box and one その時、三井の中にほとんど失われかけていたはずの激情が、獰猛な鎌首をもたげてしまったのがいけ なかったのかもしれない。 或いは、意思の疎通が不得手な者同士を揶揄するようなささやかな運命が、最悪のタイミングで二人の 上空に舞い降りてきたのが悪かったのかもしれない。 中学MVPシューター三井寿は、そんなことを考えながら、意識を失墜したスーパールーキーの端整な顔を、 半ば絶望的な気分で見下ろした。 事の発端は、クラブ中に起こったたわいもない口論だった。 寡黙で無愛想なルーキーは、いつもの通り華麗なワンマンショーを披露して、鉄扉の外から見守る女生徒 たちの歓声と感嘆の吐息とを一身に受けていたが、日頃は意にも介さないそれらが、その時たまたま虫の 居所の悪かった三井の集中力を、腹立たしいほどに散漫させた。 折しも、その個人技に走りやすい独走プレーが、三井の神経をちくちくと刺激していた頃でもあった。 ただでさえ短い三井の導火線にあっという間に火がつき、単純王の異名をとる桜木花道が切れる以前に、 三井が切れた。 「てめぇ、何様だと思ってやがるのかは知らねぇが、いい加減にしろよ」 胸倉を締め上げる三井の怒りにも、無表情のルーキーは凍てついた一瞥をくれただけだった。 くだらねぇ。そう言いたげな顔をすると、三井の手を振り払い、くるりと背を向けた。 「てめぇ…っ」 不満の捌け口を造作もなくかわされた怒りが、三井の苛立ちに油を注いだ。だが、拳を固めた矢先、 二人の間に割って入った者がいた。木暮だった。 「もうよせよ、三井。お前ちょっと苛々してるんだ。流川も。な?こんなことで出場停止なんて冗談じゃ ないだろ?」 メガネの奥の誠実な瞳に優しくそういい聞かされると、さすがの三井も黙らないわけにはいかなかった。 木暮には、それに全て報いきれないほどの借りがある。 渋々拳を下ろすと、諫められたはずのもう一方は、何事もなかったかのような顔でボールを追いかけていた。 ──なんて生意気な奴だ。 三井は、疼くような憤りをかろうじて噛み殺し、力一杯バックボードにボールを叩きつけた。 三井の憤懣が運悪く再発したのは、ロッカールームで流川と二人きりになってしまったからだ。 部活の時間はとうに過ぎており、三井は慌てて着替えをすませにロッカールームの扉を開けた。 すると、流川がちょうど汗を吸い込んだシャツを脱ぎ捨て、ショートパンツ一枚の姿で立っているとこ ろだった。彼は、タオルの下から三井をちらりと見ただけで、依然として無関心な顔をしていた。 (こいつ…) 排他的なその眼が、いつも三井の気に食わなかった。俺はバスケット以外、誰にも何にも興味がねぇ。 道を踏み誤っていた頃の三井とはまた別の意味で、壊れているように思えた。 直接的な原因があってそうなのではなく、流川自身の一見高慢にしか見えない性情がその要因であろうし、 或いは、誰にも知られていないだけで、過去に彼を排他主義にした何らかの出来事があったのかもしれない。 いずれにせよ、三井から見れば流川の無関心はたちが悪かった。一人で生まれ出でて、一人で育って、 一人でバスケットをしているような、その一人前面が何とも耐え難かった。 「お前のワンマンプレーで、湘北がいつまでも勝ち続けられると思ったら大きな間違いだぞ」 いらついた指先でシャツを脱ぎ捨てると、三井は学ランの襟元を合わす流川に向かってそう言い放った。 どうせ無視を決め込むつもりだろうと思っていたが、意外にも流川はそうしなかった。誰も、見ている者 も止める者もいないからと踏んだからかもしれない。 前のボタンを全て留め終わるなり、流川は振り向いて、乾いた声で言った。 「二年間もバスケット捨てて平気でいられた奴なんかに言われたくないね」 「…何」 己の恥部を暴き立てられ、三井は即座に反応した。流川の眼が、相変わらず無機質な光を放って三井を 見据える。 三井はその時初めて、この眼前の男を心底憎いと思った。 あとは、口先などで決着のつくはずがない。上になったり下になったりして、これでもかと互いの肉体を 痛めつけた。周囲の備品に被害が及ぼうが、握り締めた拳に鮮血が滲もうが、そんなことはお構いなしだった。 三井は、この生意気な一年坊主を叩きのめすのに決して手加減などしなかったし、流川はもとより、 先輩を理由に力加減を斟酌するような相手ではなかった。 互いの顔に無惨な痕跡が目立つほどになっても、三井と流川は肩で息をしながら、まだなお相手を睨み据え た。負けず嫌いという点では、どちらも決してその座を譲らなかった。 やがて再び、三井のほうから流川に躍りかかっていった。流川は拳を払おうとして、わずかにバランスを 崩した。 充分な持久力のない肉体は疲労の翳を隠しきれない。──それがいけなかった。 三井の鉄拳が、音を立てて流川の左頬にヒットした。流川はそれをよけきれず、後ろにしていたロッカー の扉に、弱っている体を叩きつけられた。 鈍い音が、人けのないロッカールームに響いた。三井は思わず動きを止めた。 「流川…!」 しまった、と思った時には後の祭りだった。流川は金属製の扉に頭をしたたかに打ちつけ、力なく床に 倒れこんだ。 三井は慌てて駆け寄り、流川を抱き起こした。 「おい、起きろ流川…!」 青白い頬に、軽く二三度刺激を与えてみたが駄目だった。まさか、死ぬことはないだろう。脳震盪でも起こ したに違いない。 (冗談じゃねぇ) いくら憎体な奴でも、にわかに後悔の念が湧き起こってきた。 三井は、意識を失墜した流川を横にして、後頭部にタオルをあてがった。それから、体育館の脇の蛇口 をひねって、水気を含ませたタオルをもう一つ、今度は流川の額に載せた。 そうして三井本人は、弱った喧嘩相手をこのまま放って帰るに忍びず、イスに逆向きに腰かけて、眠って いる流川の顔を、さっきからずっと見下ろしているのだった。 (やり過ぎたな) 自分の行為を反省してみて、さすがに三井はそう思った。 相手は、曲がりなりにも入学したての一年生である。三年の自分が、一年相手に逆上するのも考えてみれば 大人げない話ではあるし(リョータに逆上した経歴があることを、この時三井は綺麗さっぱり忘れ去っていた)、 ましてや二度と喧嘩はしないと誓った自分が、その舌の根も乾かぬうちにチームメイトを伸したとあっては、 安西先生に合わせる顔がない。 (…でも先生、はっきり言ってこいつも悪いんすよ) 三井は、心の中で安西先生に弁明した。 流川も、悪い。取り立てて流川に何かされたわけではないから、三井が一方的に苛立ち、ほとんど八つ当たり 気味に流川に喧嘩をふっかけたように見えないでもないが(ほとんどその観が強いが)、しかし流川のほうに だって非はある。 あの高慢さだ。自分の才能だけを恃み、周囲の人間との関わりなど一切興味はないと言いたげな眼差し。 我関せず主義ならまだ可愛げがある。我関せずどころか、我人に関せられずといった挙動が、一挙手一投足 三井の鼻についてしまうのだ。 (こいつは自分が壊れてんじゃねぇかって、自覚がないんだな、きっと) 壊れている──少なくとも三井の目には、そう見える。 三井は自分がぐれていたことがあるせいか、本当に壊れている奴と壊れられない奴──壊れたい願望は この上なく強いくせに壊れる勇気の持てない奴──というのは、一目見ただけでわかる。不良の大半は、 後者に多い。現に三井自身もそうだった。 本当はバスケットがやりたくてたまらないくせに、片意地を張ってバスケットを捨てた。いや──捨てる ふりをした。下らないプライドを振りかざして、敗者特有の防御線を張って、そこから中に立ち入ろうと する者は誰であれ力で捻じ伏せた。 その中でも、抜きん出て醜悪なやり口が、バスケ部破壊だ。三井は、あれを思い出すたび、底知れぬ自己 嫌悪の泥沼に陥る。 結局は、安西先生の傍でバスケットがしたかった。どんなに口汚くバスケ部を罵ろうとも、いつだって 帰りたかった。 後者の不良の大半は、帰りたい場所に帰れないアウトロー、或いは帰る場所が見つからない放浪者なの だと思う。 だが流川は、そんなレベルで測れる種類の人間ではない。自分の意思で壊れてしまった奴とも違う。 自分の中の崩壊に、きっとまだ気づいていないのだ。 クールだとか寡黙だとか、一見聞こえのいい言葉では流川の内面は測れない。あの天才的なプレーにだけ 目を奪われるような輩に限って、きっと今まで流川の内面をなおざりにしてきたのだろう。 そんな表層に捕らわれることなく、本当の流川自身を真正面から見据えることのできる人間が、きっと 必要なはずなのだ。 しかし、たとえそんな人間が現われたとしても、流川が相手を許容するということはほとんど考えられない。 「てめぇには関係ねぇ」と、あの氷のような一瞥を食らえば、たいていの人間は意気消沈してしまう。 だから三井は、流川は壊れている、と思うのだ。 バスケット以外大事なものを作ろうとしないあの排他主義に、疑問の余地さえ感じていない流川だからこそ、 自分の内の崩壊に気づかない、最も痛ましい壊れ方だと思うのだ。 (俺も、放っときゃいいのによ) 本当は、流川が壊れていようといまいと、三井が傍らでやきもきする必要は全くない。そんなお節介は、 流川のほうで願い下げのはずである。 そうはわかっているのだが。 (気になるんだよな) この超へヴィー級の生意気なガキが。自分も存外のお人好しかもしれない。そう思って、三井は思わず苦笑 した。 「…何ヘラヘラ笑ってやがる」 「流川。目ぇ覚めたか」 フローリングの床から、不機嫌な顔つきで流川は体を起こした。まだ、頭の芯が痺れるような感覚と、 後頭部をうちつけた時の痛みが著しい。 思わず、学ランの袖口で頭を覆い俯いた流川を見て、三井は呆れたように言った。 「脳震盪起こしてんだろう。急に起き上がるバカがいるか」 「うるせぇ。てめぇがやったくせに何言ってやがる」 三井は、言葉に詰まって黙り込んだ。そのとおりだ、と進んで肯定しないまでも、その顔には幾分後悔 の色が見て取れる。 流川は、そんな三井を眉を顰めて見つめると、大きな吐息を吐き出した。 「…血」 「あ?」 「血だよ、てめぇの顔鏡で見てみやがれ」 三井は、言われるままにイスから立ち上がり、ロッカーの脇の壁に取り付けてある長方形の鏡を覗いてみた。 ──確かに、凄い。顔面スプラッタとは、決して言い過ぎではない。 唇は切れているし、鼻血の跡は無惨だし、何しろ顔のそこかしこに、当分の間は消えてくれそうにもない 青痣が散らばっている。 「冗談じゃねぇぞ。せっかくの二枚目をどうしてくれる」 「…てめぇはナルシストか」 三井が絶叫した横で、流川が痛烈な一言を放った。三井の顔が、機械人形のような動きで流川を振り返った。 「貴様、それが先輩に対して言う言葉か」 「先輩だと思って欲しけりゃ、先輩らしいことしやがれ」 「流川、てめぇ」 三井の眉が、たちまちきりきりと吊り上がり、すまし顔の流川に向けて拳を振り上げた。流川は、まだ やるかと言いたげな顔で応じたが、その時、ふっと口許を緩め、三井は拳を下ろした。 「お前の顔も負けてねぇぞ」 女生徒たちの憧憬の的であるはずの端整な容貌は、哀れなくらいその白い膚に瘡痕を刷き、思わず目を 背けたくなるような面相と化していた。それでも流川は、「ふん」と鼻を鳴らして、憎体な科白を吐き続ける。 「顔の造りが違う」 「さてはてめぇがナルシスだな!?」 流川は、タオルを握りようやく立ち上がった。ズボンについた埃を軽く指で払い落とすと、嵐の過ぎ去った 後の被害状況を見渡す。 机は端に押しやられ、ゴミ箱は中身が散乱していた。ハンガーも方々に飛び散り、気のせいでなければ 窓ガラスにはひびが入っている。二本並んだ蛍光灯も、何かがぶつかったものか片方割れて、破片が床に 散らばっている状態だ。 その悲惨な状況下でも、とりわけ哀れなのはロッカーだった。特に、流川が頭をぶつけたロッカーの扉は、 見てそれとわかるくらいに陥没していた。 さしもの流川も、困惑気味にそれを見つめている。 「こりゃ、まじーよな。どうする、流川。赤木に何て言い訳するか」 三井が、流川の横顔を覗き込んでそう言った。明日になって主将赤木が知れば、烈火のごとく怒るのは 必至である。そして、安西先生には当分の間出場停止勧告を受け──。 やべぇ。三井は、心の中で呟いた。絶対にそれだけは避けなくてはならない。 「流川、こうなりゃ一蓮托生だぞ。わかってんだろうな」 「…なんだ」 三井の言うことを聞いているのかいないのか、今まで押し黙っていた流川が、ふと小さな呟きを漏らした。 彼の指先は、そうっと金属扉の湾曲した表面をなぞっている。 三井はその刹那、呼吸を止めた。 「このロッカー、あのどあほうのか」 ──流川はそう言って、かすかに笑ったのだった。 微笑、いかにも微笑と言った表現が似つかわしい。笑顔というほど晴れやかではなく、かと言って陰に 篭もった嘲笑ともまったく違う。 それとわかるかわからないかくらいの──けれど、思わず三井の視線を釘づけにするような──そんな 柔らかな微笑だった。 「…流川」 三井は息を呑んで、茫然と流川を見つめていた。幻覚、ではなかろうか。そうでなければ、自分はきっと たちの悪い夢でも見ているのだ。 三井は独りジレンマに陥った。どんなに考えても、この現実を否定する材料は見つからない。もしこの場に 相田彦一がいたなら、すかさず「アンビリーバブルや」と叫んだに違いない。 「…おい、何ぼさっとしてんだ」 流川の声が、三井を現実に引き戻した。流川はいつもの無愛想な顔に戻っており、左肩にリュック型の鞄 をかけていた。 「何をする気だ」 ふてぶてしいまでの流川の落ち着きようから、三井は不吉な予感を覚えた。案の定、彼はさっさとロッカー ルームの扉を開けると、肩越しに三井を振り返って言った。 「決まってんじゃねぇか。…ずらかる」 「そんなことできるか」 三井は思わず叫んだ。しかし、流川は無慈悲だった。「じゃ、好きにしな」と言い捨てるなり、学ランの 背中を向けて、扉の向こうに一人消え去った。 運命共同体の片割れに逃げられ、取り残された三井は、痛みにひきつる頬を押さえた。 (何つーガキだ) 生意気な。再び、苛立ちが込み上げてくる。あのえらそうな口が利けなくなるくらい、もう少し殴って やれば良かったかもしれない。 そんな物騒なことを考える三井は、自分のほうから喧嘩をふっかけたことなど、とうの昔に忘れ去っている らしい。 「桜木花道…か」 被害の痕跡の著しい、最左端のロッカーを見つめ、三井は呟いた。金属扉のプレートには、殴り書きで そう書いてある。 あの赤い髪の、能天気な男の顔が刹那頭をかすめて消えた。そのすぐ後に、流川の垣間見せた微笑が、 なぜだか妙にしおらしくよみがえる。 「俺の考え違いかな」 流川の破壊を支えているのは、案外近い奴かもしれない。彼らは種類こそ違うが、等しくある種の引力を 持っている。そして、周りを惹きつけるだけでなく、おそらくそれ以上の強い力で、彼らはきっと、プラスと マイナスの両極で引き合っている。 「よし、俺もずらかるか」 三井は、自分のロッカーから鞄を取り出すと、その中にバッシュとシャツを放り込んで、扉を閉めた。 そうして、割れた蛍光灯を気にしながら、入口にあるスイッチに手を伸ばす。 荒れ放題のロッカールームは、月明かりを招じて、へこんだ扉の表面に白光を映していた。それを最後に 見つめ、三井はふと心の中でごちた。 (泥棒が入ったじゃ…ごまかせねぇかなやっぱり) 赤木の憤怒の形相を思い浮かべて、肩を竦めながら、三井は薄暗い廊下を歩いて行った。
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