last confession 若い時には、とかく見誤るもんなんだと人は言う。 本当に大切なものとか。何かを選び取った後でさえ、その選んだものの真偽とか。 俺は、絶対に自分が間違えていない自信があった。 ──少なくとも、ヤツの口から、そう告げられる寸前までは。 「アメリカへ行く」 近所のコンビニへ買い物に行くみたいに、気安く宣言する秀麗な顔を、俺は茫然と見つめ返した。 「…ちょ、ちょっと待てよ流川」 うろたえる俺とはまるで正反対に、ビスクドールのような面は鉄壁の無表情を崩さない。 こういう時感情の出ない顔は得だよな、なんて、俺はその無表情をとてつもなく愛している自分を忘れ、 他人事のようにそんなことを考えた。 「なんでいきなりそんな話になるんだ?」 「いきなりじゃない。…ずっと前から決めてた」 …冗談だろ。 俺はごくりと唾を飲み込む。 オッケー。コイツが気の利いた冗談の言えるようなヤツじゃないことはよくわかってる。だから、 ちょっと落ち着いて考えろ、仙道彰。 「ずっと前って、いつから?」 グリーンのソファに腰かける流川は、珍しく少しためらうようなそぶりを見せた。その間、俺はほんの 一瞬だけ安息の時間を与えられ、胃が痛くなりそうな宣言をした流川の隣りに腰を下ろす余裕を得る。 「…7日と5時間30分前から」 スキンシップを図ろうと体を摺り寄せる俺を煩わしそうに横目で見ながら、流川が答えた。 …何なんだ、その妙に細かい数字は。 俺はツッコミを入れたい衝動に駆られつつ、実際はそんな悠長でない事態に直面している我が身に、 はたと気づいた。 「うん、いつからかはわかった。…じゃあ、もう一つ聞いていい?」 「ドウゾ」 流川は素直に頷く。 「何が原因?俺、何か流川の気に障るようなことした?」 俺の問いかけに、流川が目を眇める。一年間一緒に生活していても、心がどこにあるのかわからない 掴みどころのない俺の恋人は、胸の前で組んでいた腕を解き、俺の目をまっすぐに見つめた。 「『もしもし、あたしカオリ。ゆうべは楽しかったわ。今度はプロヴァンス風の部屋で楽しみましょ。 愛してるわ彰。じゃあね』」 「…る、流川!?」 「プロヴァンス風の部屋ってナンダ」 …ああ。 俺は、絶望的な気分で頭を抱えこむ。 …ちくしょうあの女。俺の携帯勝手に見て、自宅の電話番号調べやがったな。 「ち、違うんだ、流川。そのコとはホントに何でもないんだ。サークルの飲み会に来てたコでさ、飲めも しないのにめちゃくちゃ酔っ払っちゃって。家わかんねーし、聞いても答えねーし、しょうがねーからホテル に連れてって一人泊まらせて」 「ふーん」 俺の語尾におっかぶせるように、流川が答える。けどその後、まどーでもいいけど、と呟いた一語に、 俺は心臓を握り潰されるような痛みを覚えた。 「…どうでもよくなんかないよ、流川」 俺は、ささやかな抵抗を試みる。すると流川は、一重の奇麗な両眼で俺をまじまじと見つめてきた。 「俺、恋人から別れ切り出されてんだよ?流川は捨てるほうだから割り切れるのかもしんねぇけど、一方的に 最後通牒突きつけられてる俺は、どうでもいいじゃすまないよ」 「─────」 「俺のこと嫌になった?…それとも、俺がアメリカまで流川追っかけてったら、俺とまだ一緒にいてくれんの?」 …仮に俺が女だったなら、こんな情けねぇこと言う男、足蹴にして別れてやるだろうな。 そう思うけど、俺の口からはこんなプライドがたがたの言葉しか出てこない。流川は、相変わらず感情の読めない 顔で俺を見ていたが、ふと目の前のガラステーブルに視線を落とし、言った。 「センドーは来なくていい」 「…流川」 「ホントはもうセンドーだってわかってる」 「…何を?俺が何をわかってるって言うの流川?」 ──最高に惨めな構図だ。 自慢じゃないが俺は今まで、捨てたことは数多あっても捨てられたことなんか一度もない。だから、俺から 離れようとする流川を、どうやったら引き止めることができるのか、正直よくわからなかった。 逆に言えば、引き止めることができないとわかった瞬間、どうすることが一番大人の男として潔い対処法なのか。 そんなこと知りたいと思ったこともないし、とてもじゃないけど、今考える余裕なんかなかった。 それでも、そんな情けないセリフを吐く俺を眼前にしても、流川は席を蹴って立ち去ろうとはしない。 ただ、どこまでも静かな、風のない水面のような瞳が俺をとらえた。 ──その、刹那。 俺は呼吸を止める。 そんなことは、今までに一度だってなかった。一度だってなかったからこそ、俺は流川のその行為に、 もうどんな言葉だって行動だって枷にはなってくれない、強固な意思の存在を認知した。 「…ひでぇよ」 俺は呟く。流川の匂いとか、俺の背に回された腕の温みとか、かすかな息遣いとか、前髪の感触とか。 それをないものにしろと迫る流川に、俺は抑え難いほどの感情の滾りがこみ上げてくるのを、どうにもできなくなった。 「…なんでこんなことするんだよ」 もし俺が小さな子どもで、許されることなら、声を上げて泣き出していただろう。流川の決意に対し、 俺はもうどんな手段だって講ずることができない。そういう事実を、流川は今までにないほど優しい残酷な手段で、 俺の心に刻みつけてしまった。 「どあほう」 紅茶の匂いに似た、流川愛用のパフュームが香る。俺は、肉付きの薄いその背中に腕を絡め、逃がすまいと するかのように必死に流川を抱きしめた。 「俺、流川のことこんなにも好きなんだよ?」 未練だと思っても、言葉は止まってくれない。流川は、わかってる、とでも言いたげにコクリと首を振った。 「それでも行っちゃうの?」 「…行く」 「俺のこと捨てて?」 「…捨てるとかじゃねー」 「でも俺にアメリカ来るなって言ったじゃん」 「…言った」 「それってどう考えても別れるってことだろ」 「─────」 流川からの反応がない。もしかしてそういう意味じゃなかったのかと、俺の一連の行動の根底を揺さぶる 疑惑が湧き上がってきた時、流川が小さな声で言った。 「…俺はセンドーに勝ちてー」 「…流川」 「けど日本にいたんじゃ、勝てねー。だからアメリカ行く」 「なあ流川、それって」 「一度しか言わねー。よく聞いとけ」 とことん最小限の言葉でしか生きてない恋人は、ソファの上に膝立ちすると、俺の目を射抜くような強さで見つめ、 言った。 「俺は、センドーしか認めねー。センドーの横じゃねーなら、俺はどこにいたっておんなじだ」 「─────」 「だから、俺はセンドーんとこに帰る。浮気しねーで待ってろどあほう」 流川は、呆然と固まる俺を尻目に、言いたいことだけ言うとソファから立ち上がる。 俺は、今目の前で起こった出来事が信じられずに、キッチンのほうへ歩いて行く流川の後ろ姿を、腑抜けの ように見送っていた。 …なあ、何が起こったんだ今。 誰か俺に理解できるよう説明してくれ。 「流川」 「ナンダ」 「…それって俺のこと好きって意味なんだよな?」 長い長い沈黙の後。 ショートした頭で、何とかかんとか事態を把握した俺が聞き返すと、流川は冷蔵庫からアクエリアスを取り出しつつ、 心底嫌そうな顔をした。 「…一度しか言わねーって言った」 「うん。でも好きだとは聞いてない」 こうとなると、人一倍立ち直りが早いのが俺だ。 鼻歌でも歌い出したいような満面の笑みを浮かべ、俺は対面キッチンのカウンターの上を流川のほうへ乗り出す。 流川はそんな俺を一瞥すると、グラスを掴んだまま、ふんと鼻を鳴らした。 「好きじゃねー」 「まーたまた、そんなツレないこと言って」 「…軽薄やろーめ」 悪態を吐きつつも、流川は俺に向かってグラスを差し出してくれる。 俺は、さっきとはまったく種類の違う涙が浮かんできそうになりながら、流川の手からそれを受け取った。 俺は、誰に何を言われようと、流川を選んだ自分の選択を若さゆえの過ちだとは思わない。 けど、流川と離れて、アメリカと日本なんていう気の遠くなるほどの遠距離をものともせず、この強い気持ち 抱えたまま毎日を過ごしていけるかってことについては、きっと流川よりも俺のほうが弱いんだ。 だから、俺は流川がアメリカに行っちまうその日まで、せいぜいガキみてぇに駄々をこねてやろうと思う。 海を隔てる恋人を喜んで送り出すなんて芸当は、俺がいくら名アクターだからと言ったってとてもできそう にないから。 ──なあ流川、でも俺にはちゃんとわかってるよ。 あの言葉はお前が俺に残してくれた、最高の置き土産だってこと。
end
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