牧神の午後






――本当に何度言ってもあの男は!



 ハンドルを握っていない手が苛々と拍子をとる。目的地前の交差点。信号はまだ赤。アクセルを踏む足先も宙に浮いた状態だ。 しかし喧騒を喧騒として認識しない浮ついた気分に、苛ついているはずの表情がふとほころぶ。 そんな自分を自嘲した。
――まったく、俺としたことが、らしくない。
 小さく嘆息して真田は愛車を走らせた。



 手塚が高校卒業と同時に渡米し、プロに転向して約二年。着実に世界ランクを上り詰め、先日ニューヨークで行われた 全米オープンではセミファイナルにまで勝ち進んだ。次に予定されているローランギャロスでのデ杯に向かう 途中で帰ってきたのだという。帰るときには飛行機に乗る前に知らせろと、何度言っても彼の場合こんなものだ。
――いま帰ったから。



 掠れるような彼の声が蘇った。
 高校を卒業し大学生となってトーナメントを回る生活を選んだ真田とは、当然すれ違いの生活を強いられる。 それでも彼は彼の夢の実現のため、アメリカ行きを選んだ。躊躇の余地のない選択だったと真田は思っている。 テニス馬鹿はお互い様だ。その上で成り立つ関係なのだと誰よりも分かっている。
 それでも渡米前は、さすがの手塚も情緒が不安定な時期もあった。いっそう頑なで、まだ泣き言の一つでも言うのなら 可愛げもあっただろうが、自己昇華する術を知っているのも手塚だった。
 渡米して三カ月は電話一つなかった。懸命に奔走しているであろう相手を慮って真田も連絡しなかった。そのあと、疲れた顔をして ひょっこりと帰ってきた。止まる術を知らない男が珍しく日がな呆けて、何日もマンションから一歩も出ず、おまえは寝に帰って きたのかと、揶揄ったことがあった。余裕がなくなると、人並みに思考や機能が停止するのだとそのとき初めて気づいた。 そんな調子の男だが、確実に一番に知らせてくる気持ちだけは汲んでやらないと、と思う。



 手塚が借りているマンションの地下駐車場に車を滑り込ませ、勤めてゆったりとエレベーターホールのセキュリティーを 解除する。あとは彼のフラットまで直行だ。
 都内の閑静な住宅地にあんな立派な実家がありながら、日本でのわずかな滞在中の住処にしてはここは贅沢だ。だが トッププロとしてプライバシーが犯される可能性を鑑みて、家族に迷惑を懸けたくない上での配慮だったのだろう。 真田にとっては願ったりだが。
 真田は手塚の部屋に入るとき絶対インターフォンは押さない。合鍵をもらっている自分の立場を自己主張する意味で。 たとえ部屋にだれか客がいたとしても、自分はこの部屋の住人だという気持ちを込めていた。
「手塚、いるのだろ」
 玄関から続く廊下の先のリビングのドアが、開かれたままになっている。そこから微かに手塚が好むオールドジャズの 旋律が聞こえてきた。最近、ヒーリング効果もかねて嵌まっているらしい。サッチモ系の渋い選択が彼たる所以だ。
 ゆっくりとリビングに入ると、大きな窓に懸けられたカーテンが綺麗に揺れている。柔らかな寒色が波のようだ。
 ふと視線を下にすると、ロータイプのソファにしどけなく手塚が眠りこけている。開けっ放しの窓からの風に、柔らかな彼の 髪が揺れていた。風邪でもひいたらどうするんだと窓を閉めた。そのまま寝室へと入り、ベットの上掛けを取って戻る。 らしくもない配慮に喉だけがなった。
 彼の肩辺りまでそれを掛けてやり、それでもピクリともしない手塚に顔がほころんだ。疲れているのを承知で、 彼には負担をかけないように覆いかぶさる。
 微かな寝息。
 柔らかな少し癖のある髪の匂いはここのシャンプーのものだ。
 熟睡していないのか、長い睫が時々びくりと揺れる。



 だれの所有でもない。おまえはおまえ自身。捕まえたいとも思わないが、時に触れ合える場所にまで帰ってきてくれる 関係が心地いい。すべてはテニスの輪の中で巡り会えたのだからと今は思える。
「俺も大人になったというか」
 出会ったころの手塚に対する執着は、今思い出しても辟易する。互いが抜き身で向き合って、傷つけ、突き放され、 それでも違うだれかにすがることも、別れることもなかった。



 真田はキッチンに取って返し、冷蔵庫に冷やされているボトルとグラスを二つ、手塚の分も持って戻る。一切酒の類は口にしない 男が彼のために用意してくれている。彼のグラスにほんの少し、一人で飲むのは味気ないと、注ぐ。自身のグラスには並々と。
二つのグラスを見つめて笑みが零れた。
 晩夏の少し柔らかくなった日差しが差し込む中、起こすのがもったいなく、真田もそのまま横になる。言葉なんかなくても、 時間を共有できる者の特権として。