〜十一 「なんで、こんなこと、する」 そう問うてみたものの抗う術を置き忘れたような流川の躰を仙道は、框から畳の上に押し上げた。 仰向けの躰の端に両手をつかれ見下ろされる屈辱的な眺めにも、それは疑問ではなく詰問の視線を上げてくる。それを 成す仙道にも、そしてそれを享受している己にも、といったふうに。 振り上げた拳の下ろし場所を探し出した流川の手は剣から離れ、なぜこの男に固執していたのかその意味を探しあぐねる。 複雑に絡み合った事由を総て内包した仙道の瞳。自分には考えもつかないなにか。痛むのは受けた瑕ではなく、胸の辺り に巣食う疼きとその中核にある男の存在。身じろぎひとつ、瞬きひとつするだけで、押し寄せてくるものの予兆に、 流川は吐息も漏らせずに仙道を見つめていた。 いったいなにが始まりだったのか、と仙道は改めて思う。 逸らそうともしない強い視線か。かと思えば総てを放り投げたような潔さか。その中にある彼なりの確固たる思惟を 読み取ってか。 分からないまま顔を伏せ、クチュっと音を立てて吸い付いた流川の肌膚に軌跡が残る。肩口に点々と印を刻み、仙道は しばらくそこから離れようとはしなかった。躰を投げ出したまま天井の節目を数えているような流川にも、慈しみに 似た肌の温もりを感じる仙道にも、まだ引き返す余裕はある。この状態に陥って、先を進める切欠は情愛かただの昂ぶりか。 いま一度目を合わせてしまえば、つき崩れると互いが知っていたから、そのままで身動きが出来なかったのだ。 「なんで、こんなこと、する」 ながの沈黙を破った流川の再度の問い。どうしても確かめられずにはいられない質が可笑しくもあり健気でもある。 だが、いまここでのそれは、奇妙に保った均衡を崩す行為でしかなく、仙道は視線を上げて流川と向き合った。 前髪をすくい額が顕わになり、流離っていた流川のそれも仙道に帰る。おまえのせいにするわけじゃないけれど、と 仙道ははぐらかせた答えを唇越しに伝えた。 「ここな、オレの隠れ家。藩邸に帰るのが邪魔臭くなったときによく使う。もともと、いまの和歌山藩主が世嗣時代に 手をつけて子を産ませたあとに放り出した奥女中に、ほんの少し憐憫の情をかけて宛がった住まいだ。けど、ここで暮ら したのはほんの僅かな期間だったとオレは聞いてる。そのころから彼女に仕えてた使用人が、いまでも手入れ してくれててさ。そんな僅かな収入でもないよりマシだろうって思って、続けてオレが使わせてもらってるんだ」 「好きだったんか、そのオンナのこと?」 「なんでそう聞くかな。顔も拝んだことねーよ。オレがここを知ったのは彼女が亡くなった後だ。けど――」 けれど、僅かお七夜を過ぎたころに腹を痛めたわが子と引き離され、一定の時刻になると張って痛む乳を 持て余した生みの母が、ここでなにを憂いなにに嘆き短い生涯を閉じたのかと、清潔に整えられた畳の上に臥して その思いを胸いっぱいに吸い込む思慕くらいはあった。 病臥から見える景色。風景。それを同じ位置から眺めていたいと願ってこの寮に足を運ぶ仙道がいた。ここにも 高い家格が災いして踏みにじられた女の人生がある。それを流川に告げても、いまは詮ないと分かっている。けれど、 ここがいいと連れてきたものの、彼女の死臭が消えて久しいはずのこの室内で、生ある血が滾る奔流に身を任せるには、 あまりうってつけとは呼べない場所だったのだ。 当然そんな思いは流川にはつうじない。深読みする性質でもない。どこまでが憎しみでどこからが情愛なのかの 線引きも必要ない。なぜ腕に抱いて肌を寄せ合いその肌に口付けを落としているのか、そしてなにをしたいのか、 ただそれだけだ。 「なんで、こんなことをする」 このまま気まずいひとときを過ごし、仙道の探りを肌で返す流川の躰を離して、なにごともなかったように別れる 結末もそれはそれでアリだったのだけれど。まったく、そんなふうに逃げ道を用意しているところが、やたらと訳知りで イヤになる己の質だ、と仙道は自嘲ぎみに哂った。 「自分で考えろよ」 その卑怯な物言いに流川の睨みが入る。この調子じゃ答えを聞くまで納得しないだろうけれど、そうそう教えて たまるか。それこそ山の頂きから覗いていた奈落に、背を蹴飛ばされたのは自分の方なんだから。 「分かんねーから、聞いてるっ」 「考えろ。ない頭で一生考えろ」 いつかこの日のことを語るときがきたら、誘ったのはおまえの方だと詰ってやろう。 そう願いつつ、動いたのは仙道の右手。行灯から漏れる灯りを引き裂くように頬をなぞり、存在を確か めるように顔の輪郭を探る。ことさら強く押し当てられた親指の腹が瞼を行き来し、伏せるしかない瞳に意識は一気に まどろみそうになった。正面きっていた顔が一度横に揺れ、そこから引き戻そうと流川の唇が男の名を呼ぶのと、 男の指が円を描くように上唇に滑ったのとは、ほとんど同時だった。 「せん、どう」 上唇に触れた指がなにかを引き出すように一度往復し、離れてゆくさまを名残惜しげに喉を晒したのは流川の方だ。 そう知覚する間もなく触れてきた仙道を捉えようと閉じていた瞳を上げたのも。そしてこじ開けられるまでもなく、 薄っすらと唇を開き誘ったのも、たぶん。 どちらが先かの問題ではないけれど、なし崩しに流されるのが厭で癪で、それがどこに帰結する思いなのか分からない だろう流川に、仙道は小さく笑って深く口付けていった。 續を切ったうねりは溢れかえりぶつかり弾き返し、息つく間もなく互いを貪りあった。仙道の指は首筋 からうなじを固定し、流川は重い腕を上げて仙道の後頭部を鷲づかみにする。噛み付く勢いのそれはガツンと歯同士が ぶつかり口腔内で血の味が混じり、銀糸と絡み合ってより濃厚な物音を立てだした。 わき腹の辺りまで肌蹴られた袷の帯を解くのももどかしく、立てた流川の袴の裾からあいた手はゾロリとはい上がる。 膝から綺麗に筋肉の割れた内腿へ、なぞる先にうち震えるものの存在を知覚して、ただ流川は喜悦を耐えた。 「ん――」 自然と逃げを打ってズリ上がる躰。それを阻む男の吐息と底冷えする冷気を払って立ち昇る汗の匂い。口付けを解いて 荒い息を整え、また貪って脳内が痺れる。余すことなく口腔内を蹂躙して生肌を確かめ合い、間断なく押し寄せてくる 抗えない奔流に、流川の悲鳴が仙道の喉奥に消えてゆく。 このまま呑みこませているのは余りにも刹那い。けれど離してしまえるものでもない。仙道は流川の呼気を一度解放し、 顎の先に小さく口づけるとそのまま鎖骨の窪みをなぞり上げた。 ビクリと素直な反応が返る。浮いた背と畳の隙間に手を差し込む。腰の辺りを抱きかかえ、そこにまだ纏わりついて いる邪魔な衣服を解く間も、仙道が残す軌跡はひとところに留まらなかった。 「ぁ……」 大きな掌でわき腹から腰骨の辺りを行き来し、そのあとを舌がなぞる。かみ殺せない吐息が甘さに変わった。冷えた 夜気に相対し、揺らめく灯りに縁取られた真白い肢体は、やがて仙道の手に馴染むほどの熱を帯び出した。女ほどに しつこくない滑らかさと肌理の質。漏れるような灯りの下でも見て取れる目に痛いほどの生肌の白さ。戸惑ってなお 隠そうとする覚えたての悦楽。それはバラバラにうごめく指の一本一本にまで絡みつき、応えて仙道に返し、為止す ことなど出来るはずもなかった。 溺れる淵とはこういうことを言うのだろう。 惹かれるように胸の飾り。しこりを潰す尖った舌先。もうひとつは指の腹で円を描いて転すと、吐息はくぐもった 嬌声へと変貌する。 「――!」 かぶりを振った癖のない流川の黒髪が、青い匂いの残る畳を何度も叩いた。頭で否定しても膝を開いて躰を割り込めば、 しどけなく下肢は崩れ仙道を迎えいれる。密着し重なり合った互いの熱情。脈動するそれをふたつ、合わせたように握り こまれ、知らず流川の躰は逃げを打った。 「せんっ!」 確かな反応を返しだした胸元の愛撫を止め、躰を引き上げた仙道は流川の詰る声を唇で受け止めた。 「おまえが望んだ。オレが欲した。おまえも貪り食っちまえ」 手の動きに合わせて腰が揺れる。律動を繰り返されるうちに飲み込まれ、上げた腕は仙道の首筋に纏わりついた。耳を 覆いたくなるような粘着質な物音。脳髄を直撃する蕩散。うち震える大腿。自然、絡み合っていた下肢が宙を蹴った。 「はっ、ぁ――」 下肢から遅い来る抗いきれない波に押し流されて、絡まる舌は淫靡さを増した。自ら差し出し、ねっとりとなぞられて、 喰らいつく勢いで仙道のものを取り込む。溢れる銀糸が頬を伝い、それすら気障りに感じなくなっていた。 渇欲はさらに増し、鎖骨と鎖骨がぶつかり、いいようになぶられた胸の飾りがこすれ合い、朦朧とし出した意識の下、 唇を強くかみ締めた流川が、それでも間近にあり過ぎる男の表情を捉えようと視線を上げた。 無意識のうちの抗い。主導権を握られたまま、目を逸らしていられるかといった男の矜持。ただその強さが、色恋に つうじた仙道をして、太刀打ちの出来ない鋭い色香を覚え、流川の上げた悲鳴と共に耐えた嬌声を呑み込みあった。 初めて他人の手によって欲望を引きずり出され、その倦怠感からそのまま寝入ってしまったようだ。重い瞼をこじ開けて 流川が目覚めたとき、勝手場から上がった六畳間は目に痛いほどの朝の光が満ち溢れていた。 小さく身じろいで目をやれば乱れていた着衣はさらりとした肌触りの夜着に取って変わり、昨夜の情交の跡は綺麗 さっぱり清められている。掻い巻を押し上げて布団の上で上体を起こし、ガシガシと寝癖のついた髪をかきむしれば、 障子を半分閉じた土間から盆に椀を乗せた仙道が姿を現したところだった。 「起きたか?」 未だに覚醒仕切れない胡乱な自覚でも、昨夜のきょうで、ましてこのような朝日の下、気恥ずかしくもあったが、 まだいろんな答えをもらっていないとばかりに流川は視線を上げ続けた。仙道は少し困ったような顔をする。 ただそれだけのことで、ほんの少し優越感が戻るのだから因果な質をしていると思わないでもない。 「腹減ったろ。なにもなくてさ。前もって連絡しとけば、朝餉くらいは用意してもらえたんだけど」 ないよりはマシと男は困った顔のまま、まろやかな香りのする茶を差し出した。喉を鳴らしてそれを受け取る。 実のところ、かみ殺した喘ぎで喉がひりつくように痛かったからだ。 「無断外泊させちまった。おまえ、箱入りだから、藩邸では大騒ぎしてるだろうな。江戸家老の憤怒の様相が目に 浮かぶよ」 ガキ扱いするな、と唇を尖らせながら熱い茶をすすっていると、自分ひとりきちんと身なりを整えた仙道の袷から 微かな香の匂い。間近にあって鼻腔が刺激され、気づけば口をつけた茶碗ごと、片手で頭を抱えられていた。仙道の胸に コトンと頬を寄せられ、跳ねた茶が染みをつくる。それに構わず抱き寄せた男の鼓動を聞いていた。 それは喉に染み渡る一杯の茶よりもホッコリと温かさをもたらせ。 「なぁ、流川」 そして――そう続けられた言葉は告白じみていた。しかし甘やかなひとときを引きずって、禍根をなかったことに 出来るわけがなく、先ほど背を伸ばして仙道を見据えた流川もそれを望んでいないだろう。祖母が暮らす離れであの話を 聞いてから、父の画策に一矢報いるために思い至ったある考え。絡まったものを解すように仙道は語り出した。 「オレたちで変えよう」 「なにを?」 「紀伊と尾張を。殺ったり殺やれたり。そんな血なまぐさい遺恨は断ち切ろう」 仙道は流川の手から茶碗を強引に奪うと、今度は両手でその躰を抱きしめた。こんな状況で、体重を預け切ったまま 聞ける話ではない。目を見て話せ。だが仙道はつうじた情愛を抜きにして、切り離して考えたくないとばかりに、 押し返そうとする力を奪ったままだった。 「約束する。紀伊は今後一切尾張を脅かすようなことはしない。いまのおまえに、そんな口約束だけで怒りを 抑えてくれとは都合のいい申し出だってのは分かってる。おまえが望むんならオレの首ひとつ尾張に差し出してもいい」 「てめーになんの価値があんだ。兄上は藩主だ。同等のもんを差し出せつった。交渉はそっからだろうが」 「それだけはダメだ。身内可愛さから言ってんじゃない。あのひとに死なれると、後継問題がまた振り出しに戻っちまう。 人心を安んじるために、あのひとかおまえかとなったら、あのひとしかいないだろ」 内耳で、そして鼓動で仙道の心情を聞く。胸に耳を当てていると、まるでそこから吐き出されているように思える。 袷をとおして感じる仙道の肌の匂いごと、流川は肺いっぱいに吸い込んだ。 「ムシがよ過ぎるって分かってて、オレを騙すつもりであんな真似したのか、仙道」 「違うっ」 それには針のような言葉が返った。 「おまえが欲しかった。まだオレのもんにしたわけじゃないけど、オレを刻み付けたかった。拒まなかったもんの、 確かにおまえに否応はなかったよ。だから今度はオレが囚われる番だ。オレを人質にしろ。尾張の牢につながれてやる。 父上はオレに紀伊家を継がせたいらしいけど、受けない。おまえひとりの囚人になってやる」 「せん、ど――」 「吉通さまと五郎太さま。おふたり分には到底余るけど、おまえが嫌うあの親父に、目にもの見せる方法はそれしかない」 「んなこと出来るわけねー」 「出来るかどうかやってみないことには分からない。おまえは藩主になれ。御三家筆頭尾張家当主だ。しかし健康面で 問題があるとか多血体質とか、なんでもいいから理由をつけて、紀伊家の長子を養子に迎えるんだ」 「おまえ?」 「そう、オレ」 「紀伊家は子沢山だ。それにオレは正式に世嗣としての君命は受けてない。いましかないんだ。おまえが尾張を継いだ ら紀伊家当主よりも格上なんだぜ」 「……」 「一泡吹かせよう。親父が固めた基盤をぺしゃんこに潰してやる。二の丸に向けている目を引き戻すくらいに。そんな 画策にかまけていられないくらいに。オレたちが出来る足掻きはそんなことくらいしかない」 無論、いつまでも足止めが出来ないことくらい仙道も承知している。長子が紀伊家から消えたとしても、三年、もしく は二年。弟たちのだれかが世嗣として擁立されるまで。たぶんそれくらいの期間の話だ。だが、いまを阻止することで なにかの変化があるかも知れない。揺るぎない構想のどこかに綻びが出るかも知れない。 そんな足掻きだけがあの男に対する唯一の抵抗なのだ。 だが、流川のひと言はニベもなかった。 「いらねー」 「る、かわ」 「おまえなんかいらねー。約束するって言うんだったら、てめーが紀伊家を継いで、吉宗を牽制しやがれ」 それをこの体勢のまま――抱き寄せられて投げ出していた腕を仙道の背に回して啖呵を切るものだから、わけが 分からなくなる。おまえ、イチオウこれでも考えに考えて出した結論なんだぞ、と詰っても、是か非か、感情の 赴くままを口にする腕の中の少年は、彼が思うところのだた一点でその提案に承服し兼ねるようだった。 すなわち。 「五郎太がいる」 「あ……」 「てめーはひとつ忘れてる。五郎太は絶対元気になる。だからオレもいらねーし、おまえなんかもいらねー。尾張は あいつのもんだ」 もう何度目だろうと仙道は思う。流川と対していてガツンと後頭部を殴られたような衝撃に目が醒めたことが何度も あった。実際仙道は、床に伏せっている先代藩主の遺児が、本復する可能性を失念していたのだ。確か御年五つ。 直系を重んじれば世嗣である少年を置いて他はないが、その年齢ならだれかが摂政として立たねばならない現実もある。 この様子では、流川はその地位など一切視野に入れていない。 「かの方は五つだぞ」 「分かってる」 「じゃあさ、五郎太さまの回復と成長を待つ間、おまえはどうするんだ? 例えば十五までにあと十年。当主の座を空席 になんか出来るもんじゃない。いっくら駄々を捏ねても、冷や飯食いのまま飼い殺しになんかしてくれないぞ。いまらさ 血を呪ったところでどうしようもねー。っていうか、この議論自体、尾張家の中では受け入れられるもんじゃねー だろう」 「ねじ伏せる」 「総ての家中をかよ。ちょっと現実を見据えてもの言えよ、流川」 あの親父に目にもの見せるよりも、やっぱりコイツを説得するのが一番難しいと、仙道は盛大に溜息をついて、 その黒髪に顔を埋めた。流川は小さく身じろぐ。彼の中の一直線な思惟の中でなにが葛藤したのか分からないが そのままの体勢で、彼なりに折り合える点を模索していたようだ。 そのとき浮かんだのは苦渋に満ちた尾張家中の面々だったのだろう。彼は一息で言い切った。 「十年も待てねー。五年で解放しろ」 「それって――家督を継ぐんだな」 「紀伊家よりも格上なんだろ。おもしれー」 「それは重畳。けど。オレに言うことじゃない」 「あんたが折衝に当たれ。したらあんたの言う遺恨の根とやらを断ち切ってやる」 仙道の背に手を回してた手を突っぱね、やたらと真摯な、けれどとてつもなく重く心に圧し掛かっていた問題を ひとに押し付ける方法を見つけ出した少年は、あるかなしかの笑みを零して仙道を脅した。 「おまえ――」 この強引な三段論法には、ムカツクことにもう慣れた。けれど例えば、このあと流川を伴って尾張藩邸を訪れ、流川は こういう条件を提示していますがご了承頂けますか、と仙道がでしゃばるのは、だれがどう考えても可笑しいだろう。 百歩譲ってそれを理路整然と言い放ち、口説き落とす自信があったとしても、正直、箱入り息子に半分だけとは言え手を つけて、その朝にそれを言ってのけるほど厚顔でもない。 ――江戸家老の赤木どのは、結構アレで聡そうだったし。 睨めつけても流川の顔にはなんとかしろと大書してある。仙道は知らなかったが、尾張なんかいらないと啖呵を切る だけで、継承問題は帰結したわけではなかったのだ。どっちも引かずの持久戦になるのは目に見えている。そうなると 意外とこらえ性のない自分のこと、不利な条件まで呑まされかねない。だが、この男の手をほんの僅か――流川は 僅かだと思っている――煩わせるだけで、五年の辛抱で足りるかも知れない。 実に完璧な作戦だ。渡りに船。もしくはカモネギ。モノグサにはそれなりの天の助けが配されているというわけだ。 ジト目にほんの少し色を乗せてやると、不思議なことに仙道は呆気ないほどに陥落した。諸手を挙げている。 「ったく! オレって、尾張家家中からすれば勲章もんじゃねー?」 我がまま気まま、放埓で横暴で、わやくを地でゆく次期候補を、当初とは微妙に予定が狂ったものの、その気に させたのだ。こんな苦労をして勝ち取りましたと、あの謹厳実直な江戸家老になにもかもぶちまけたい気分だった。 「いいだろう」 説得だろうが折衝だろうが、死ぬ気でやればたいがいのことはなんとかなる。けれど、けれど、これだけは言っておく、 と仙道は流川に突きつけた。 「今回は用意不足で我慢してやった。次は抱くぞ。泣かすぞ! 覚悟しとけ!」 十二分なくらいの疚しさを抱えつつ、取り合えずひとりで藩邸に戻った流川を待っていたのは、江戸家老の鬼のような 叱責でも、次期藩主を藩主とも思わない容赦のない拳骨でもなく、帰還の知らせを受けて飛んできた木暮の泣き腫らし た顔だった。 それを見て思わずたじろぐ。散々駄々を捏ねて手を焼かせてきたものの、泣かせたことは一度もない。無断外泊なんて 初めてじゃないだろうと、一歩ずさった流川の前で、木暮は破顔した。 「今朝がた、五郎太さまがお気づきになったんです!」 受けて流川は廊下を蹴った。速く速くと躰は急いて、途中駆け寄った赤木の巨体を押しのけたような気がするが、 そんなもので逸る心は阻止できない。病床の少年が住まう自室の襖を開け放てば、お静かにと奥女中が悲鳴を上げた。 僅か五年の命をつなぎ止めた甥は、母の輔姫に背を支えられて椀を口につけているところだった。 「かえで、さま?」 肩で呼吸を整え、力の抜け斬った躰はクタリとその場にしゃがみ込んだ。顔色はよくない。薄かった躰はひと回り もふた回りも小さくなった気がする。けれども。わぁ、と顔いっぱいの笑顔と憧憬の眼差しを向ける少年は、なにか特別 なことでも起こったのかといった邪気のなさだった。 「楓さまは前にもお見舞いに来てくださったのですよ」 輔姫は苦い薬湯をしかめながらも含んだ幼子に笑みを送って補足した。 「どうしておこしてくれなかったんです? かえでさまがせっかく、きてくださってたのに?」 「おまえ、よく寝てたから」 「そうなんですか? でもこんどはおこしてください、ははうえ。やくそくですよ!」 約束します、と言って輔姫は袖で顔を覆った。嗚咽が漏れて幼子の顔が不安で揺れる前に、流川はきちんとその場で 背を正した。そして自分などより一層聞き分けのよい甥に言い放つ。 「おまえ、ちっこいからダメだ」 「はい」 「好き嫌いすんな。いっぱい食え。そんで早く大きくなれ。竹刀が振るえるくらいになったら、オレが稽古、つけてやる」 「ほんとですか?」 「約束する。おまえのためにオレは居てやる」 「やったぁ!」 父の死を未だ知らないであろう幼い甥に、その事実を告げる役目は自分にあるかもしれない。それでもいま少し、 様態と心持が落ち着くまで、健やかでいて欲しいと流川は願った。気づけば二間続きの 自室の控えの間には平伏する赤木の姿があり、流川は躰を斜めに開いて江戸家老に申し伝えた。 「世嗣は五郎太だ」 希った願望はそれほどだいそれていないはずだった。 しかしその後。 床上げも叶い食欲も増し、藩邸内なら歩き回るお許しが出るまでに回復した尾張家当主は、家中一同の必死の 願いも虚しく、僅か三カ月後に驚風(髄膜炎)であっけなくこの世を去った。 享年五才。 幼き当主の摂政を務めていた叔父の嘆きは、傍らに仕えるものにも身を斬られるように痛々しく、ご不幸続きの 尾張家に心を砕いた紀伊家世嗣が、訝る家中の視線をもろともせずに何度も訪いを入れた。当初、両家の確執から 害を成すのではないかと案じた家中も、彼の悲嘆が癒えるまで根気強く接する姿には心を打たれるものまで現れた という。 彼らの間にどのような遣り取りがあったかは知るとろこではないが、倦厭する尾張家次期をなだめすかして、その座に 縛り付けたのは、他ならぬ紀伊家の世嗣だった。その一点のみにおいて尾張は紀伊に頭が上がらなかったりする。 そして三年後。正徳六年(一七一六)。 元来、蒲柳の質であった将軍家継が、花見のころに引いた風邪がもとで床の伏したまま帰らぬひととなった。幼子の 平均寿命が極端に短かった時代、そこになんらかの手が加えられたかどうかは、口さがないひとの憶測でしかない。 かくして、家継の死により、二代将軍秀忠の嫡流が途絶えると、御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、 紀伊家当主徳川吉宗が第八代征夷大将軍となって二之丸入りする。 その路が血塗られていたかどうかはもうだれにも分からない。しかし、自ら質素倹約に徹底し、新田の開発や公事方 御定書の制定、そして目安箱の設置などの享保の改革を行い、破綻しかけていた幕府財政を再建して、江戸幕府中興 の祖と呼ばれた手腕はのちの歴史が示している。 ときは正徳から享保年間へと変わるころ。 和歌山と名古屋。引き離された覚えたての恋情は、周囲の目を盗んで、また在府の時期を重ねあって、あの川の流れの 匂いがする寮で、いくつ逢瀬を積んだのか、それもだれにも分からない。 end
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最後までお付合いいただいてありがとうございましたv お江戸もの。 思っていた以上にやっとうの割合が少なくて、陰謀話しが中心になってしまいました。これはハッピーエンドじゃないと、 お怒りはご尤も。あり得へんけど、大団円。末永くお幸せにと強引な力技で持っていきました。 次は現代版のパラレルの予定。流川と牧が 従兄弟同士(出たぁ〜大好き縁戚関係)。るーは中坊。仙道は大学生(大好き年齢差)で、と〜っても青臭いのを(苦笑) またまたお付合いいただけましたら幸いです。 |