let me in
己を取り巻く世界はこんなにも華やかで騒々しく、希望に満ち溢れた彩りを成しているのに、なぜか
取り残されたと感じる瞬間がある。賞賛と感嘆は常に頭上にあった。実績も重ねてきた。幸運を引き寄せる
術も持ち合わせていた。
だからと言ってがむしゃらに一直線だったわけではない。現状に飽いて膿んだこともある。なにもかもがつまらなくて、
なにもかもを手にしているように思えて、総てをブチ壊してやろうと投げ出したときにも、理解ある手が差し伸べられた。
――アメリカ遠征が決まった。
タイミングも申し分なく、縮こまっていた世界が開かれ、総てが驚異で新鮮で、またバスケが楽しめるんだと感じられて、
邪魔臭かったインハイ前の練習にも身が入るようになった。夏が終わればあのメンバーの中でプレイ出来る。
蹴倒さなければならない連中に囲まれて掃討して、それでもまだ高みがあるなんて、考えただけでも哄笑ものだ。
最後の思い出つくり。最後の高校生活。最後のインターハイ。そんなセンチな気分になったのも、相当浮かれて
いたからだろう。
付き合っていたオンナとも別れた。いつまでも待つと返されたが、もう帰って来ないからと斬り捨てた。
東北の雄。いや、日本最強の山王工業のメンバーとして、二年生エースとして、結構気の置けない先輩たちと、
自身にとっても有終の美を飾る。後腐れもない。特筆すべきは神奈川の海南大附属と愛知勢。そして福岡の博多
商大附属くらいなもの。それも大した障害ではないだろう。
め一杯楽しもう。最後の夏を。
けれどそれは――その後足元から崩れ去った。
そして正月二日。
「あ〜、ちくしょう! 考える頭ないのか、アイツは!」
アメリカ留学からの僅かな帰省の合間、母方の実家に泊まりに来たはいいが、二日連続で朝早くから出かけて
いた祖父母泣かせの孫が、建て付けのいい扉を閉めるピシャっという音と共に帰宅した。ドスドスと
廊下を踏み鳴らし、居間の襖を開け放った第一声がさっきのそれだ。
「帰ってきたのか。出掛けたときはご機嫌だったのに、どうした」
嫁の実家に年始に来てテレビの前で寝転べる男、沢北哲治。通称――テツ沢北は、息子の剣幕を宥めるように背中越しに
声をかけてきた。自慢の息子はほっとけよ、とテーブルを挟んでドスンと腰を降ろす。片方の肘をその上について、
もう一方の指はコツコツと苛立たしげな音を刻んでいた。
「喧嘩でもしたのか?」
「そんなつまんねーことするか。バカの相手は疲れるって話」
「それじゃ、相手にしなきゃいいだけの話だろう」
「ふん。せっかく目ぇかけてやったのに。オレをなんだと思ってやがる!」
背中を向けていた父親はのそりと身体を起こした。
「目をかけた? おまえが? いつからそんな世話焼きになったんだ」
沢北は自分の失言に気づいたようだ。チっと舌打して父親の視線から逃げた。
「別に親切心出したわけじゃねぇ。モタモタしてるヤツ見るとハラ立つだろ。そんなとこだ。来る気があるんなら
さっさと来いってんだ。けど、バスケバカは生活レベルでもバカだった。あんなのに負けたかと思うと、こっちが情けな
くなる」
「湘北の――流川くんか?」
「――あ、」
「おまえ神奈川に行ってたのか?」
なんで分かったんだというふうに沢北はリズムを取る指の動きを止めた。父親は当然だろうという顔をしている。
「エラく余裕だな。唯一認めたライバルを自分の手で育てて引っ張り上げてやろうってか? 大人だね、エージ
くんは」
「るせえよ」
「彼も留学する気があるのか?」
「とかなんとか、ほざいてたよ。インハイのときに。オレを倒してアメリカだとか」
「で、なかなか来ないもんだから、痺れを切らして出向いて行ったのか?」
「色々と下準備の話を聞かせてやろうと思った聞いたら、行くっつったんだよ、アイツ。はっきり、アメリカへ行くって。
なのに、オレとのマンツーの方が大事だから、ゴタクは聞きたくないだと。終わったら相手をしてやるってのに、
そのちょっとが待てない。アイツ、自分のレベルを上げてさえいれば、勝手にだれかが連れてってくれると思って
んじゃねーか。青臭せーガキ」
「エージしか見てねえんだ、流川くんは。一途なもんだ」
「一途つうか、一直線つうか、いましか見てないっつうか。自己チューつうか。あれで日常生活成り立ってんのか」
「ああ、けどその心境、おまえなら分かるんじゃねえのか? それとも忘れちまったか?」
え、と沢北は父親の視線を受け止めた。
「アメリカ遠征で初めて向こうの高校生と対戦したときを思い出せ。もっともっと戦いたいって思っただろ。
その連中によ、次の試合は取りやめて観光に連れてってやるって言われたようなもんだ。おまえの流川くんへの対応は。
アメリカ帰りの沢北栄治と戦えるのは、いましかねえんだよ。留学の準備なんか、おまえが
いなくたって出来る。そう思ってくれたってことだろうが」
「なんだよ、それじゃ、オレはただのお節介ってことじゃん」
「実際そうなんじゃねぇか。それで、おまえはどうなんだ? 流川くんに説明するためだけにわざわざ神奈川まで行ったのか?
対戦したかったんじゃねぇのか? 言葉なんか必要あるのか? アメリカは凄いぞって語って実感できるもんがあるのか?
それに本気でハッパかけてぇなら、沢北栄治のプレイを見せつけてやるんが一番だろ? そういうタイプだ、彼は」
テーブルの上に肘をついた行儀の悪い姿勢のまま、揄うような諭すような瞳を向けてくる父親の顔は沢北の目に入って
いなかった。憤って説明しているうちに、なにかぼやけていた自分の行動にさらに霞がかり、なんの意図で動いたのか
分からなくなったからだ。
夏のインターハイでの屈辱的な敗戦。「はい上がろう」と言ったのは自チームの監督だ。これがいつか財産になると
肩を叩かれた言葉が、自分の中でどのように受け入れられたかはまだ分からないけれど、あの大会で日本一を逃した
からと言って、自分の未来が閉ざされたとは思えない開き直りが存在した。
悔し涙に泣き崩れる暇もなく、もっと広大な波に飲み込まれることを知っていたからだ。実際もみくちゃにされて
三カ月。ふと立ち止まったときに思い出すのは、試合終了間近、流川に抜かれたあの瞬間。序盤までは考えられない
ようなキレを見せたあのドライブ。
マンツー勝負に拘る男が我慢して引き寄せて惑わせて、一気に爆発した動きにディフェンスの型を取るのが精一杯
だった。
トータル的に見れば、流川にしてやられた以上のダメージを与えていたし、留学先で出会ったケイジャーたちには
もっと鮮やかな攻めで翻弄されている。それも毎日だ。なのに気づけば何度もフラッシュバックするあの情景。
――なんで、来ない。
あの後、愛和学院戦で大敗を喫したからか。本気で日本での一番に拘るつもりか。エースが抜けた後のチームを
気遣うようなタマには見えない。全日本ジュニアの合宿も一週間ほどだ。留学準備に大した枷ではない。高校生活に固執
するなんてもっと考えられない理由だろう。
――なにをモタついてる。
あのときの流川の勢いを知っているから。決意を聞いたから。だから衝動的に体が動いたのだ。
――衝動的?
一体なにに端を発する衝動なんだ。
沢北は何度も何度も目を瞬いた。
その後ガバリと音を立てて立ち上がり、携帯を握り締めて居間を飛び出した。背後で揄う父親の声は耳に入らなかった。
すでにメモリー登録されてあるそのアドレスを繰って発信するが、向こうからは無情な呼び出し音が返るだけだ。
しつこいくらいに自宅へ電話して、結局流川が捕まったのはその夜遅くのことだった。
なんで自宅の電話番号を知っているのかと問われたら、企業秘密としか答えようがないが、当の流川はそんなこと
に気づきもしなかった。
「おまえの望みを叶えてやるよ」
そう切り出すと、『いつ?』と即答が返った。さすが流川楓。そうこなくっちゃ。
「あしたの午前中だけ。その日の最終で帰るから、オレ」
『分かった』
「オレとおまえと合わせて、3ON3出来る頭数を揃えろ。無理なら四人でもいい。ゲームしよう。その方が楽しい」
『1on1じゃなくて?』
「んなもん、三十分ともたない。マンツーに拘りすぎてオフェンスの幅を狭めてたんじゃないか。そんな
スタイルは嫌いじゃないけど、ゲームの中で味方を使って自分をどう活かすか覚えたおまえだろ。そうやってオレ
たちから勝ちをもぎ取っていったんだろが」
一学年上の、そして先をゆく余裕をかましてやると、『うん』と少し嬉しそうに聞こえる素直な答えが返った。その
ときの表情なんかあの仏頂面から想像もつかないのに、なぜか携帯を握る手に力が入る。なぜと飛び出しかけた
問いが自分の胸に返ってくるまでに、通信は一方的に切られていた。
三日連続、藤沢新町近くの運動公園。
自分が勝手に押し付けているとはいえ、ここまでくると交通費のひとつでも出しやがれと口を尖らせた先、
集められたメンバーを見て沢北は面食らった。流川と仙道は分かる。どういう経緯があってつるんでるのかは知らないが、
他校同士で違和感はあっても、それ以上に納得できるものを一昨日から感じ取っていたからだ。
だから、あとは当然湘北の赤頭とか小柄なPGとか
存在感のあるセンターとか綺麗なシュートフォームを持つ三年が顔を見せると思っていたのだ。
どうも見覚えがない。湘北の控え? 来年を睨んで沢北と対戦させておこうという心遣い? いや、誓ってもいいが、
そんな気の利く男ではない。自己紹介を受けて、沢北の頭はガクリと落ちた。
「陵南だぁ?」
「陵南で、なんか不都合でもあんのか?」
と、仙道はアップしながらのほほんと返した。残りの三人は陵南のガードとフォワードらしい。呆れきった沢北は流川
の腕を掴んで引き寄せた。
「なんで仙道とこの学校のヤツらなんだよ」
「なんでって、あんた、別に指名しなかったじゃん」
「けど、ふつうは自分とこのメンバーに声かけないか?」
「全部仙道に任せたし」
「はぁ?」
「めんどくせーし」
「自分ちのメンバーに連絡するのが、かよ?」
「ああ」
まったくもって想像できた。きのうの電話で伝えたことをきれいに横滑りさせて、面子を揃える手はずを他校の
先輩に押し付けたのだ、この男は。ホイホイとその望みを叶えてやる方も相当だが、仙道もただでは動かない。インハイを
経験していないチームのメンバーが、高校生ナンバーワンの称号を持つ男と対戦できる。しかもアメリカ帰り。
ひとのいいところを見せながら、そのチャンスを湘北に譲るようなお人よしでもないだろう。
「3ON3だろうがマンツーだろうが勝負は勝負以上の意味を持ってない、か。けど喩え二、三時間でも仙道はこれをチャンス
って捉えてるぜ」
「チャンスにでもなんでも勝手にすればいー」
「敵に塩を送ったようなもんだっつっても、てめーにはピンとこないか」
「あんだよ。ウチのヤツらと対戦したかったのか。夏の仕返しか? だったらてめーんとこのスタメンも揃えやがれ」
こっちが返り討ちにしてやる、と腰に手を当ててエラソウだ。
「……そういうことじゃなくって」
どうしてこうもただの会話を成立させるのが困難なのか。沢北は頭をかかえたくなった。
生活レベルで、おまけに人間関係全般において、立ち入ることも関わることも邪魔くさい
と言いかねない男が、仙道だったらどうしていいのか。メンバーを揃えろと言って、なぜ仙道なのか。
なにを許しているのか。
チラリと視線を送ると、当然のようにこちらを凝視していた仙道と目が合った。ニコリと笑むその瞳は余裕と安閑と
焦燥と苦悩とを内包している。
そう感じてしまう。
口に出来ない問いは一条の疑惑として沢北の胸に残った。
そんなひとの心の機微を裸足で蹴散らし打破してしまう男――流川は押し黙ったままの沢北の腕を払うと逆に掴み、
仙道のところまで引っ張ってゆく。
バスケの勝負においてのみ発揮させる機動力を見せ、少し考えるふうの流川は、仙道の横にいたガードの越野と
フォワードの福田の腕を掴んだ。呆気に取られる五人を他所に、これでチーム分けができたと言いたいのだろう。
沢北、仙道、植草の三人と正対して睨みを入れる。
どちらもガードひとり、フォワードふたりの布陣だ。
――コイツ!
沢北と仙道をまとめて相手してやろうという魂胆があまりにもらしくて倣岸で、これのどこが対等なチーム分け
なんだと、腹立たしさが先にたった。妙に近い位置を許しあっているふたりこそ、沢北ひとりで粉砕して格の違いを
見せ付けるつもりだったのだ。
陵南の他の三人の実力のほどは測りかねるが、神奈川の天才と称された男と同等の力を有していれば、インハイ予選
敗退はないだろう。編成し直しだと一歩踏み出した沢北の背に、クツクツと笑う仙道の声が被さった。
やけに耳障りな。
「そう来ると思った。先輩を立てようなんて気はこれっぽっちもねーからな。これでやろうぜ、沢北。どうせ、言ったって
聞きゃしねーよ」
「言っちゃ悪いが、これで相手になんのかよ?」
「いいんじゃねー。二度と立ち上がれないくらいにぺしゃんこにしてやれば。どーやらそれがアイツのお望みらしいし」
「身の程を知れって言ってやりたいけど、叩いても叩いてもぺしゃんこにはならないんだろう。やたらと打たれ強い
みたいだし。インハイのときもそうやったら、アイツ笑いやがったからな」
ヒタと。
それまでゆるく凪いでいた風が止んだような気がした。時間にすればほんの数秒。そこだけ重力が増した
重い間がふたりを包む。
「流川が――笑った?」
澱んだ空気を払拭させる仙道の声は思った以上に深かった。その重さに比例して沢北の中でなにかが湧き上がってくる。
ザワリと肌が粟立つように居心地が悪く、けれどそれが優越感だと気づくのに、もう、理由はいらなかった。
「ああ。中盤な。グウの音も出ねーくらいにブチのめしてやったのに、アイツ、意識なんかモーローとしながら、
楽しくって仕方ねーみたいに笑いやがったんだ」
オレと対決したときにだけ、と続けかけた言葉を遮るように、仙道は沢北の肩に手を置いた。添えただけの手。
圧迫感すら押し付ける。
そして仙道は嫌味なほど底の知れないきれいな笑みを浮かべた。
「喩えさ、おまえがオレと流川のふたりを相手するチーム分けに変えたとしても、身の程を知れ、っておまえに言うと
思うぜ、オレ」
意思の疎通も正規のポジションも明確なゲーム戦略がなくても、そこにコートとボールと頭数さえあれば
バスケは出来る。だれがポストアップに入るとか、だれがだれのマークにつくだとか関係なく、隙があればヒョイヒョイと
シュートが打てる。その気安さが真髄ながら、そこは自然と躰がゲームメイクに反応する習い性。なんの打ち合わせも
なく沢北の動きをコントロールし出す仙道がいた。
右45度の位置にいた植草からのボールを受けるためにカットインした仙道に、流川はディフェンスにつく。もう一度
戻ると見せかけて、福田や越野の意識が流れると左にいた沢北のマークが外れた。植草から沢北へ。気づいて戻る流川の
真横をバウンドしてそれは沢北の手に収まる。
「楽勝」
と、鼻歌でも口ずさみながらジャンプショットを打つものだから、流川の睨みが一層深くなる。リングをくぐったボール
を手にすると越野にパスを送り、ワンクイック入れて仙道を振り切った。ローポスト近くの角度のない位置から放たれた
ボールはきれいな弧を描いてリングに吸い込まれた。
これがどんなお遊びでもお気楽にプレイするバスケなど流川の中には存在しない。沢北のリリース視線で追う。
仙道の読みを探ろうとする。植草の動きを牽制する。足場が砂地だろうが、超高校級のふたりを相手だろうが、敵おうが
敵うまいが、喰らいついてゆくまでだ。
コイツならNBAプレーヤーの中に放り込まれても、なんの衒いもなく、変わらずエラそうに、そこにいて当たり前
のような顔をしてボールを追うのだろう。
だからさっさと用意して来いって言ってんだと、余裕を持って眺めていると、流川に向って伸ばされる手の、視線の、
声の、その特異さばかりが目についた。
ディフェンスで抜かれて悔しそうに舌打する流川の背にからかう声がかかる。シュートを決めて少しだけ嬉しそうに
拳をつくる流川の髪をクシャリとかき回す。一瞬、味方の数を試合中と勘違いしたとなぜ分かったのか、躊躇った
流川の動きにクスクス笑う仙道。憮然と流川は中指をおっ立てていた。
違和感なんてもんじゃない。
ふたり並べて感じた質感は、同じコートの中で見ればそこだけ浮き出ていた。これを見てなにも感じないのかと、
陵南の三人を見回すが、ゲームに夢中なのか彼らも真剣な眼差しだ。
まさか自分だけが意識しているのか。
冗談じゃない。
ふたりを相手しながらだればかり見てんだと、沢北は目の前の流川をこれ見よがしのバックロールで抜いた。
そのままワンステップを入れてダンクに持ち込む。リングから手を放し着地して後ろを振り返ると、当然くる睨めつけた
視線を外して真横の仙道に移した。
コイツの相手は妙に疲れる。雑多な感情が入り混じって、ただでさえ集中力が途切れがちな上に、仙道の土俵に
引きずり込まれたような屈辱感を感じる。
そしてなによりも。なによりも。なによりも。
沢北栄治。正月三日の煩悩。
目覚めたと認めるには、ハラワタが煮えくり返るような感情だった。
end
|