疎ましいと認識されることもない絶望の逢瀬。
 どこまでもチリチリと胸が痛んだ。
 引きつった悲鳴を上げていた。
 彼は手塚の後頭部に手を添え引き起こす。幾分トロンとした手塚の瞳に向って、牙城のような矜持を持って 微笑んだ。
――きっと。
「いい作品が仕上がるだろう」



 広告代理店の仕事の正確さと迅速さには頭が下がると、予定を詰めてこの場に姿を現した恭一郎は思った。
 日本テニス界が誇る三人のプレーヤーたちの、ツアーのために世界中を回っている彼らの、すでに組まれた 過密な日程の合間を縫うように合わせられたこの一瞬。 製作者側に与えられた時間はごく僅か。三人にとっても無駄口を叩く暇もなかった。
 アップの段階からカメラは回り続け、彼らの姿を追っている。
 作品にストーリー性はなく、もちろん彼らに科白もなく、ただプレイスタイルそのものを収めるのが 今回のコンセプトらしい。小難しいことを考えなくていいからこそ、選手たちの了承を取り付け、 ここまで運んだのだろう。
 尤も、誰も手塚がニッコリ笑ってスポーツドリンクを売り込む図式など期待していない。
「せっかく久し振りに会えたってのに、なんなんスか、この強行スケジュール」
 それでも二つ年下の後輩は、嬉しそうにネット向こうの手塚目掛けて肩慣らしのボールを返してくる。
「この仕事が終わったら、俺、本気でトンボ帰りですよ」
「よく受けたな」
「それはこっちの科白。先輩の突拍子のなさに驚いているところ。まっ、俺としてはたとえ三時間でも 打ち合えるって聞いてホイホイと帰ってきたんだから、ホント健気で愛の力って凄い」
「ギャラも破格だしな」
「そういうミもフタもないこと言わないの。先輩がピンの扱いだって、俺とあの人が二番手だって分かってて、 それでも会える機会失いたくなくて、帰ってきたんスから。これでもコーチを説得したんだ」
 手塚のリターンは、製作者サイドの指定どおり、ネット向こうに並んだリョーマと真田の両方に 交互に返される。ご機嫌気味のリョーマとは違い、人一倍凄みの利く男は不機嫌丸出しで寡黙なままだった。
 リョーマは呆れてヘラリと口の端を上げている。
「やりにくいな。まるで腹をすかせた熊を真横に置いてテニスしてる気分だよ。なんとかなんないの、これ?」
 周囲も苦笑しきりだ。
 それはそうだろう。あれから何度か家でかち会ったが、挨拶だけはどうにか返している状態。 喧嘩別れしたみたいな態度に、手塚もその誤解を解こうとも、言い訳をしようとも、歩み寄ろうとも思わなかった。
 真田もご同様だ。怒りに任せ捨て科白を吐いて、その憤りをまだ昇華できないでいるのか。それとも 引っ込みがつかないのか。
 いま改めて、本当に久し振りに真正面から向き合っているようなものだった。
 からかわれ、黙って横目でリョーマを睨む真田を尻目に、製作責任者らしき男が恭一郎へと挨拶にやってきた。
「この度はご尽力頂きありがとうございました。念願は叶いましたよ。よくあの手塚選手を説得された ものだと関心しておりました」
「いえ、私は何も。ただうちの愚弟の態度があれで申し訳ないと思っているくらいです」
「何を仰います。それこそ相手選手を食ってやろうという闘志がむき出しじゃないですか。斬り捨ててしまいそう だ。まさにそんな絵が欲しかったものでね。あり難いくらいです」
 流石に超一流選手はトップから集中力を発揮していると感心する彼に、 まさか、食う食わないの比喩は気概だけではないとは打ち明けず、恭一郎は喉を鳴らして哂った。
 そしてラケットとボールをとおしてでしか語れない彼らに目を移す。
 二対一の攻防でも真田とリョーマは容赦しない。二人の球種は次第に威力を増し、手塚の息を乱しだした。
 変化する黄色い軌跡の跳ね上がり際を叩いて手塚はリターンを返し真田の足元へ。それをすくい上げた 真田は、変化を殺したボールに逆回転を与え手塚のコートへと。
 思いが流れてゆく。
 空を切るように。そして弧を描いて頭上を追い越すように。
 正面切ってぶつけるように。スカして翻弄するように。
 いつだって本気で向き合ってきた相手。これからもそれを願う相手。一球も手を抜けない。
 抜けさせない。
 襲い掛かる。襲いかけられる。
 手塚が出会った稀有な相手たち。
 息を詰めて、吐き出して、汗が散り、何かが応酬していた。
 プレイに入る前の様々な思いは次第に霧散してゆく。頭のどこかに残っていたシコリが黄色いボールにしか 見えなかった。
 恭一郎は、そういう方法を持つ彼らを少し羨ましいとも、それ故に交わす言葉が少ないのを不憫にも 思った。



――乾きは飢えで癒せ。



 この音だけで――選手たちのシューズがコートを駆け回る擦過音とボールのインパクト音だけで、十分な音響効果はあるな、 と誰かが呟いた。
 観客の歓声もなにもいらない。重なり合う鼓動だけで視線が釘付けになった。動いていない者たちまでもが 喉の渇きを覚えるような息遣いに、恭一郎の横で見守っていた男が溜息に似た感嘆を漏らした。
 スチール用の写真は彼らが流す汗の一筋までも捕らえ、ビデオカメラは爆発しそうな心音まで伝える。
「オッケーです!」
 責任者が撮影の終了を告げ、誰からともなく拍手が沸きあがった。
 最後のボールは真田がラケットでゆっくりとすくって手塚の右手に収められた。そして試合後のように ネットに詰めて三人は握手をかわした。
「お疲れさまでした。結構楽しかったですけど、俺、どんなことがあっても真田さんとダブルスを組まないと 確信したよ。コート上でよくぶつからなかったもんだ」
「それはこっちの科白だ。ぶつからなかったのではなく、俺が配慮してやったんだ。口を慎め」
「相変わらずエラそう」
「だれを取ってもダブルス向きじゃないからな」
「何を言うか。俺は以前、ダブルスで試合に出たことはあったぞ。出来ない訳ではない」
「ああ、もの凄い昔ね。先輩たちが中三の関東大会でしょ。確か不動峰戦で、正ダブルス相手に勝っちゃったんだ」
「らしい、な」
「相手は柳さんでさ。尊敬するな。こんな熊と一緒にプレイできる人も。一緒に住んでる人も」
 さぞかし苦労かけられてるんでしょうね、と言われ手塚は口の端を上げた。
「否定できない」
「喧しい」
「だろうね。ねえ、手塚さん。俺予定変えるからさ、一緒に晩飯どうです? 美味いもん食いに行こうよ。 久し振りに先輩後輩に戻ってさ。気苦労一杯抱えてるんでしょ。俺が癒してあげるよ」
「調子に乗るな。飛行機の時間が迫っているんだろうが。さっさと帰れ」
 そして、行くぞと吐き捨てて真田はコートを離れる。挨拶に集ってきたスタッフに一通り頭を下げ、 その横に佇む恭一郎を捉えた。手塚以上に兄弟の状態は険悪なのだろうが、チラリと視線を合わせ、 そしてもう一度後ろリョーマを振り返る。
 手塚の真横にいたリョーマは口をへの字のままラケットを抱えていた。
 かける言葉もなく、なに事もなかったように視線を戻した真田は、兄の横をすり抜けて行った。
 威圧感だけ残して。
 切羽詰まって、取り繕うことも出来ずに、最後の一手はガンつけとは真田らしい。その思いは恭一郎 にもつうじたようだ。彼も顎を上げて迎えうつ。
 静かな恫喝だった。
「なんなんスか、あれ?」
「さあな」
 リョーマの尤もな質問に、さっぱり分からんと手塚もその後を追った。別に追いかける訳ではない。 早く着替えてしまわなければ肩を冷やすから、と言い聞かせながら。



――乾きは飢えで癒せ。



 鼓動が印象的なCMが流れるのはもう少し後のこと。




end






どうぞ、私のことを寸止め大魔王とお呼び下さい。(笑)
こういうギリなのとてもとても好みでして。
でも、兄ちゃん健気でアレって。もっと灰汁の強いキャラだった 筈なのですが〜
いつにも増してリョマくんの扱いが酷すぎる。(ゴメ)