〜4



 たぶん。
 あの背中は、拗ねたように拒むように振り切りながらも、仙道が追ってきていることを知っている背中だ。
 駆け引きするほどの強かさはなく、計算するほどの手立てを知らない。ただ、ひとつ自分から動いてひとつ仙道の 執着をまざまざと見せ付けられ、ひとつ仙道が動かないことでひとつ自分の固執を知ると、彼なりに理解しているのだ。
 方向性がこんなに違うのに、タイミングがいつもズレるのに、互いが互いだけを見つめている。流川が仙道を見る。 それを肩すかししてしまう。流川が背を向ける。それを執拗に追いかける。
 たぶん。
 そんなふうにしか織り合えないのだろう、きっと。
 一直線に進むキレイに伸びた背を捉えながら、仙道はふっくらと笑った。
 クラブハウスを出ると辺りはすでに鈍色に染まり、昼間の焼いたような熱気とは違う色の風がキャンパスに流れていた。 大またで前をゆく少年は、同じような建物が林立する中、来た道順を思い出すように進むけれど、校門が見えてきた ころになって、ようやくその足を止めて振り返った。
「いつまでくっ付いてくんだ」
「流川が迷子になったら面白いかなって」
「なんねーよ。出口、見えてんじゃん」
「そうだね。けど校内を並んで歩いたら、おまえ、絶対に走ってでもオレを振り切ろうとするだろう」
 だから出るまで待ってた。さっさと帰ろう、と流川を追い越して、仙道は先に海南大学キャンパスを出た。
「帰ろうって、アンタ、寮なんだろ」
「送ってってやる」
「必要ねー。ガキじゃねーんだから」
「大切なひとり息子を連れまわしたんだから。そうする必要があんのはオレの方」
 当然と言い放って後ろを振り返ることなく、自分のペースでスタスタと前をゆく。
 この男はいつもそうだ。勝手に懐深く入り込んで来たかと思えば次の瞬間には、平気で置き去りにする。なにが 送っていってやるだ。勝手にさきさき行きやがって、と唇を尖らせながらも違う道を選んで反抗する気力もエネルギー も流川には残っていない。
 少し遅れて駅についたら仙道が切符まで買ってくれていた。傲然と顔を上げてそれを受け取り、ふたり黙ったままで 電車の扉にもたれて揺れに任せる。あとは車窓の風景を見送りながらただ我が家を目指した。
 流川はいつものようにダンマリなら、仙道はひと言ふた言なにか言葉を挟むだけで、居心地がいいのか悪いのか 分からないような道行きだ。けれど本気できちんと玄関先まで護衛を勤めるつもりなのだろう。 そして流川もここでいいとは言わなかった。
 そう。
 いらないなんて。
 言ってはいけない。なぜか、そこにギリギリに張り詰めたか細い糸を見た気がしたからだ。
 藤沢新町で降り駅前の商店街を過ぎ、閑静な住宅地を今度ばかりは流川が背後に男の息遣いさえ感じながら 進んだ。いったいどこへ進もうとしているのだろうか。引き返す道はとっくに失われて、その方向しか残されていないと なぜ思う。この男とのつながりは自分になにをもたらし、なにに突き動かされての結果なのか。
 なぜこの男の背中に付き従い、そしてこの男は自分の後ろをついてくるのか。
 いまはただ学校へ行って、終われば速攻で帰って公園へ行く毎日。そんなルーチン化した生活の中で、クラスメイトの 名前と顔はぼんやり覚えていても、関わりは極端に薄い。二年半、苦楽を共にしたチームメイトも同じで、だれかを こんなふうに意識したこともなかった。
 この男だけが、平坦でいてなだらかな生活の中に、ズカズカと入り込んできて自分の心情をかき回し触れてゆく。
 これが特別ということなのだろうか。
 道の両側の家々からのぞく、紅紫色のむくげや山萩の蝶形の花をやり過ごしながら、ただ、ぼんやりと流川はそう思った。
 トクベツ。
 なにかが他者とは違う。
 だから、我が家に帰りついて、バッグの中から鍵を取り出しながら、自然とそんな言葉が口をついて出たのだ。
「寄ってけよ。きょう、だれもいねーし。茶ぁくらい出す」



 たぶん。だれかを呼び止めた初めての言葉だったと思う。



 流川家に招きいれられ、だれもいないと分かっていても、お邪魔しますと仙道はひと声かけた。躾がよかったのは そこまでだ。鍵をロックする暇だけ与えて、流川の手を取り引き戻す格好で、仙道は彼の躰を引き寄せた。
 流川母の手入れの行き届いている玄関先で、溺愛しているであろうひとり息子を、乱暴なほどの勢いで扉に押し つける。さすがに重厚な玄関扉もギシリと泣き声を上げ、逆に流川は身じろぎもせずにその腕の中に納まっていた。
「だれもいない家に男を上げちゃいけないって、お母さんに教えられなかった?」
「息子相手にんなこと言う親なんかいねー」
「危機管理なってないな。いままで、んな無防備でいて無事だったのかよ」
「全然無事」
 この体勢でなおも流川は傲然と言い切る。そして、一回くらい半殺しの目に合わせといたほうがいいかも、なんて多少 吼えたところで、多彩な攻撃と駆け引きのアビリティーは比べ物にならないのだから、仙道にすれば勝手にほざけ、 てなもんだ。
「あんた、結構変人だろ」
「ひでー言い草。オレ、ちゃんと真っ当だぜ。趣味いいし、自慢じゃねーけど相当面食いだし。しかもただの美人じゃ ダメだ。毅然として自分をしっかり持ってる子じゃないと、それこそ範疇じゃないわけ」
「じゃあ、こんなとこで、こんなことしてねーで、そんな美人、探せばいいじゃん」
「いたよ。たぶんこれからもオレの前に現われると思う。けど、それ以上にその生き様が鮮やかで、魂まで惹きつけら れるヤツが目の前にいたら、その他の美人さん、ごめんなさいってなもんだろ?」
「……いるんじゃねーか」
「ん?」
「いっぱい、いるくせに」
「流川?」
「なんでオンナにしとかねーんだっ」
 もう一度なんで、と悔しそうに落ちた流川に呟きを拾って噛み砕いて咀嚼して、仙道は腕の中の少年の躰を想いのたけを 込めて抱きしめた。抱きしめて返る鼓動に自分のそれを重ね合わせ、流川の意識が通常排他的モードからいつ切り替わった のか。そのスイッチの在り処が予想していたものだとしたら、まさしく天をも仰ぎたい気分だ。
「流川が素直なのはヤキモチ妬くときだけだな」
「チガウ」
「違わない。おまえ、いま、めいっぱい誘ったんだぜ。分かってんだろうな。裸にひん剥いて食われちまっても、文句 言えねーんだぞ」
「誘ってねー」
「誘った」
「食っても旨くねー」
「たぶん、めちゃくちゃ、オレ好み」
「だとしても、あんた、ハラ、減ってねーんだろ」
 流川にすれば珍しいくらいの軽口だ。気をよくした仙道は、
「おまえは別腹」
 そう言ったあと、「部屋に連れてけ」と、耳朶に辺りに囁いた。



 だれもいないと言っても他人のお家。しかも最初の訪問でこの不埒な行いだ。中学生の息子がいるとは思えないくらいに たおやかな美人だった流川母に心の中で両手を合わせ、多少は後ろめたさも手伝いながら、それでも後ろ手で部屋に鍵を かけた仙道がいた。
「ちょっと来い」
 クイクイと人差し指を曲げ、先に入って仙道に背を向けたままの流川を呼ぶと、眉をひそめたものの、クルリと振り返り 仙道と真正面から向き合う。そのままにらみ合っていてもラチが開かない。仙道は扉を背にペタンと腰を降ろし、 長い腕を流川に伸ばす。大きく開いた自分の両足の間に、わざと後ろ向きにしゃがみ込んだその躰に腕を回しても、 抵抗はない。大人しく仙道の胸に背を預けていた。
 両腕を流川の胸の前で交差させ、何度も何度も髪をすいた。ほんの少し傾いた首筋に唇を押し当て、耳朶のあたりと 上下させても流川は逃げない。
 ソノ気モードはまだ切り替わっていない。そうタカを括っていたら、
「仙道」
 と、囁きのような声が上がった。
「なんだ」
「リーグ戦って十月の終わりまで続くんだよな」
「はぁ?」
 こんないい雰囲気のときに、いったいなんの通達事項だ?
 流川の感情の起伏が読めないのはこういうときだ。無粋さに涙し、一発ブン 殴ってやりたいと思うときも。色香を前面に出して平気で煽ってその気を見せるくせに、瞬時になにを思い出したのか、 そんな腰の折り方をする。
 ふたり違う場所から同じものを見ているはずなのに、流川はその突端をすぐに離してしまうから。一度手にすると、 それを手繰り寄せる膂力は流川の方が強いだろうに。例えばここで仙道の方が背を向けてしまったら、きっとスゴイ勢いで 追ってくると予想できても、そんなまどろっこしいことをしていられない局面だ。
「そーだけど」
「もう、きょうみてーな休みってないんだよな」
「だな」
「試合は土日、両方だろ」
「そう」
「試合の後って練習すんの」
 段々と流川がなにを言いたいのか分かってきた。よほど楽しかったのだろう、きょうが。それならば最初に言う言葉 があるだろうに。それさえすっ飛ばしてどこまでも強欲なヤツ。一度快楽を覚えてしまった躰は、 関東大学リーグ戦が終わるまで大人しく待てないのだろうれど、やはりこの体勢でもそう来るか。
「試合でクタクタになったオレになにをしろって?」
「練習してー」
「鬼か、おまえは」
「一試合くらいでクタクタになるタマかよ、あんたが」
「公式戦だぜ。余力なんか残すかよ。それに体育館の使用許可、簡単に下りねーだろうしな」
「体育館じゃなくってもいい」
「ホント、勝手なヤツだな」
 呆れながらも手は唇はそこここにうごめき、くすぐったそうに肩を竦めた流川の顎をすくって後ろから唇を合わせた。 無理な体勢から息を詰めて眉を寄せる流川の躰を反転させて、仙道の太腿にまたがらせる。密着度がまして、自然、 逃げを打つ躰と後頭部を固定し、さらに深く口づけた。
 呼気の合間に、
「練習したいから大人しくされるに任せてんのか?」
 と聞けば、一瞬目を泳がせた目の前の少年は頑是ない答えを返す。
「あんたがシてーっていうから」
「バスケの相手もしてもらわなきゃなんねーし? オレと付き合ってたら海南の練習にも参加できるし? だから、 躰、差し出すわけ?」
「……」
「じゃあ、聞くけど、きょう会った主将。あのひとがおまえにこんな真似してきたら、素直にさせんのかよ。あのひとも 練習の鬼だからイヤっつうほど相手してくれるぞ。体育会系執行部ドンのツルの一声で体育館も使い放題かもよ」
「……ねーよ」
「どうなんだ」
「……ねー」
「聞こえない。ちゃんとオレ見て答えろ、流川っ」



 分かんねーよ。
 そう呟いた唇を自分のそれで挟んでこじ開けて、中でうごめく濡れた舌を絡め取ると、耐えかねた ようなくぐもった声が仙道の喉奥に消えていった。抗う素振りで仙道の両肩に置かれた手は、口づけの深さに比例して 強く押し返され、流されるのを厭う瞳からはキリっとした光が失われることはなかった。
 無理強いによる征服欲ではない。抗うから欲情するのでもない。駆け引きのように躰を投げ出しながらも、 矜持を保とうとする強さ。それに触れてどうしようもなく愛しく思えた。
 オンナの子相手ではこうはいかない。どんな気丈な子でもどこかが媚びる。それは受動を取らざるを得ない性がそう させているんだろう。彼女たちに非はないけど、こういう煽り方もあるにはあるんだ。流川の無自覚な色香が怖ろしくも あり嬉しくもありだった。
「流川」
 それでも答えを欲してその名を呼ぶ。明確なものがなにも返ってこないと分かっていても執拗に彼は名を 呼び続け、止まれない熱情は躰を這う手となって辿り始めた。
 恐らく――だれもそんな明確な意思を持って触れたことのない雪肌に仙道は手を伸ばした。Tシャツの裾をくぐって 侵入した手を、流川はひとつ身を振るわせただけで受け入れる。
 新肌の質を確かめながら、角度を変えて触れるだけの口付けをもう一度。次は強く押し当て名残惜しげに離すと、 流川の熱い吐息が返ってきた。片方の手で頬をなぞり、差し入れたもう片方は男にしては細い腰を抱く。さっきより も密接した肌が、少しずつ湧き上がるものを伝えてきた。
「流川」
「分かんねーっつってるっ」
 戸惑いは瞬時に怒りに変わる。怒りはなにかが彼の中で芽生えた証拠だ。
 そう。
 厭でもなく嫌いでもなく、分からないということは、とてつもなく好きと同じなんじゃないか。不機嫌さと艶っぽさ とを交互にのぞかせる少年を腕に抱いて、仙道は爆発的に思い至った。
――なるほどね。
 間近にいる流川が訝るほど、満面の笑みを浮かべていたらしい。気持悪いと顔に大書していたその隙を縫って、 膝の上に少年をカーペットの上に押し倒した。またいつ唐突にスイッチが切り替わるか知れない。そうなる前に 別腹を満たしてしまいましょう。
 制止の言葉さえ与えず、そのままTシャツを剥ぎ取った。こんな場面での流川のディフェンスは、残念ながら穴だらけだ。 絶対的に経験値が足りない。睨もうが足蹴りを食らわそうが体勢的に不利だ。なによりも、無駄な抵抗は体力の消費に しか過ぎないと悟ったのか、実際にエネルギー切れを起こしたか、もしくは許容か。パタリと脱力してカーペットの上に 大の字という色気のなさ。
 もう、そんなもの気にもしないが。
「煮るなり焼くなり好きにしていいわけ?」
「ハラ減った」
「うん。オレも」
 だからおまえもオレでいっぱいにしてやろう、と仙道は晒された首筋にむしゃぶりついた。



 目を凝らさなければとおり過ぎてしまうような些細な事象からなにかが生まれる。やり過ごしても、背けようにもそこに 流川がいる。恋愛ってつくづく感動から生まれるんだと仙道は思った。感動は恋愛そのものだ。
 素直で高貴で孤高で無垢なものに触れてしまったら、惹かれずにはいられない。仙道が流川を欲する理由がそれなら、 流川の場合はさしずめ本能か。なし崩しを受け入れるタマでもないだろう。
 それでも手にしているオレンジ色のボールしか目にない少年にとって、その位置にいられる己を誇らしく思う。
「流川」
 裸の胸を舌先で辿ってバクバクと脈打つ心音を耳奥で聞いて、ブラインドから差し込む傾いた光の中で、抵抗と許容 とを繰り返す躰を拓いてゆく。時おり赤らんだ目元が射るような強さを見せ、目に痛いほどの真白い肢体とその視線とが 奇跡のようなコントラストを織り成し、そのさまは仙道をして戸惑わせた。
 出逢ってわずかひと月と少し。バスケを介して互いを知り、コートの中で恋に落ちた。酸いも甘いも苦いも経験を 積んで辿り着いた相手が同性だったとは、客観的に見てもソノ道を究めすぎだとしか言いようがない。
 ただ、趣味が合うとか、一緒に歩きたいとか、癒して欲しいとか、甘えたい相手を探していたんじゃないんだと、 いま、彼の躰の悦を導きながら、そう思う。抑えた声をさらに煽って愛おしく思う。互いの熱を互いの手で絡めとり 熱情を解き放ち、さらにその躰の最奥を、いまは諦めなければならない相手だとしても、いまは、いまは、 自分の欲を抑えることが出来る。
 子供だから。受験生だから。そんな高みから見下ろした大人ぶった分別でもいいと思う。
 男というのはとことんイマジネーションだけで悦を拾える生き物だ。男同士が躰をつなげるとき、なにも物理的に 無理な器官をこじ開ける必要もないだろう。確かに抱きあって互いを煽って見つめる瞳がある。襲いくる 歓喜と喜悦に耐えながらも、その悦を抑え切れないわずかな喘ぎが肉襞以上のもので仙道を包み込む。
「ん、ぁ――」
 呼気の乱れにも似たか細い喘ぎをひとつ放って、朱に染まった瞳を上げてきた少年は、仙道にとってそういう 相手だった。
 流川の躰が先に跳ね、それを追うかのように仙道も一気に駆け上がった。濃厚なものを互いの腹と両手で挟んで、 ふたりはそのままの体勢で呼吸が整うのに任せていた。
 惑乱に満ちたあとの沈黙はただただ気まずく、青臭い匂いと互いの躰の合間でぬめる残滓は不愉快でしか ない。気だるい躰を押して手近にあったスポーツタオルで名残をふき取り、まだ目を閉じたままの流川の瞼に口づけを 落とすと、イったばかりの躰は全身性感帯だ。それすら痛いほどの刺激なのだろう。身を震わせてその刺激を霧散させ ている。
 ここで本格的に口づけてしまえば、またぞろ、抑え切れない欲望が頭をもたげてくるに決まっている。慎重過ぎるほど、 頬にもうひとつ口づけて溺れきった躰を離そうとしたのに、あろうことか、重い腕をノロノロ上げて流川がすがりついて きた。
 というより、重い瞼をどうにかこうにかこじ開けて、やはり睨みつけている。
「怒った? ヨかった? 照れくさい? どっち?」
「……るせー」
「ハラいっぱいにはならなかったけど、とりあえず、別腹の飢えは凌げたかな」
 おまえは、と耳たぶを甘噛みすれば、ボソっと低い唸り声で部屋の空気を振るわせるような恫喝。こんな場面で言う 科白ではないだろう。いや、こんな場面だからか、確かに、ぶっコロスと聞き取れた。
「おまえなぁ」
「……れかに……んなこと、シたら……ぜってぇ……ぶっコロス」
「ホント、ヤキモチ妬くときだけはストレートだよな」
「ぶっコロス」
「はいはい」
 分かりました、と言い切った言葉も聞こえているのかいないのか。実際仙道の首を締めつけてやりたかったのか、 流川の力はどうも渾身だ。殺意すら感じる。けれど、それは間違いなく仙道が希んでいた確かなもののひとつなのだ。
「ひとつ約束しよう。練習、つき合ってやるよ。けど『テロメア』にいたときと同じ条件でだ」
「なに?」
「仕事の代わりに勉強が一番。バスケの相手は二の次。おまえを堂々と受験会場へ向わせてやる」
「げっ」
「イチオウ受験生だろ」
「そんな必要ねーのに」
「これで公立、落ちたら目も当てらんないからな」
 流川の両親が一般的な受験生の親と同様に、愛息の生活全般において気を張詰めているかどうかは随分怪しいのだが ――事情があったとはいえ大事な夏休みにアルバイトに出すくらいだから――仙道なりのけじめというか贖罪というか。 そんな関わり方もしていきたいじゃないか。
 流川の場合、放っておいたらバスケバスケバスケ三昧の付き合いになりそうだから。
「そういうことで、試合のあと、基本的に大学の練習は月曜日が休みだから、日曜の夕方がいいかな。練習するなら 勉強道具一式持ってこい。校内なら図書室もあるし、体育館の使用許可、下りたらラッキだけど、無理なら近くの公園な」
「分かった」
「お礼は?」
「……キュ」
「よしよし。分かったらちょっと離せ。抱きついてくれんのは嬉しいけど、苦しいって、腕、少し緩めろよ」
「……」
「流川?」
 なるほど。先ほどの喩えは訂正だ。
 コート、ベッド、コートだけの関係になりそうの間違いだ、と仙道は笑った。
 どうやら締め殺さんばかりにしがみ付いていたのは、一度放ってもなお払いきれない自分の窮状を隠したかったからの ようだが、残念ながら肌を合わせることによって兆しはさらにはっきりとその存在を示すようになる。逆効果だという ことも分からないらしい。
 その点において忍耐力があるのは自分の方。しばらく放置してやってもいいけど、切欠を与えるつもりで仙道は、 自分の首を絞めている流川の二の腕に舌を這わせた。
「答え、探せ。いいな、流川」
「……」
「分かんねーなんて、いつまでもズル言ってんじゃないぞ」
「……せん……」
「そんな声出しても聞かねぇから。流川、ちょっと離せって」
「ヤだ」
「流川」
「も、一回、スる」
 案外簡単に言ってのけ、欲しかった言葉のひとつを引き出せた仙道は、呼気をも奪わんばかりの激しさで舌から先に 捻じ込んだ。臆するなんて言葉、流川の辞書にはない。同じように挑みかかり、総てを絡め合って一度収まって。 キレイに洗い流そうなんて後から考えたらいい訳でしかないように浴室でももつれ合う。クッション性のあるタイル だといっても、背中だの肘だのを打ち付けて、さすりながら出てきたときには、マンツーするよりも精も槐も尽き果て たふたりだった。



 流川母が帰って来たのは、リビングで背中合わせに足を投げ出し、ペットボトルのサプリ飲料を回し飲みし、ひと息 ついていたときで、
「あら、仙道くん。遊びに来てくれたのね」
 なんて、本当に嬉しそうに再会を喜ぶ佳人に少しうろたえた仙道に対して、流川の「相手、してもらってた」とは、 確かにウソも間違いも隠し事もない。
「出てったのお昼前でしょ。こんな時間まで仙道くんを引きずり回すんじゃない」
 こんな時間と聞いて時計を見上げればとうに八時は過ぎていた。この家の帰って来たのはたぶん六時ごろ。二時間も くんずほぐれずのマッチアップしていたなんて、互いの体力と執着にさすがの仙道のしたり顔も崩れるというものだ。
「ごめんね。藤沢に帰って来てまでもそんなワガママ言ってるのね、この子」
「いや、その――」
「楓。お客さまに対してサプリだけってどういうことよ」
「先に飲みもん」
「お茶請けくらい出しなさい。気が利かないったら」
 空腹よりもヒリつくような喉の渇き。最初っから飛ばしすぎたから、そっちの方が急務だったんです、なんて告げた ところで、いくらカンの鋭い母親族でも真実には届かない。たぶんものすごく同情されるだろうから黙っていること にしたが、恬淡と事実を告げる流川の胆力――厚顔かも知れない――は困りものだ。
 問われないから答えない。流川母の躾の賜物か、ウソや取り繕いを知らない天下無双の正直者は、いまだってツルっと 喋ってしまいそうなほどスリリングだ。
「遠慮しないで。なにかつくるわ。お腹はすいてないかしら。楓。あんた、用意してた晩ご飯食べてないじゃない。まさか、仙道くんに 奢ってもらったんじゃないでしょうね?」
 こんな時間まで補給ナシで食欲魔人の息子が機能していられるはずがない。その懸念は的を射ているが、リビングと キッチンと冷蔵庫を忙しなく行き来していた流川母が手と足を止め、次に出た言葉に仙道は凍りついた。
「あら、洗濯機、回してくれてるの?」
 リビングに続くサニタリースペースで、もの静かに運動している家電に主婦はさすがに気づいたようで、仙道はどっと 冷や汗をかいた。汗を吸った練習着や汗以外のものも吸ったタオルなど、証拠隠滅とばかりの行為はやぶ蛇でしか ない。この不精もんが率先してそんな気を回すはずがないからだ。
 けれど、ここでも天は仙道に味方した。というよりも、だれもそこまで深読みはしない。
「助かるわ。この子ったら何度言っても洗濯ものをドラムバッグから出そうとしないのよ。あまりハラがたつからそのまま 放っておいたら、昨日着たのを確かめないで持って行こうとするし。慌てるやら呆れるやらで」
「らしいですね」
「汚れものは洗濯機に放り込みなさいって、幼稚園児でもないのに何回言ったか。こんなバカでも仙道くんの言葉なら お利口に聞くのね」
「そんなこたーないと思うんですけど……」
「『テロメア』でもお勉強を見てくれたのは仙道くんだったって言うし。二学期最初の実力ね。少し上向きだったのよ」
「へぇ、そうだったんですか。流川はなんにも言わないから」
「楓っ。仙道くんにちゃんとお礼言わなきゃダメでしょ」
 お叱りを喰らっても当の流川は仙道の背中に思い切りもたれて、首がカクリと落ちている。どうやら空腹よりも疲労と 眠気の方が勝っていたようだ。もうすでに爆睡体勢。そんな息子の様子に目を細めた流川母は、仙道と自分の分 のコーヒーをテーブルの上に置いた。
「ほんと珍しい。この子がこんなにだれかに懐くなんて」
 背中の重みと温もりを感じて仙道はただ頷いた。
「かなり扱い辛いでしょ。バスケに魂捧げちゃって、だれかと仲良くなるなんてこと出来なかったから。それだけに、 一度懐いたら相当重たいことになるんじゃないかと思うのよ。友達慣れもしてなければ、喧嘩慣れもしてない。あ、これは 殴り合いじゃなくって精神的な方ね。上手くひととの距離を取れないから」
「確かに簡単じゃないです」
「そうよね。親のあたしがこんなこと言うのもおかしな話なんだけど、負担だったらそう言ってやってね。甘やかせたら だめよ。それがふつうだと思っちゃうから」
 心得ましたと、胸に手を置いて、夜食の用意をと引き止める流川母の申し出を丁寧に断って、仙道は流川家を辞した。 仙道が立ち上がると支えを失ってリビングに転がった躰をそのままにして、背中のつっかえは取れたけれど、 その分夜気が弄って少し薄ら寒い。
 流川も同じように感じてくれているとしたら、それは重荷でもなんでもないだろう。彼になにかを強いるとしたら、 それは自分の方で、だからお互いさまでよかったと、仙道はすっかり暮れなずんだ街を足早にとおり過ぎて行った。






end





え〜っと。弾けるとか言っておきながら、まどろっこしい手順を踏むのが大好き なんでぇっす。(開き直り)しばらくふたりは、こんな感じで進むんだと思います。ハイ。