先まで凪いでいた風がその方向を変えたか、と諸葛亮は手にしていた竹簡から視線を上げた。 建安十三年。厳冬を偲ばせる夏口の陣屋。 先までのむせび啼くような低い唸りはなりをひそめ、穏やかに川面を渡りきたその行方を思いやって、諸葛亮は あるかなしかの笑みを零した。 先触れがその来訪を知らせてきたのはそのすぐ後だった。 劉備は執務室として使われている一室で胡床を蹴飛ばせて立ち上がり、傍らの諸葛亮にやんわりと諌められた。 独自の情報収集能力と先回りできる分析力で、人より先に怯えや苛立ちや驚きを昇華させてしまっているこの男は、涼やかな 余裕の笑みを主へと送った。 長江が滔々と流れる音すら聞こえてきそうな静寂の中、 「まず主公には更衣を整えられて、上賓の礼で迎えられることをお願いいたします。諸将と主だった文官を一同に会して下さい。 しかる後に東呉の使者どのと会見して頂きます。孫乾どのは江夏の劉gさまに伝令を。心積もりのご用意をとお伝え下さい。 会談の内容如何によっては、終日の後に陣払いを余儀なくされるやも知れません。将軍たちにはその手はずも怠りなくと」 小面憎いほど恬淡と根回しを告げる若き軍師に、劉備は寄せる全幅の信頼に間違いはなかったと首肯した。 諸葛亮にすれば幾度となく反芻し、巧緻に計算しつくした手配の実行。今更躊躇う暇も、余裕もなかった。 さやと衣ずれの音を落として陣屋を出て行こうとする諸葛亮に、劉備の質が飛んだ。 「軍師自らお出迎えか」 それにはクスリと一つ笑みを零して彼は告げた。 「それも趣向としては面白ろうございますが、皆さまが会させたのち、わたくしには一番最後にお召しくださるよう、 お願い申し上げます」 そういい残して彼は立ち去った。 魯粛は揚州の孫権の名代として、先の荊州刺史劉表の弔問史として公式に派遣されて来た。劉備陣営の名だたる将を始め、 文官までも左右に配置された中を劉備の前にまで進む。まずは型どおりに拝礼し劉表への哀悼の意を述べたあと、世間話 でもするかのように曹操に対する備えを聞いてきた。 「我々揚州は未だ曹公と刃を向け合った経験がなく、その膨大な勢力と驚異的なまでの速度に、ただ悪戯に怯えを見せる 者は引きも切りませぬ。幾度も曹公と対峙なされた劉予州の処断をお聞かせ願えたく、伏してお願い申し上げます」 「魯粛どのは柔和なご様子に反して、忌憚のない方でいらっしゃる」 劉備も魯粛の愚直なまでの真摯な態度に好感を持ったようだ。意味のない長口上をさっさと打ち切り、本題に入る構え を見せた。 「くだくだと腹の探り合いを論じている暇はございません。不躾と十分承知致しております。が、当方にとっても劉備さま にとっても、わたしはだたの弔問史ではないとご理解頂けるものと思っておりますが」 「それは魯粛どのご自身の私見によるものなのか。それとも討虜将軍ご自身の見解と受け取って差し支えなかろうか」 お察しくださいと呟いた魯粛の瞳が射るように劉備を捉える。会心の笑みを浮かべ劉備は傍らの文官に小さく耳打ち をした。 「ご決意のほどはしかと受け取った。その後のご相談は我が軍の軍師に一任しております。もう間もなく参る筈だが」 「南陽の臥竜どのですな。わたしもお会いするのを楽しみにしておりました」 そう答えた魯粛の視線が後方の入り口付近に向けられた。いつこの陣屋に姿を見せていたのか。気配すら消して彼の 人の存在がそこにある。 「遅れまして申し開きもございません」 その凛とした立ち姿に陣屋に会していた諸将諸官が息を呑んだ。 やや掠れ気味の耳に心地よい低音。戸口から入る陽光を背に浴びた男に一同の視線が集まった。 ゆったりとした道袍の裾はふわりと風を含み、歩くたびに形を変える。 綸巾から洩れた豊かな黒髪と相反する玉肌の白さに、揺さぶられる感性は周囲に波及し、それは畏怖に似た 感覚を与えた。 そのさんざめきには艶然とした笑みで返し、長身痩躯の黒衣の男は劉備の面前に進み出る。劉備の最左右に位置し、 滅多なことでは驚かない義兄弟たちも前のめりになっていた。張飛の巨眼は今にも飛び出しそうに膨れ上がり、 厳格な関羽の眉間の皺はよりいっそう深く刻まれていた。いついかなるときも間近に置いて寵愛を与えている劉備でさえ、 唖然とした表情のまま固まっている。 そのような視線を当然と受け止めて、諸葛亮は劉備の真横に位置し、東呉からの使者魯粛へ丁寧に労いの言葉をかけた。 「遠方よりご足労頂き恭悦にございます。諸葛亮孔明と申します」 ただ目に止まるような、ただの拱手。向けられた魯粛の周章が手に取るように分かった。 言い方は悪いが化けたな、と趙雲は思った。そこには彼が知る線が細いくせに頑迷で、やや調子っぱずれな男は存在 しない。己の容貌を何処で使えばいかに効果的かを知り尽くしている策略家の顔があった。 劉備に呼ばれるまで姿を現さないのも演出の一つだろう。場を制し他を圧し、ことを優位に運ぶためには、言葉の使い方 から指遣い仕草に至るまで過剰に衣を重ねる。力持たぬ者が生き永らえる術をこの華奢な男の背中から学ぶべきだとも 思った。 「おぉ、お噂はかねがね聞き及んでおりますぞ。お姿よりもそのお声が諸葛瑾どのと瓜二つでいらっしゃる。兄上さまとは もう何年も会われていないとお聞きしましたが」 「はい。書簡のみの付き合いで。兄は息災にしておりましょうか」 「えぇ、実直なお人柄にわが主の信頼にも大層厚く、文官としては何れ最高位にまで昇り詰められましょうな」 懐かしい者との邂逅のように魯粛は相好を崩した。孫権に扈従しているという彼の兄の諸葛瑾と魯粛の親交の深さが、 窺い知れようというものだ。忌憚がないというよりもいっそ無邪気なほどの男を、この陣営に遣わせた孫権の 胸のうちを劉備は正確に掴んでいる。この同盟に決裂は在りえない。それは定めて両陣営の瓦解を意味する。 名目は同盟の成就のため、そして東呉陣営の反戦論者への説得と、来る曹操の強襲への備えとして諸葛亮を東呉へ 派遣して欲しいという相談を魯粛が持ちかけたとき、二つ返事で快諾したのにはそういう訳があった。 予め諸葛亮から聞かされていた作戦の鳥羽口でもある。 ただ、単身でとは聞かされてはいない。その確約を劉備は東呉の使者の前でさせられることとなった。 局面が転がりだした。 魯粛へのもてなしの宴のあと、速やかに劉備の前を辞した諸葛亮の身支度はささやかなものだった。ただ出発までの 僅かな時間を今一度の情報整理に費やしたいと、小さく灯された燭台の元、竹簡の上を忙しなく指が滑る。 燭台の灯が揺れる。戸口に佇む人物に諸葛亮は苦笑を漏らした。 「そのようなところに突っ立っていないで、どうぞお入りください。お見えになるんじゃないかと思っておりましたよ」 険しい表情で腕組みも解かず、趙雲はその場を動こうとはしない。風が入りますからと、再度促されて、漸く間近に 歩み寄った。 「単身乗り込まれるのは余りにも無謀というもの。この趙子竜をお傍から外された訳をお聞きしたい」 趙雲の怒気に煽られて灯火が揺れる。胡床に座して背を向けたままの諸葛亮の背に、痛いほどの視線が 突き刺さった。 「此度の使節は、東呉との同盟がなるかの重要な役目を担っております。孫権以下東呉の面々に劉備陣営の切迫感と、 かの国に対する僅かばかりの疑心を与えてはなりません。わたしの護衛にあなたのような豪の者が居れば、自ずと 不安を与えてしまいます。この身に寸鉄も帯びず、同盟の使者としての体裁を保つことに意味があるのです。あちらとて 巨大に膨れ上がった曹操との決戦に活路を見出したいと必死でしょう」 ――大丈夫です。わたしの身の安全は確保されたも当然ですよ、と彼は小さく笑った。 「相変わらず頑迷な。あなたお得意の処世術だけでいかほど御身を守れると言われるのか。少しは身の程を弁えて頂きた いものだ。出来うることなら無名の一兵卒にでも身をやつし、紛れ込みますか」 「あなたほどの方ならその指一本動かされるだけで、尋常ならざる気迫と剣気を放つから一目瞭然でしょう。 バレバレですよ」 「しかし、その保障も――」 「ええ、局面が変わるまでと熟知しております」 相変わらず背を向けたままの諸葛亮に気を悪くしたふうも見せず、趙雲は小さな唸り声を上げた。 まず、同盟成立を願い、そして巨大な脅威に共に挑み、それが成された後にも盟友関係が続くとは考えにくい。 東呉に対して秀でた文官としてのみの認識ならば、そうそう無体な振る舞いには及ばないだろう。 「わが身が惜しければお控えなさい。頭角を見せたり片鱗を晒す真似は死を意味します。あなたを守るわたしの手は それほどに離れてしまうのですから」 「趙雲どのには変化する局面に合せた対応をお願いしたい。現在孫権の本営は柴桑にあり、曹操軍もその長江沿いの江 陵に陣を引いております。わたしが出発したのち我が軍も長江の対岸、樊口へと陣を移した方がよいでしょう」 何も確約することは叶わない。 日々揺れ動く状況の変化でいつ会戦へと雪崩れ込むのかまで読めない。劉備軍の精鋭部隊を率いる将校の一人が、 その部署を離れて使節に付き従う余裕はないのだ。 「何れにしても危険であることには違いない。何が起きどういう風が吹くとも限りません。貴方が戻られる場所はここで あるときつく認識頂きたい」 「それは申すまでもないことです。簡単に囚われたり害されたりするような無様な真似は致しませんよ。それとも わたしが東呉に寝返るとでも?」 漸く諸葛亮は後ろを振り返った。いつの間にそこまで接近を許していたのか、すぐ背後に彼が居た。 しかし肩の触れる位置に居ながら、趙雲はけして視線は合わそうとしない。その正体の知れない緊迫感に 僅かな怯えが走った。弾かれたように視線を前に戻す諸葛亮の肩に置かれた趙雲の指に 力が込められる。 「言い方を変えましょう。わたしの元に戻られることを願います」 「ち、趙雲どの」 「これは契約です」 ふわりと背後から大きな両の腕で包み込まれた。 簡単に鼓動が跳ね上がる。 篭められた腕の檻に縫いとめられ、振りほどこうとする指の震えが止められない。 堪えなければと思う。そう簡単に明け渡してはならないものがある。しかし、その心地よさに阿てみたいと 願って何の不備がある。 契約。 そう、これは契約なのだと口にして拘りが解けた。 誰に何を約そう。 そして闇が落ちた。 ――了
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ただ、「契約です」を言わせたかっただけの話で申し訳ないです。 |