祈り






 その日の練習を終え、手塚と大石の二人が部室へと引き上げてきたとき、最奥の辺りに陣取っていた 集団が、気まずそうにバタバタと霧散した。
 ん、とクエスチョンマークを出したのは大石。手塚からは何をやっているんだとばかりの睨みが 入る。
 しかし――
 背中を向けていた桃城が、あんぐりと締りのない口元を見せ、なぜか海堂は顔を赤らめ、乾は頭をかき、 河村は俯き、越前は大きな目をさらに見開き、菊丸は両手を挙げてピョンピョン飛び跳ね、そして、不二が 正体不明の笑みを浮かべた。
 これは手塚でなくても足が止まるだろう。
「どうしたんだ、みんな」
 とは、その不穏さを感じ取っていながら、確かめずにはいられない大石。手塚は我関せずの態度を崩して いない。
「いやあ、いいもんを拝ませてもらいました」
「ローマは一日にして成らないってことッス。フシュー」
「そういう時代も確実にあったなということだ」
「うん。よく残していたよね。不二」
「いまからは想像できないッス」
「あったり前だにゃ。ほんとに可愛かったんだ。いまのおチビよりもちっこかったんじゃないかな。ね?」
 口々に何やらよく分からない感想を述べているが、視線は確かに一点に絞られている。流石の冷徹魔人 も、そのピンポイント集中放火に思わず後ずさりした。
「な、なにを――」
 言っていると、言葉にする間もなく、妖艶な笑みをたたえた不二が、レギュラー陣を代表するかのように 近づいてきた。
「我らが青学テニス部部長手塚国光の、もう、抱きしめたくなるくらい可愛かった一年のときの写真をね、みんなに 披露してたのさ。君も見る?」



 それは――
 当たり前だが、青学の指定体操服を華奢な体に包み、ラケットすら大きく見えるその後ろ姿。 幾分ふっくらとしたあどけなさが残る横顔で、振り返ったばかりという感じの写真だった。
 恐らく入部したての、しかしいつ撮られたんだろうとは素直な感想。この至近距離。部活中の筈で、 趣味が写真の不二とはいえ、同じ一年が可能なことかと。
「いつ撮ったんだ、こんなもの?」
「生意気だったな」
「素晴らしく生意気だったね」
「そうなんスか?」
「いまの越前よりもスで生意気だったかな?」
「何なんスか。そのスで生意気って」
「つまり、越前は勝負に貪欲で、それ故に尖る。相手によって全力を出さなかったりするのは同じだが、 越前はそれを分かっている。それがおまえの自己顕示欲の表れだ。だが、手塚は同じ事をやっても、どこに 非があるのか分からなかったりする。手塚の方が悪辣だ。それには気づきもしないのだからな」
 もの凄い言われようだが、問うた質ではなく、意識は既に忘却の彼方だ。乾と不二の視線は明後日の方を 流離っていた。
「聞いたことに答えろ。こんなもの何時撮ったんだ。いや、なぜ撮れたんだ」
「手塚があまりに生意気でさ」
「でも可愛かったからな」
「一発殴らなきゃ収まんないって先輩もピリピリしてたにゃ。実際いたけど」
「部活中の手塚の写真が、上級生の間で高値で取引されていたという事実もあった」
「あの頃の三年ってさ、オレ、苦手だった。実際だれも手塚に勝てなかった訳っしょ」
「んで、不二先輩がその胴元してたんスか。いけねぇな〜。いけねぇよ」
「そうとも言うかな」
「何だって!」
 音声多重のような中、そこだけはキチンと聞き取れた手塚だった。
「その写真を寄こせ」
「いいじゃない。目くじら立てるほどのことでもないよ。もうネガないからさ。これが最後の一枚なんだよね」
「ネガがないのか。ではその写真からポジに戻してみるかな」
「それいいッスね。その頃よりもいまの方が希少価値あるんじゃないッスか。もう、見れませんからね。 部長のこんな姿」
「確かに。だれもこんなに大きくなるとは予想しなかったんじゃないかな」
「あの頃の手塚の方がプニュプニュしてて触り心地よかったよね〜」
「抱きついたらね、困ったような顔が可愛かったよ」
「いまは固いだけだからな」
「ヤになるくらい冷たく突き放されるしね」
「おまえら! グランド三十周してこい!」



 怒鳴るだけ怒鳴って、手塚はさっさと着替えを済ませると出て行った。お決まりの展開だったが、 本気で走らせるつもりはなかったのだろう。一種の照れ隠しかなと不二は思った。
 思えばあの頃とは唯一手塚にとって、何の負の要因もなかったように思う。やっかみも嫉視も彼の熱の 前には消し飛んでいた。だれも侵すことの出来ない聖域。そんなものを持っていた。
 その後は――と指で写真の手塚をなぞる。それを見咎め、苦笑した乾が語りかけてきた。
「えらくきょうはノスタルジーに浸っているんだな」
「あの頃はよかったね、なんて言うつもりは毛頭ないけどね。手塚に関しては……きついものがある」
「そうかも知れないな。痛々しいシーンばかり思い起こさせる。凄まじい努力が手塚を引き上げ、それが いま苛む。あいつはただテニスがしたいだけなのに」
「一年のときはまだよかったよ。二年の大会なんか満身創痍だったもんね。副部長としての責任感か、 それ以外の要因か」
「ジュニア選抜を辞退したくらいだからな。それ以外の要因?」
「無茶して無理して痛いなんて顔一つ見せないで、それがどれほど僕たちを悲しませたかなんて、 一生理解できないだろうけど、テニスをさせてやりたい。手塚のテニスを。何にも邪魔されたくないんだ。 だれにも」
「不二?」
 あの頃の変化に気づいたのは不二一人だったかも知れない。ほんの僅か、誰にも気取られずに手塚は変わった。
 勝負への執念と全国への夢を植えつけたのは大和部長だったかも知れない。だが、その一試合ごとの積み重ねの中、 先にあるたった一つの栄誉よりも、目の前の対戦相手にぶつける熱にうなされる陶酔感を心地よいと、 手塚が感じたであろう試合があった。



 後から考えるとそう思える一瞬があった。



 立場よりも己の熱を優先させる、酷く利己的な手塚の一面。しかしそれは個人競技のプレーヤーにとっては 至極当たり前の欲求で、それにのめり込む彼を危ういと感じた一瞬。
 その熱を何と混同したかは不二の目には明白だった。
 手塚が惹かれたのは、他のだれも追従を許さない、あの男の徹底的な圧迫感。
「止めた方がいい」
「不二……」



「もう、止めなよ」
 あの日もそう言った。あの日だけじゃない。何度もそう言った。知っているよと脅しのような言葉を 浴びせても、手塚からは無表情しか返らなかった。
「ねぇ、乾。転機っていろいろあるけどさ、端から見ていて、いいふうに変わるとは限らないよね」
「オレに分からないくらい漠然とした言い方しかできないんだったら、言ってくれない方がマシなんだが」
「愚痴りたい気分な訳」
「ありがた迷惑とも言う」
「迷惑料として、この生写真、乾にあげよう」
「おい」
 何かを思い出したようにそれを乾に押し付け、不二はそそくさと部室を出て行った。



「手塚。待ってよ」
 唐突に不二から声がかかり、手塚は振り返った。
 ちょうど校門を出た辺り、不二は息をきって駆けて来る。その姿を認めて手塚は重い嘆息をつく。 また、苦手な言葉の駆け引きが始まるのかと、身構えたのかも知れない。
「捕まってよかった。一緒に帰ろ」
 路上に伸びる二つの影。不二のものより幾分長い手塚のそれに、並ぶことはないのかなと、少し 遣り切れない気持になった。
 テニスだけのことではなく。
「手塚、僕は君に打ち明けてもらえないほど頼りにならないのかな」
 だから、つい、直裁な物言いになった。
「不二――だから」
「ちょっと待って。何もないとか言わないでよ。殴りたくなるから。絶滅品種並みに頑固なのも知ってるし、 言葉巧みに説明できないのも知ってる。それでも僕らは三年間一緒に戦ってきたんじゃないか。弱み見せなよ。 言いたいこと言いなよ。君の心を乱す、あの男の愚痴を聞いてあげるよ」
「不二」
「何?」
「俺たちは必ず全国優勝を成し遂げる。立海大は確実に俺たちの前に立ち塞がるだろう。けれど、 それをぶち破る。粉砕してやろう」
「うん。それだけ?」
「あぁ、他になにがある?」
 と、綺麗な笑みを返された。
 薄暮れなずむ辺りと相まって、それは不二の心にトンと染みた。拒絶ではなく、虚勢でもなく、 心を煩わせるほどの何事でもないのだと、それは手塚の矜持の高さからくる真実の言葉。
 伸びている影の頭が並ぶことはないかも知れないけれど、それでも同じ方向を向いているのなら、いいじゃないか と思った。
 そう祈った。






end




嫌なら書くな、哀しい話。辛くないように彩ったんですが、やはり、哀しい。
タイトルからして、ヤバイ。
不二っていいヤツだな〜。ここまで細やかなキャラって彼しかいないのね。うちの 場合。
漠然とし過ぎましたね。幸村のゆの字も出てこない。でも、手塚は何からも逃げないぞということで。(へへ)