雨の物語









 さきほどまで肌に痛いほど晴れていたと思ったら、突如、空は鉛色へと変化し出した。
 面白いぐらいに雲の流れは早く、絵の具を何度も塗り重ねたように闇に侵食される。
 そうかとぼんやり眺めていたら、天蓋が抜けたような大粒の雨が窓ガラスをたたき出した。
 こんな気紛れな雨の夕闇は、あの日のことを思い出させる。



「降ってきたんだな」
 気がつけば風呂から上がったばかりの手塚が、濡れた髪の雫を肩に掛けただけのバスタオルに吸い取らせ ながらリビングに入ってきた。さっさと髪を拭けと言ってもお座なりな生返事を返すだけだ。
 ひょんなことから始まった同居も長くなったが、几帳面な筈のこの男の、俺が嫌う不用意さだったりする。
「気鬱そうだな。出掛ける用でもあったのか?」
 ペットボトルのアミノサプリに口を付けながら聞くともなしに尋ねてくる。軽い否定を返して、ふと 綻んだ表情に手塚は露骨に顔を顰めた。
「思い出し笑いだなんてじじむさい真似をするな」
「同じように老成したおまえに言われたくはないな」
「俺のは、落ち着いている、だ」
「物は言いようだが、ちょうどこんな日だったぞ。おまえを拾ったのは」
「人を捨て猫みたいに」
 手塚は口を尖らせるが、実際拾ったのだ。猫と一緒にこの男を。



 あの日――
 帰宅途中、駅についた途端バケツをひっくり返したように振り出した雨はアスファルトに跳ね返り、まるで 地の底からも噴き出すような酷い有様だった。傘があっても何の役にも立たず、往来をゆく人たちはそこここの 軒下で通り雨が過ぎるのを待っている。実際その方が懸命だったろう。
――すぐに止む。
 そう思いながらも俺は跳ね返る雨の中を歩いていた。
 つい最近始めた一人暮らしのマンションに待つ者はいない。別段一刻も早く帰らなければ ならない訳でもない。ただ、恨めしそうに天を仰ぎながら、豪雨が過ぎるのを待つ人たちの中に混じるのが 物憂いだけだ。
 自宅まであと少しといった曲がり角の道端にあいつはいた。
 つっ立っていた。
 斜めに傾けた傘からは表情どころか姿さえも確認できないが、俺は躊躇いもせず近づき、声もかけずに あいつの腕を取った。
「――真田?」
「おまえ、こんな所で何している」
 俺の言葉尻に怒りが混じっていたとしても仕方ないだろう。仮にもスポーツ選手が。いや、仮どころじゃない 一流のテニスプレーヤーが体を冷やすなど不用意過ぎると、俺は道端で説教をかましてやった。
「来るならなぜ連絡をせん!」
「別におまえに用があった訳じゃないから」
 この近辺に手塚の知り合いが他にいる訳でも、また、ジョギングの途中に豪雨に降られた訳でもないのは身なりで 分かる。手塚曰く、ふらっと歩いていたらここまで来ていたらしい。
 まったく、夢遊病者のような言い訳を吐きやがる。
「兎に角入れ。説教の続きは体を拭いてからたっぷり聞かせてやる」
 いつもならそこで露骨に嫌そうに顔を歪める場面だ。
 だが、その日の手塚はほんの少し上目がちに、その小動物を俺の眼前に差し出した。



 それは、たとえこんな雨の日に道端に転がっていたとしても、お世辞にも同情を引くような可愛げの ある猫ではなかった。
 人には慣れない猫科の習い性が、世間の荒波に揉まれてさらに人嫌いが助長され、汚れた体を綺麗に しようと試みる手塚といまも浴室で格闘している。これで手塚の体に傷でもつけようものなら、 雨だろうが雹だろうがさっさと放り出してやる。
 ここはペットの飼育は禁止。さらに付け加えるなら俺は猫は苦手だ。
 捨て猫の一匹や二匹、保護したところで保健所の仕事が減る訳でない。その手のヒューマニズムが 俺には理解できなかった。
「真田!」
 手塚の情けない声が聞こえる。いったいいつまで篭るつもりだと俺は腰を上げた。



 浴室の扉を開けると、もわっとした熱気と共に、シャワー片手の手塚が縋るような視線を送ってきた。
 勿論眼鏡は外され、全身湿気でしとどに濡れ、おまけに瞳まで潤ませている。
 その様相はまさに目の保養だ。 いや、むしろ理性との戦いだ。 色っぽいなどと下世話な表現はしない。しないが世間に見せびらかせてやりたい気分だった。
 だが、絶対だれの目にも触れさせないと固く誓う。
「捕まえられない」
 俺の脳内妄想などこれっぽっちも気がつかないだろう男は、さらに情けない声を出した。
 猫にとって幸いだったのは、その爪を振るう場面にまで発展しなかったことだろう。 体を洗ってやるどころか、シャワーの湯をかけるので精一杯といったところか。
「何か餌で釣るしかないか」
「うちに煮干なんかないぞ」
「ミルク、もないな?」
 そう言って見上げるだけで俺を動かせると分かってやっている。こいつも近頃図々しくなったものだ。
「コンビニに行って来る」
 済まないとかなんとか呟いた手塚に、
「この貸しは高くつくぞ」
 そういい捨てて傘を片手にどしゃぶりの街に買出しに出掛けた。
 猫のミルクを買いにだ。
 この俺がだぞ。信じられん。



 500mlの小さい牛乳と適当なツマミを買ってコンビニを出たころになって、雨は漸く小降りになってきた。
 その俺を出迎えた手塚はというと、猫を洗うのを諦めて風呂に入ってさっぱりしたのだという。冷めないうちに おまえも入った方がいいぞと、誰のせいで暴雨の中を出掛けたのか分からないようなことを言った。
「猫はどうした?」
「浴室の隅でうずくまっている。何か餌をやれば近づいてくるかも知れない」
「おまえは尻尾を逆立てている猫と一緒に風呂に入ったのか?」
「一緒に入った訳じゃない。どうせおまえが帰ってくるまで、何をやっても無駄だろうからな。 呼んだって近づいても来ない」
 眩暈がすると言ってもこの男には通用しないだろう。盛大な嘆息ついて俺ははたと思い立った。
「――それじゃ、なにか? この俺に猫を餌でおびき寄せて洗えとでも言う気か?」
 俺はもう入ってしまったし、と背中を向けてリビングへ向う手塚の手を掴んだ。
 これ以上こいつを甘やかせる気はさらさらない。
 ついでにこの状況を利用させてもらう。
 俺がにやりと笑ったのも仕方ないだろう。
「先に風呂に入って待っているとは、おまえも情熱的になったじゃないか」
「えっ――」
 何か言い訳をと躊躇う口を封じ、じたばたと抵抗する体をすくい上げ、そのまま寝室へ直行してやった。
 世の中は押しが強い者勝ちだ。
 もとい、躊躇いのある相手に情けは無用だ。
「ね、猫」
「暫く浴室に閉じ込めたところで死にはしない」
 まったく問題ないだ。



 そうなってしまったあとの手塚は、揺すろうが喚こうが簡単には目覚めない。
 結局、寝入ってしまう前に猫に餌をやり綺麗にして乾かせる役目を自分から買って出たようなものだ。
 腹が満たされ、小汚い猫はそれなりにふわふわの猫毛を取り戻し、室内を彷徨った挙句、 ベットの下を寝床と決めたようだった。
 俺は丸くなった猫を踏みつけないようにベットに潜り込んだ。その気配に珍しく先に寝入っていた手塚が 身じろいだ。背を向けたままで小さく声をかけてきた。
「真田、すまない」
 礼を言われるなど心外だとばかりに俺は鼻白らんだ。
「言っておくが俺は猫の世話などせんぞ」
「そう、だな」
「捨てて欲しくなければおまえが世話をしろ」
 ここで――と言って俺も背を向けた。
 手塚がどんな顔をしたのかは分からない。



 翌日俺が目覚めると、リビングの片隅にはプラスティック製の猫のトイレなるものが 置かれていた。子猫用の餌やなぜか猫じゃらしまで揃えられている。
 やはりヤツは完璧主義者だ。
 手塚は野良猫相手にトイレトレーニングの真っ最中らしい。
 昨夜の俺の話を手塚がどう受け止めたかは知らないが、何も言わずにこの家に帰って来る。  帰ってきては猫の世話を続ける。
 なのに――
 どうにかこうにか猫の躾が完了したかと思ったら、その肝心の猫の姿が消えていた。
 ヤツの熱心さに嫌気がさしたのか、ベランダから抜け出したようだった。
「――……」
 手塚の落胆ぶりは察して余りある。
 猫が逃げ去ったあと手塚だけが俺の手に残ったという訳だ。
 思い出し笑いをしても仕方ないというものだろう?



end





お祝いのお返しにと攣さまに献上しました。
ちょうど甘いのが書きたかったので、攣さまの有無も 言わさずに押し付けちゃいましたよ(微笑)
うっかり真田からプロポーズなんて叫んだもんで、 これで叶ってるかな? うちの真田はこんな感じで求婚します。だめ?