部活が始まる前の部室はけして静かってわけじゃない。むしろ隣にいる誰かと顔をくっつけないと 聞き取れないほど喧騒としている。 それなのに。 それなのに、そこにいるみんなが分かってしまった。肌がひりひりと緊張する。怒れる何かが近づいてくる。 バタンと壊れんばかりに開け放たれた扉。 ご多分に漏れず弦一郎だった。 戸口で仁王立ちになった彼は、まさに吉良低に討ち入った大石蔵之助といった風情だ。 ぴたりと止む話し声。僕の隣で着替えていた部長が、ぴしりと緊張したのには少し笑えた。 一同息を飲む中、仰々しくも彼が言い放った。 「具合が悪いのできょうは休ませてもらう」 どこがどうとは問えない部長がコクコクと首肯する。その他大勢に至っては壁に張り付いているのみだ。 僕はみんなを代表して当然の疑問を口にする。 「別段、悪そうには見えないけれど、どうかしたのかい」 同級、後輩みな尊敬と畏怖のまなざしを向けてきた。いかに扱い辛い副部長さまだろうと、 ヤツの怒気をスルーする方法なんていくらだってあるし、理不尽な暴力を振るうヤツでも ない。みんな構えすぎなんだといつも思う。こんな分かりやすいヤツなのに。 「――」 ほら。理由を突っ込まれるなんて思っても見なかったみたいで、言い訳を考えてなかったんだな。 真田弦一郎困惑の図。結構楽しめるヤツじゃない。 「なんて言っても君は天下の立海大附属中副部長なんだから、さぞかしみんなが納得いく理由なんだろうね」 嫌味っぽく聞こえたかな。弦一郎が睨みつけてきた。 「一身上の都合だ」 途中退社するリーマンじゃないんだから、その言い方はないんじゃないかと思う。 もっともだろ。その気配を察したのか、語気がさらに上がった。 「身内の通夜だ」 大爆笑だ。 それこそ決算時にスキーにいくOLの言い訳じゃないか。 多分みんな必死になってよく堪えたと思う。笑えない冗談を強面で言われるほど辛いことはないだろう。 腹筋が痛くてしょうがない。 「柳、いいじゃないか。真田にだって事情ってもんがあるんだろから」 部長が右手を腹に当てたままもう一方の手を僕の肩に置いた。それ以上の詮索はしてくれるなという意味の助け舟。 相変わらずだな。でも僕はちらりと見せたヤツの安堵の表情を見逃さなかった。意味深に斜め方向から ヤツを捕らえ、部長に告げた。 「部長、実はうちの祖父が危篤で――」 してやったり。一枚おざぶをいただきたいもんだ。 東京方面の電車に乗り換えた時から、弦一郎がどこへ向おうとしたのかは容易に推測できた。 一時間以上かかる道中、コイツは一度も僕の方を見ようとはしなかったし、開閉ドアに背を預けて車窓の 風景ばかりを追いかけている。いくつも駅を通り越し、混雑していた車内に少し余裕が出てきた。 聞く気もないその理由。言いたいのなら自分から話せばいいと、僕も沈黙を保つ。 こういった場合先にじれるのは弦一郎の方。付き合い長いからな。 「手塚がジュニア選抜を辞退したそうだ」 まぁ、それがらみだろうなとは予想していたけど、あまりに直球だったから理解するのに少し間が空いて しまったよ。 「それで」 意地の悪い質問だと自分でも思う。答えられるわけがない。コイツに。彼に会ってなんて言うつもり なんだろう。 ――心配になったから来てみた。 って?冗談じゃないよ。はっきり言って嫌だな。そんな弦一郎を見るのって。 「理由は? 故障かなにか?」 「わからん」 「それを聞こうって?」 「携帯じゃ埒があかん」 それは、その感情は一体なんて呼べばいいんだろう。 都心から路線を乗り換え、青学前までのバスに乗る。結構遠い。それよりも何度かの乗換えを コイツは迷わずに進んだ。通いなれた道というわけなんだ。 陽はすっかり西に傾き、朧気に姿を滲ませながら落ちていく。 こんな時間から会って、何を言うつもりか知らないけれど、どの道とんぼ返りの強行軍だ。ついてきた 自分が恨めしかったよ。 青学の敷地内に入り、ボールがインパクトされる高い音を頼りに、弦一郎は長いスタンスでずんずん前 を行っていたのだけど、目指すテニス部コート前でピタリと立ち止まった。 こちらに背を向けフェンス越しに部活を見守るのは、ジャージではない、学生服姿の彼。 不敗を誇る男のものとは思えない線の細さに、実際僕も見間違えかと思ったほどだ。テニスコートでの 姿しか知らないものだから、ものすごく違和感があった。 弦一郎がかそけく、見て取れるかどうかの笑みを残して彼に近づいていった。 かけるべき言葉が見つからない。踏み込めない静謐さに足が竦んで、僕は二人の邂逅をただ見ていた。 モノクロームの風景。 弦一郎が何か声をかけて彼がこちらを振り返った。短い会話が交わされてから、ヤツに促される形でフェ ンスを離れる彼。 なんか痩せたのかなって思った。 「久しぶりだね」 「ああ」 「きょうは部活、見学なんだ」 手塚は思いを残した何かに引きずられるみたいに、テニスコートへ少し視線を漂わせた。こんな仕草が ヤツの庇護欲をかき立てるって分かってやっているのかな。 「弦一郎が残念がっていたよ。君と一緒にジュニア選抜の合宿に参加したかったらしいから」 「疲労だろうと言われた。大事を取って辞退させてもらった」 「そう」 すべての現役選手に告げてはいけないその手の言葉を、僕たちが口にするわけにはいかなかったんだ。 「病院へは?」 「通っている」 「あまり無理をするな」 「わかっている」 ホント、弦一郎と手塚の会話は紋きり調だな。 けれども、顔を見てそんな会話をしたいがために、わざわざコイツはやって来た。この男の独占欲の発露を彼が 理解しているかどうかは疑問だけれど。 「案外元気そうなんで安心したよ」 心にもない科白で場を和ませる僕って、社会人になったら周囲に気配りし過ぎて胃を壊すタイプだな、きっと。 「これから神奈川へ帰るのか」 「勿論だ」 「そうか、明日が休みならうちにでも泊まっていけばよかったんだが。今からじゃ遅くなるだろ」 僕と弦一郎は顔を見合わせた。もの凄い科白をさらりと言う。こんな天然オブザ天然、狼にさっさと食われ ろって思ったね。そうすれば少しは警戒心も芽生えるんじゃないかな。 「折角の好意だが遠慮させてもらう」 またまた、弦一郎も据え膳押し戻してるよ。ヤツの場合はやせ我慢っていうより、先触れもなしに他家へ押しかけるような 礼儀を持ち合わせてないんだよ。堅苦しっくて嫌になる。君だけでも泊めてもらえば、 ってよほど言ってやろうかと思ったけど、僕の存在が歯止めになっているのか、情緒が不安定な相手に アンフェアなことはしたくないのか、まぁその両方なんだろうね。ばからしくなって、僕は二人から離れた。 「焦る必要はない。時間はある」 「焦ってなどいない」 「おまえは、どれほど自分を追い詰める性格か、自覚はあるか」 「テニスプレーヤーがテニスで無理しないで、いつするんだ」 「ものには限度というものがある」 「細く長く生きるのと、短くても太く生きるのとでは、真田、おまえならどちらを選ぶ?」 「殴られたいか」 「冗談だ」 なんかこの会話怖い。でも弦一郎を含め僕も、今までテニスが出来なくなるほどの怪我をしたことがなかったから、彼の気持ちを 理解できないんだ。それを互いがわかっている。それでも無理をするなって言葉しか出てこない。手塚にすればそんな気休め 聞きたくないだろうけど。 「ラケットを振るだけが練習ではないだろう。腕が痛むならその周りの筋肉を強化するしかない。その筋肉を形成するだけの 体脂肪だって必要だ。今は低く沈み込め、手塚。己の状態をよく理解し、飛躍するときではないと知れ。その激情は 全快したときに置いておけ。そのときこそ俺が、おまえを完膚なきまでに叩きのめしてやる。這い上がってこい。 テニスの出来ないおまえに用はない」 無表情だった手塚の瞳が少し変化した。 弦一郎らしい。 突き放してるかと思えば、ちゃっかりコクってるよ。それもちゃんと手塚に伝わってるんだろうから、 バカバカしくっていやんなる。 「先に帰るぞ」 そういい残して二人から離れた。 |
師匠に捧げるつもりで書いたんですが、あまりに蓮二先輩が気の毒なのと、
ちょうどラスト辺りで怒涛の本誌展開にぶち当たり、
「大丈夫か」だの「無理をするな」だののこの話を
書けなくなり頓挫。 あたしが言いたかったことは真田に代弁してもらいました。ホントに言いたい。 でもその不安は今でも払拭できてないのが辛い。 「テニスの出来ないおまえに〜」悩みましたが、真田にはそう言って欲しかったということで。 |