真田一族の結束







 横浜にある高級住宅地の一角。瀟洒な日本庭園が存在する日本家屋の一室から、獰猛な獣の咆哮に似た叫び声が上がった。
 未だ一般人は寝静まっている払暁の頃合。
 その抜き差しならない様子に、飛び起きた家人もいた。
 悲鳴なのか雄たけびなのかの大音声の発生源は、この家の三男の部屋らしい。さては賊徒の侵入かと、家内の奥向きの 一切を取り仕切る家令ならぬ大目付の老人が、お気に入りの十手を片手に異様な雰囲気に包まれたその部屋へ向った。 あとにスタンガンやエアライフルを持った使用人が続く。物々しい臨戦態勢で件の部屋の前にまで達した。
 廊下と障子一枚で隔てられた室内で、何やらひと悶着か、大立ち周りが繰り広げられていそうな雰囲気が漂っている。 すぐにでも開け放ってご子息を救出せねばと思うが、しかし――とんだ秘め事を目の辺りにする可能性も鑑みて、 老人は不躾と承知で耳をそばだてた。使用人たちもそれに倣う。冷静に見ても滑稽以外のなにものでもない。
「……や、やめろ」
 途切れがちな囁きのあとにドンと壁を蹴るようなもの音。一同の喉がゴクリと鳴った。
「離せ。この野郎!」
「……」
 声の主は三男と確かにもう一人誰か居る。だれがどう聞いても、踏み込めない事態に発展していると想像は難くない。 これは所謂愁嘆場。朝っぱらから非常識なと襖前から立ち去る家人たち。しかしその後に続くガタガタと何かが崩れる 音に立ち去りかけた家人たちの足が止まった。
 過ぎる疑惑と懸念。あの質実剛健を地でいくご子息が、みなが想像したような不埒な行為に及ぶだろうかとの真っ当 な考えに行き当たった老人は、止める使用人を振り切って私室の引き戸に手をかけた。
 その勢いのまま使用人共々鈴生りになって室内に雪崩れ込む。



「あっ」
「えっ?」
 互いの視線がかち合った。
 障子の和紙を通して入る僅かばかりの曙光が差す鈍色の室内。夜具の上で仰臥する三男に馬乗りになっている 背中は、見まごうことなき二番目のご子息のものだ。さては朝も早くから仰々しい兄弟喧嘩かとも思われたが、 室内は目を覆わんばかりの惨状と化している。
 いや、それよりも、何よりもご兄弟のその状態だ。
 組敷かれた三男の夜着の裾はあられもなく割り乱れ、不屈の面構えはすっかりなりを潜めたように上気し、毅然とした 口調を崩さないはずのそれは上擦り、要するに狼狽しまくっている。見たことも聞いたこともない三男の姿がそこにあった。
「そ、惣一郎さま、いったい、なにを……」
「菅原! この頭のイカレタ物体を早くどけろ!」
 あわわと口ごもりながら、家人たちは一斉に次男に襲い掛かった。



 まったく、と畳に擦り付けたおでこの傷を摩りながら、次男惣一郎は一口茶をすする。
 三兄弟がそろい、朝食の始まった真田家の居間。家令筆頭の老人菅原は恐縮しきりの様子で俯いていた。
「何も投げ飛ばさなくってもいいじゃないか」
「ご無礼をお許しください、惣一郎さま」
「菅原は悪くない。元はと言えばお前の暴挙が原因だろうが!」
「ちぇっ、折角心配してあげたのに」
「いらん世話をやくな!」
 へへっと一つ哂いを落として惣一郎は末弟のおでこに手を宛がう。それを一蹴の元に跳ね除けた。
「昨日から風邪気味だったじゃない。弦一郎ってば明け方によく熱出したから、具合はどうかなって思ったら 案の定、凄い熱だったからさ。お薬をね、イレテあげようって思っただけじゃん」
「黙れ、痴れ者!」
 座薬を――であった。正気の沙汰ではない。
「あれだけは自分一人じゃ無理なんだからさ。大人しくされるままだったら、今頃熱だって下がってた筈なのに」
「菅原! こいつを庭に埋めて来い! 許す!」
 途端に末弟は、ごぼっと肺に響くような重い咳でむせ込んだ。本当に重篤らしい。
「だから言わんこっちゃない。ほらほら、卵酒でもすすって、暖かくしてお休み」
 やはりなんと言っても兄は弟の様態が心配なのだと、ここで思ってはいけない。邪険にされても構いたいのか、 揄い甲斐のある反応が楽しいのか、その胸中は複雑すぎて一般人には読めなかった。
 電子体温計がピピっと無機質な音を立てた。緩慢な動作で末弟が脇から取り出したものを、既に朝食を取り終えていた 長男の恭一郎氏が横から掻っ攫った。
「三十九.八分。幼児なみだな」
「こんななりして年齢的には小児科の範疇なんだからね。まっ、何も無理しなくったって、親父が裏から手を回して くれるよ。心配しなくてもね」



 間の悪いことに立海大附属高校の入学試験日のきょう。校内推薦が決定しているとはいえ、面接と小論文の学科は 免れない。体調の悪さから出来はどうであれ出席だけはすると言い張った。
 何よりもその理由が真田弦一郎的には許せない。風邪如きで入試を免除されたなど、『たるんどる』で片付けられない。 そのレッテルを自分に課してしまう男だ。天下の堅物に妥協の二文字は存在しない。
 しかし、支度のためにと立ち上がった彼の体がぐらりと傾いだ。なんとか座卓に手をついて眩暈が治まるまで やり過ごしている末弟の様子を、冷静に観察している長男の姿があった。
「どうしても行くのか、弦一郎」
「あぁ、大事はない」
「何なら試験会場までヘリを飛ばしてやろうか。それともリムジンの横付けがいいか?」
 すかさず弦一郎の射るような睨みが入った。それを見下ろす形で口元に微笑を浮かべている長兄との間に 火花がかち合う。何も病人相手に煽るような真似をしなくても、と惣一郎は二人の無言の恫喝を見比べた。
「そんなことをされるくらいなら、歩いた方がマシだ」
「そうか。病院へは行かなくていいのか」
「時間がない」
 では、気をつけて行け、と恭一郎氏は背広を片手に居間を出て行った。その後ろ姿を見送って惣一郎、実に 嬉しそうに立ち上がった。
「ここはやっぱり座薬しかないぞ、弦一郎!」
「いっぺん死んで来い!」
 罵声とともに湯飲みが投げつけられた。



 ただ返答するのも億劫なだけなのに、面接官は落ち着きがあるだの場慣れしているだのと、超中学級だのと 絶賛だった。いい加減早く切り上げたいの一心で硬い表情のまま淡々と質問に答えている真田に、彼らは何かと 全国大会の様子を聞きたがり、なかなか離してはくれない。その様子にもやれ驕りがないと散々に褒めそやされ、 気を失いかけながらも懸命に耐えた。とにかく、己を貫くことの困難さに辟易しながら、這う這うの体で漸く 帰宅できたときには、日中抑えていた悪寒は一気に体中を駆け巡り、コートだけを脱ぎ捨てて制服のまま布団に 倒れ込んだ。



 ひんやりとした布ではない何かが額に当てられた。それが誰かの掌なのだと気づくのには少し時間がかかった。
 冷たすぎない感触が火照りきった額に心地いい。薄っすらと覚醒しきらない瞳が、傍らに綺麗に端坐した人物を 捕らえた。よく見知っている。だが、何度目を瞬いても認識できなかった。
「なぜ、おまえがいる?」
 声に出せたのは随分たってからだった。
「校門を出たところで、おまえのお兄さんに拉致された。四十度近く熱があるのに試験を受けたそうだな。 おまえらしいとも、らしくないとも思った」
 近くで囁かれた耳慣れた低音。ただそれだけのことで安堵から今一度の睡魔が襲う。
「そうか。わざわざ済まない。おまえだけには、こんな姿を晒せたくはなかったが……」
 それでも思いもかけない兄のお節介に、殊勝にも感謝した。褥からのろのろと手を伸ばし、手塚の腕に手を駆ける。 強く引き寄せ、軽く唇を寄せる。
「風邪が移る。早く帰れ」
「言っていることとやっていることが一致しないな」
 クスリと落とされた微笑に気をよくして、掴んだ腕に力を込めたその時、仰々しくも襖が開かれ、仁王立ちの 惣一郎が立っていた。その後ろには腕組みをしたままの長兄が薄ら笑みを浮かべている。
「お邪魔! さぁお薬の時間だよ、弦一郎。やっぱ、高熱にはこれしかない。僕が嫌なら手塚くんにイレてもらいな さい!」
 脱力と共に地球の自転速度が速まったかの錯覚に襲われた。前言撤回だ。やはりこの行為に兄弟の慈愛など存在 しない。楽しんでいるだけだと気づいて拳を握り締めた。
 手塚は渡された小さな薬と真田とを見比べてどうしたものかと思案している。そんなもの投げつけてやれ―― と言いたかったが、次に続いた長兄の一言で冷水を浴びせられた。
「時間を取らせて悪かったね、手塚くん。早く帰らないと遅くなる。送ろう」
 真田恭一郎氏、底意地の悪い笑みを末弟に投げつけて、エスコートよろしく手塚の手を取り出て行こうとする。
「ちょっと、待て! 恭一郎兄貴はいい! 惣、手塚はおまえが送れ!」
「やだよ。僕はこれからデートだからね」
 弦一郎、と長兄はやけに優しい声音で窘めた。
「何も心配することはない。手塚くんは私が責任を持って送る。おまえはゆっくりと養生すればいい」
 恐れ入ります、と手塚も行儀よく立ち上がった。その背に手を添える様が文句のつけようのない騎士っぷりだ。 じゃあなと二人仲良く出て行った。
「惣! 頼む! なんとかしてくれ!」
 真田弦一郎、苦難の叫びが木霊した。


end





ど、どうする、これを人様に差し上げてよいのでしょうか。恩を仇で返し、後ろ足で砂を掛ける 山賊行為だぁ!
文体が時代小説がかっているのには平にご容赦を。抜け切らないです。 真田家について少し補足しますと、お屋敷は完全無欠の日本家屋。ご先祖は間違いなく二本差し。 惣兄ちゃんはともかく、弦一郎さんはパジャマなんか着て寝ません。ジャージにすべきかとも思いましたが、 やはりここは寝間着着用ということで、いかせて頂きます。(やな中坊。今更ですが)