孔明先生のお宿下がり







 恩師の水鏡先生が、新しい書物を手に入れたと知らせを寄こしてきた。月氏の学僧が 記した教典が手に入ったから帰ってこないかと。
 好々爺がさらに相好を崩して使いの者に伝えている様が手に取るようだと、諸葛亮は 苦笑しきり。
 あの心配性の恩師は、単身で負けが込んでいる猛者軍団へ仕官して行った愛弟子の様 子が気になって仕方がないようで、何かにつけて取ってつけたような用事で呼びつけよ うとする。さながら借金がかさんでいる嫁ぎ先へやった娘を労わるように。
 やれ、梅の花がいつになく綺麗に咲いただの、徳操庵での講義に客演しろだの、 ぎっくり腰を患って動けないだの、襄陽の荊州牧が会いたがっているだのと、明晰な頭脳を そのような瑣末事に費やさないで、襄陽や新野の民事にでも役立てて貰いたいものだと脱力 していた矢先だった。
 暇がないからと毎回ニベもなく断っていたが、超過労働の甲斐あって、新野の実情も 把握できた頃。実際休みなしで働き詰めだったのだから、久しぶりに帰ってはどうかと、 主公自ら提言してきた。
「水鏡先生は意外とお若いよな?」
「ええ。鬢も髯も真っ白ですから年よりも老けて見えますけれど」
「うん。お説も理路整然とされていて、聞く者を圧倒するだけの技量と、惹きつけるお 人柄が素晴らしい方だった。私塾で後進を育てるという仕事は瞑目に値するが、野に放 っておくには惜しい。惜し過ぎる」
「はぁ。ですが今更住み慣れた襄陽を離れ気はないでしょう。その辺りは実に頑固で」
「さすが孔明を育てただけのことはある」
「主公」
「ふむ。しかし、いかにもお前が心配という風情ではないか」
「それは総て私の不徳の致すところでございましょう」
「いや、そうではないぞ、孔明。うん。ちょうどいい。そんなにご心配ならご一緒しま しょうと、引っ張って来てはどうだ? 徐庶のように曹操に攫われでもしたら荊州全体の 損失だ。先手を打った方がいい。老師もこれで帰省させる口実に悩まないで済むし、お前 も毎回断り文句を考える無駄もなくなる。何よりも仕事も楽になるぞ。儂も話し相手が欲 しいし」
 最後の件が本音だろう。実に名案と嬉しそうだ。
「人手不足ですからね、うちは」
「慢性的且つ深刻だ。やはり新興勢力は辛いの」
「貧乏所帯ですしね」
「……またはっきりと。まぁうちもそれだけ切羽詰っているということだ。よおく理解 するように」
 にこやかに手を振って送り出す主公に、余り期待はなさらないで下さいと言い残して 彼は出掛けた。



 当然、劉備軍の軍師という役職柄、一人で帰してはくれない。昔のような気軽な旅を 味わえるかなという淡い期待も、当たり前のように打ち破られた。たかだか新野から襄 陽までの往復なのにとも思ったが、やっぱり彼はついて来た。
 優秀な主騎が。
 ぶっきら棒な天敵が。
 主公、劉備はどちらかと言えば直情的な部分を隠そうともしないから、諸葛亮の目新 しい資質を前に諸手を挙げて異例の厚遇で迎えてくれた。それに古参の将たちが反発を 見せるのは必至で、張飛などが一直線に食ってかかって来ることは予想できたのだが、 彼、趙雲の態度はどう対処してよいのか分からないくらい醒めていた。
 無視する訳でもなく、言葉尻を捕らえようとする訳でもなく、そう、観察するような 視線。諸葛亮が劉備軍にとって本当に必要な軍師なのか見極めようとする冷淡さを唯一 持っていた将軍だったと言える。
 いまも、どこか居心地の悪い視線と共に馬首を並べての道行きだ。精神的な静養になり ゃしない。
「司馬徽師の庵にお邪魔したあと、隆中の我が家へ行って宜しいでしょうか?」
「ご随意に」
 速断だ。イヤならついて来るなよな、との視線を送ったが届きはしない。癪だから馬 腹を蹴って速度を上げた。趙雲よりもかなり先行する。当たり前のように敵も追いつき、 その繰り返しで、襄陽に到着する頃には息も絶え絶えだった。
 涼しい顔の趙雲がニヤリと哂う。
「余りご無理をなさらないように」
「……」
 早駆けで俺に勝てるとでも思っているのか、とはっきり顔に書いてある。諸葛亮は手綱 を趙雲に差し出すと、クルリと踵を返して歩き出した。
 襄陽市内の市場はきょうも賑わっている。野菜や果物も豊富で、それを煮たり焼いたり するいい香りも漂ってきた。長らく戦禍に塗れることがなかったこの街は、大陸でも類を みないほどの別天地だった。柔らかな桃の香りに惹かれてお土産にと買い求め、老師の待つ 庵へと向った。



 ほんの少し前まで月に何度もとおった道。司馬徽師の話が聞きたかったり、また 新しい書物を見せてもらったり、そして塾生たちと談義を交わしたりと、穏やかな日常の 普遍的な日々だった。
 私塾に学び論争だけに明け暮れる碩学の徒を、武将たちは机上の空論を弄ぶと嫌う。 昔の書物に精通し批判だけは一人前。なのに仕官しようとはせず、己の身の安泰だけを 願うのかと。
 諸葛亮とて立派にそのうちの一人だった。
 日常生活の延長線上にある幸せだけを願えればいい。天下万民のためよりも己の手にうつる 者の生活を守ることこそ本懐なのではないか。そのために知力は惜しまない。
 人には帰巣本能がある。その土壌の大きさは千差万別で、巨大に抱え込んだからといって、 それに見合うだけの人々を救えるとは限らない。
 その最たる具現者が、いま彼らの目の前で相好を崩して迎えてくれた恩師だった。
「やっと帰ってきたか、諸葛亮よ。うむ。案じていたよりも健やかそうじゃ」
「ご無沙汰しております。老師のおかれましてもご健勝の様子。お喜び申しあげます」
「堅苦しい挨拶も板についてきたの」
「この口先一つで生きて参りましたから」
 くしゃりと笑われ肩を叩かれて稚気が戻る唯一の場所だ。相当嬉しそうな顔をしていたの だろう。趙雲の口の端がツイと持ち上げられた。
「ふむ。こちらは?」
「はい。今回私の護衛にと来て頂いた趙雲将軍です」
「ほう――見覚えがあるな」
「そうなんですか?」
 束の間、趙雲が嫌そうに顔を歪めたのを見逃す諸葛亮ではない。
「主公のお供でおいでになりましたか?」
「おお。そうじゃ。檀渓での折りの武人じゃな」
「だんけい?」
 ピキンと趙雲のこめかみの血管が浮き上がった。にんまりと哂う諸葛亮に睨みを入れる が後の祭りだった。
「で、老師。何があったんですか?」
「司馬徽師」
 趙雲は麻袋に入れていた桃をどさりと老師の手に渡すと、諸葛亮から庇うように 肩を支えて庵へと方向を変えた。
「襄陽市内で買い求めた桃です。早速洗って食しましょう」
「ちょっと待ってください。何があったんですか? 教えてくださいよぉ」
 二人の後を追う彼の足取りも軽い。忌々しそうな趙雲の背中に向って更に声を高める 諸葛亮だった。



「そうか。劉備どのがな」
 炉の中でバチンと火が爆ぜた。寒くもないが老師はそれに手をかざすような仕草をする。  節立って荒れた指は竹簡だけでなく鋤や鍬も持つ者の手だ。こんな手でいようと、そう 思ったときもあった。
「老師の身を案じておいでです。私とご一緒して頂く訳には参りませんか?」
「危険なのは何処にいても同じこと。逆に大志を掲げて出仕していったお前を止めれば よかったかと思うている。万民のための学問をとお前たちを導き、しかしそれがそれぞれ にとっての幸せに繋がるのかと、いまは訝る儂がいる。孟建しかり、徐庶しかりじゃ。 詮ないと分かりつつもな」
 小さく揺らめく炎の先に見る老人の顔は、いつもより一層小さく見えた。
 神妙な顔つきなのは趙雲も同じだった。
「諸葛亮よ」
「はい」
「お前はいま幸せだろうか」
「分かりません」
「怒涛の流れに身を任せて、お前のことだから我が身を振り返ることもなくまい進する であろう。だが、ときに踏みとどまって己を見よ。人としての目を持って見開け。さすれば 道を外れることはないだろう。それだけが、老いてゆく儂の望みじゃ」



「説得どころの話じゃなかったですね」
「逆に諭されましたからな」
「あんな話を以前主公は老師となされたのかな? 『だんけい』とやらで」
 深く頭を垂れて徳操庵を後にし、隆中までの道すがら、ポツポツと二人は語り出した。
「しつこいですね。あなたも」
「たまには趙雲どのの狼狽える姿を見てみたいじゃないですか。こんな機会滅多とないん だから」
「人を危険の陥れる失敗など何度もしてきていますよ」
「それはもっと若かった頃でしょう?」
 並んで歩いていた趙雲がピタリと足を止めた。つられて諸葛亮が視線を上げる。 趙雲はそれには合せずに前を向いたままだった。
「いまも、そしてこれからもきっと間違えますよ、俺は」
 趙雲は両手をグッと握り締めた。固く閉じられたそれを見つめる。
「もう少し敵の動きに早く気づいていれば、隣にいた兵は助かったかも知れない。もう少し 戻るのが早かったら一人でも多くの味方を救えたかも知れない。もう少し踏ん張って いればあのときの敵を退けられたかも知れない。味方からどう賞賛されようが、敵から どう畏れられようが、戦場にいてはいつも悔恨と懺悔の一言に尽きる。そんな程度の男ですよ」
 絞るような声に誘われて、きつく握り締めていた趙雲の指を一つ一つ丁寧に解していった。 血の気が引くほど白んでいたそこに赤みと温かみが戻る。趙雲の手を取って、端から見れば 気取られるような仕草だろうが、そうせずにはいられなかった。
 朧な視線を上げて趙雲は諸葛亮を見つめた。傷ついている訳ではないだろうが、様々な 思いを背負っている男の顔だった。
「よい将とは、被害が百のところを九十九で抑えられる者のことを言うのではない でしょうか。そして軍師とはそれを何とか九十八にしようと画策する。その程度のこと なのでしょうね、きっと」
 趙雲の両の掌は愛槍だけを握ってきた訳ではない。その剣技で強さだけを誇ってきた 訳でもなかった。いまはもう固くなった肉刺の一つ一つを確かめるようにゆっくりと撫でた。
「こそばい」
「戦場において危機とか痛みとかの嗅覚が失われたらもう武将とは呼べないでしょう。 この手を持つあなたを誇りに思います」
 諸葛亮の頭上にふんわりとした笑みが落とされたと思った。それを確かめるのもいいかも 知れない。だが、趙雲の手を握り締めたまま、彼はニヤリと口の端を上げた。
「で、『だんけい』で何があったんですか?」
 心底嫌そうな顔をして趙雲はその手を払いのけた。
「チッ。話を逸らせたと思ったのに」
「甘いですよ、趙雲どの。で、一体どんな失策をやらかしたんですか?」
「喧しい」
「教えてくださいよ。揶揄いませんから」
「ご自宅へ向うのでしょう。早くしないと日が暮れる」
 くるりと踵を返して趙雲はスタスタと歩き出した。その背を追いかける諸葛亮の足取りも軽い。
 何れ来る戦乱の予感を孕みながらも、いまは長閑な、そんな一日。


――了






お友達の那岐ちんのお誕生日に押し付けました。
趙孔がって言ったよね。これって趙孔よね?(確認 してしまう辺りが…)
けど、もうちょっとマシなラブラブ書けないのだろうか、あたしは。(もう諦めてね ♪)
刹那くって胸が締め付けられるようなお話は那岐ちんのサイトで読まれるのが宜しいかと(オホホ)
那岐ちんお誕生日おめでとう!