真田一族の配慮









 上がり框に腰掛けて、姿勢もよくスニーカーの紐を結びなおしていた真田弦一郎の目の前で、引き戸が勢いよく 開かれた。突然襲い掛かる真昼間の陽光を浴び目を側める先に、これまた渋い色合いの色留袖を隙なく着こなし、 背筋をピンと張った人物の立ち姿があった。



 とある麗らかな日曜の午後。待ち合わせ時間に余裕を見て、出かけようとしていた彼とすれ違うように帰宅したのは 母だった。そういえば、ここ一週間ほど顔を見なかったなと、その平穏だった日々を思い起こす。 確か実家のある京都で、茶道の会合やら親戚の法事やらセミナーやらがあると言っていたのを思い出した。 みなそれぞれ勝手に生活をしている観のある真田家では、一週間くらい居なくてもだれも気に留めない。 さばけた家族関係がそこにあった。
「ただいま帰りました。なんや、出掛けるんか、弦一郎」
「あぁ。お帰り」
「どちらまで」
「どこだっていいだろう」
 紐を結び終えて立ち上がった真田の素っ気なさに何を思ってか、真田母は彼の腕を鷲づかみにした。
「手塚くんと会うんやろうか」
「一々報告しなきゃなりませんか」
「丁度ええわ。この間わざわざ来てもろうたやろ。そのお礼にこれ、持って行って」
 有無を言わせない物言いは相変わらずだが、返事も待たずに確信している辺りが流石に抜け目ない。ほんの僅かな対応から 何か滲み出るものがあったのだろうかと、真田は自分の修行のなさに舌打ちをした。
 その上手をゆく母は、両手に持った紙袋を三和土に置いて、何やらごそごそと物色している。
「土産なんか勘弁してくれ。外で会うから荷物は余計なんだ」
「まぁ、そう言わんと。朝も早ようから出掛けて買うてきたんや。喜ばれんで。やっぱり京都いうたら、これやろ」
 ビニール袋に入った少し重そうなそれを差し出して母は満足気に笑った。
「渡月橋を渡ってからもだいぶ歩かなあかんのやけど、やっぱり京都の人は美味しいもんをよう知ってる。これ食べたら 他は口にでけへん」
「何だ、その物体は。漬物じゃないだろうな。止めてくれ。電車で行く身にもなれ。臭ってしょうがない!」
「残念やな。無臭や。ちょっと重いけど味は保障付きや」
「誰かに届けさせればいいだろう」
「おまえがいまから会うのに、わざわざ人を使いにやる必要もないやろうが」
 さすがに京都出身。物事は合理的に考える。
「それではまた今度にしてくれ」
「あかん。きょう、食べてもらわな」
「賞味期限が迫ってるのか。何なんだ」
「豆腐や」
「あ?」
「何が、あ、や。美味しい豆腐と出会うんは、日本人にとっての至福やで。四の五の言うてんと、はよ、行き」
 押し付けられて、酷暑の熱気がうねりを上げる街に放り出された。



 水分を大量に含んだその土産の入ったビニール袋が指に食い込む。
 くれぐれも早く食すようにと念を押されたものの、 普通サイズよりも倍ほどの大きさのある豆腐四丁を、ご老体も含めた 総勢四名の手塚家が食べきれるかどうかまでは頭になかったようだ。 おすそ分けでこの量。一体何丁買い求めてきたのかは知らないが、間違いなく今晩のおかずの一品に並ぶことは想像に 難くない。
 それにしてもいくら毎日鍛えているからといって、この重量のものを関節に爆弾を抱える手塚に、 長時間下げさせるわけにはいかない。待ち合わせの大型書店にすでに到着して、参考書売り場にいた手塚を見つけると、 出るぞという意味合いで仏頂面のまま顎を杓った。
「ちょっと待ってくれ」
 気に入った参考書を見比べて一冊を書架に戻し、その横にあった別の本に手を伸ばす手塚に射るような視線が 突き刺さる。だがそれに動じる素振りはなかった。手塚はちらりと真田が下げているビニール袋に目を落とすが、 すぐに視線を書架へと戻した。
「何を苛立っている」
「おまえにではない」
「それは何よりだ」
「参考書くらいさっさと決めろ。おまえの家へ行くぞ」
「きょうはシューズを見るんじゃなかったのか」
「予定が狂った。少しでも早く冷蔵庫へ入れろとのきついお達しだ」
 真田は忌々しげに視線を落とした。手塚の切れ長の目が少しだけ丸く踊る。
「コインロッカーにでも入れればいい」
「そんなところに放置しておいたら、殺される」
「だれに。お母さんからか?」
「豆腐、にだ」
「えっ?」



「京都へ行っていた母からの土産です。世話になっているお礼にと言付かってきました」
「あらあら」
 出掛けた筈の一人息子が急に帰宅したと思ったら、連れて戻った友人の真田に、  近頃の若い営業マンには到底真似のできそうにないような折り目正しさで挨拶され、手塚の母は少し困惑気味で 息子を振り返った。その想い、無表情な息子には届く筈がなく、だがやはり面識のない代議士夫人 からの頂き物には躊躇われる。 その遠慮を察して真田は続けた。
「手塚くんはうちの母のお気に入りでして、無理やり押し付けられたようなものです。お気になさらないで下さい。 いらないと言われても持って帰る訳にはいかない」
 手塚の母は親の視線で、世の中広いものだと目を見張った。
 中学生離れした落ち着きを見せる一人息子も、彼が傍にいると案じていたより 幼く見えるから不思議だ。彼の前では、青学部長という肩書きも、生徒会長という役職も、全国屈指のテニスプレーヤーと いう矜持も取り払われたかに見えた。それがなお一層微笑ましくも誇らしくもある。
「お母さん、真田も困っているから」
「ええ、そうね。ありがたく頂戴するわ。あとでお礼の電話をさせて頂きましょう」
「すぐに冷蔵庫へお願いします」
「何なのかしら」
「京都人の舌も唸らす絶品な豆腐だそうです」
 まぁ――と手塚母は真田が後ずさりするほど破顔一笑してにじり寄った。
「嬉しいわ。美味しい豆腐を探す旅は日本人にとって永遠の課題よ」
 母親族は同じことを言った。



 コーヒーとビターチョコが運ばれ、ご機嫌な母のお喋りに付き合い、彼女が退出した後は夏休みの課題に取り掛かる シャープペンシルの硬質な音だけが辺りを侵食した。
 二人の集中力は他を圧するものがある。ただ黙然と二時間も三時間も 机に向うことだって可能だ。たまに相手の得意分野への質問が挟まれる程度で、時は互いの神域を侵すことなく 平行して進んでゆく。
 時間の使い方がよく似ている。
 想いの伝え方が心地よい。
 俯いた頬にゆっくりと添えられる利き手の温もりに、さんざめく心の疼きにももう慣れた。慣らされたと分かって いても嫌悪する謂れはない。
「まだ、課題が済んでいない」
「あとに回せ」
「晩飯、食っていくか」
「話をそらそうとしても無駄だ。どうせ家に帰っても冷奴を食わされる。丁重にお断りしよう」
「揚げ出し豆腐かもしれん。母の得意料理だからな」
「あれだけの豆腐に手を入れる愚は犯さんだろう。九割がた冷奴」
「どうだかな」
――賭けるか、と真田はえも言われぬ笑みを落とした。
 ペースを乱されるなど最も忌みするとこだから、表情も変えずさらりといなす。執拗に追いかけようとした 手が、階段を昇る足音に敏感に反応した。予想に違わず母の彩奈だった。
「真田くん、遅くなっても大丈夫かしら。よかったら晩御飯食べてらして。早速使わせて頂くわ、お豆腐」
「献立はなんですか」
「勿論、生醤油で冷奴よ。少し味見しちゃったわ。大豆の味がしっかり残るのよね。お母さまにお礼の 電話しときましたよ」
 見分けのつき難い息子の表情が変わったことに気づきもしないで、母はお買い物に行って来るからとご機嫌に 退出していった。美貌の息子はパタンと閉じられた自室の扉を恨めしそうに睨んでいる。
「勝ったな」
「ふん」
「三回だ」
「何を言っているんだ、おまえは」
 夏の日の夕暮れ。身近な人間の真意を読み損ねた末の結果に、手塚の重い嘆息が落ちた。

end






いつもお世話になっている山本まことさまに押し付けます。
お題はあり難いことに、真田母込みの 真塚ということで、またまた登場真田一族です。彩奈さんも出しちゃいました。
もう少しパワフルな真田母を書きたい気もしましたし、手塚に会って 嬉しそうな母も書きたいかな。次回の宿題ということで。お兄ちゃんズは今回は不在ですが、別の話で活躍(暗躍) してくれることでしょう。