お疲れ気味のあなたへ







 新野の城は狭くて古い。しかも望楼からの眺めも一面の原野と寂れた城下の街。襄陽城とは比ぶるまでもなく、 その寂れ具合も現在の陣営を反映しているかのようだ。
 だが間違いなくここが遠大な構想の拠点。
 一段一段高みへと引き上げる野望を心に灯し、何の不服があろうかとの心積もりだった。
 春まだき身が切れるような寒さの中、袍衣の襟を合わせ、諸葛亮は手にしていた羽扇に目をやった。
 一昨日、 主公よりの下賜の品。日にちも浅く、手に馴染んでいるとは言えないが、思案するときの手慰みには丁度よかった。
 朝練の声を遠くで聞きながら明け始めた東の空には一条の光。山々の稜線に沿って滲む光が目に痛い。 大いなる外敵には 気を抜けないが、まず何よりも目の前に存在する山積された政務と、そして一筋縄ではいかない内敵と 渡り合わなければならない。
 重い嘆息をついて彼は望楼を降りた。



 城内に割り当てられている諸葛亮の私室は事実上の執務室として機能するようになり、朝餉も済んでいないと いうのに部屋の前には、それぞれ竹簡を抱えた文官たちが待ちわびていた。
「おう、孔明どの。何処かとお探し申し上げましたぞ」
「ご挨拶はあとで、まずこれに目を通してくだされ」
「いや、こちらから先に」
「儂は主公から直々に命ぜられた。儂が先じゃ」
「何を仰る! これなるは孔明どのからのご依頼のあった新野の住民記録。是非早急にとの仰せでしたので、 これこのとおり。次のご指示も仰がねばなりません。某から先に」
 わらわらと詰め寄られて脱力してしまった。
 みな一様に案件の決済を我先にと迫っている。
 先日、出会い頭のはったりと、調子に乗ってひけらかした事務処理能力に、並みいる文官たちを 感服させたと悦に入ったのはつかの間、主公の信任の厚さもあるとはいえ、彼らの目に見えた 恭順さに心底唖然とする。
 正直これほどの重責を背負い込む羽目に陥ろうとは、己の観察眼の甘さに臍を噛む結果となった。
 何もすべてを新参者の軍師に委ねる必要もあるまい。自分たちの権限で差配できる範囲だろうと、 一喝してやりたいのをグッと堪え、 人好きのする笑顔で対応した。
 一番の内敵は、各々それなりの地位にありながら、決済を上位の者に委ねるその甘さだと、 諸葛亮はだれにともなく吐き捨てた。



 きょうも諸葛亮の行くところには、囲むように大挙する文官たちでひしめいている。端から見れば陣営に参与 して幾日もたたないのに、これほど慕われ頼りにされているのかと眼を細める場面かもしれない。
――だが。
 自室で義弟の関羽相手に碁に興じていた新野の主は、窓の外で繰り広げられるその様子に眼を留めてポツリと 呟いた。
「そのうちキレるな」
 関羽は碁盤から目を離さない。幾つ先まで手を読んでいるのか計り知れないその配置に渋面を送ったまま だった。
「何の話です?」
「我らが先生の能力が皆に認められて嬉しいという話だ」
「それはよろしゅうございましたな」
 関羽の言葉尻に誹謗の色が混じるのは仕方ない。
 かの青年を破格の扱いで迎えた経緯に、股肱の臣からの 妬心や嫉視は範疇と言えた。それに潰されるタマでもないだろうと、ある意味野放しで好き勝手にさせて いたが、引きもきらない事務処理をさせるために出櫨頂いたわけではない。当然本人も不本意だろう。 その辺りの苛立ちがあの張り付いた ような笑顔なのだとしたら、随分屈折した感情の発露だと劉備は哂った。
「助け舟を出すかどうか悩んでいるのだよ」
「それをわたし相手にご相談くださいますか? 答えようがない」
 だれとも聞かず関羽は応じている。放っておけばよいと一つ自慢の髯を撫でた。
「目に余るようなご偏愛は、かの者の立場を余計に危うくさせるのではありますまいか?」
 ご偏愛ね――と劉備は腕組みをして宙を仰いだ。
「片びいきをしているつもりはないのだが、ただ――」
「ただ?」
「反応が楽しくはないか?」
 関羽はあからさまに眉を寄せる。向けられた劉備は底の知れぬ笑みを落としているだけだった。



 翌朝、ふいに目覚め、だが起床時間までまだ間があると、いま一度微睡もうとしていた諸葛亮は、 間近に何かの気配を感じて飛び起きた。
 ゆるゆると吐き出された暁闇の僅かばかりの光に目を凝らせば、部屋の中ほどで誰かが傅いている。
 回りきらない頭で何用かと問いただす前に、その人物は立ち上がった。
 劉備軍一の槍の遣い手。趙雲だった。
 地位も分際も弁えているであろう将が、何故細作まがいの所業をと詰る先から目睫まで近寄られた。
 反射的に背後の壁まで後退さる。咄嗟に感じた身の危険。
「何用だ! おまえは誰だ!」
 薄い月明かりに照らされたその表情は恐ろしく酷薄で、諸葛亮が見知っている誰とも合致しなかった。
 低血圧は脳の回転数を著しく低下させる。積もり積もった疲労もそれを助長させた。
 寝込みを襲われまともな判断が下せず、あからさまに狼狽えた様を揶揄るように笑みを落とした 趙雲は、そのまま後退してもう一度傅いた。
「不躾ご容赦ください。趙雲です。早朝から申し訳ございませぬ。是非とも演習にご同席して頂くよう 主公から命ぜられました」
「え、演習?」
 前日に何の予兆もなかった。その予定があるのなら予め仰って頂ければ、このような夜着姿を晒さずに 済んだものをと愚痴ると、趙雲は目にも鮮やかに笑った。
「主公はいつでも唐突ですから」



「機嫌が悪いな、孔明」
 取り合えず簡単に身づくろいを整え、息せき切って駆けつけた馬上の彼の横には、主公劉備が馬首を並べている。
 当然でしょう、と諸葛亮は前を向いたままぶっきら棒に言い放った。
「処務が引きも切らず、連日睡眠時間を削って対処に追われております。主公におかれましては、わたしの現状を ご理解頂いているものと思っておりました。今朝もほとんど寝入りばなですよ。 趙雲どのの気配に気づいたのは。賊が侵入したかと思いました。まったく心の臓に悪い」
 陣営に加わった頃よりも幾分削がれた頬を晒し、恨みがましい口調で咎めても隣の人物はニコニコと聞き 流しているだけだ。諦めて長い嘆息をこれみよがしについたそのとき、劉備はスッと広い原野に展開している 自らの陣営を指差した。
「実戦さながらの演習を孔明に見せよう。これが、粘り強さなら中原一と儂が自慢する劉備軍だ」
 指し示された方向へ視線を送れば、陣形は二つに分断されている。旗指物を見れば、「関」「趙」が一軍となり 「張」「劉」の連合軍と相対していた。
 それぞれ関羽と劉備が歩兵を預かり、趙雲と張飛が騎馬隊を指揮している。
 同じ騎馬部隊といっても趙雲と張飛とではその能力に違いがあると見て取れた。
 張飛のものは層が厚く重い。 押されてもそれぞれの馬術で押し返す。気概が重量級なのに対して、趙雲の部隊は速さで翻弄する。眩暈が するほどの切り替えしで柔軟な攻めを展開していた。
 息を呑んで前のめりに見入っている懐にポンと槍が投げ込まれた。落馬しないように受け取るのが 精一杯の彼に、劉備は行くぞと声をかける。
「えっ、主公?」
「心配せずとも槍の穂先は保護してある。まぁ、うかうかして突かれでもしたら痛いどころの 話じゃないがな」
「仰る意味がよく分かりません」
 彼は眉を顰めた。
「これからの孔明は常に儂の傍らで軍の統括をしてもらわねばならない。だが、最深部で見守るだけといった 悠長な場面ばかりではないしな。全軍総崩れで逃走する危惧は持っていて然るべきだ。孔明も敵が間近にまで 迫る恐怖を味わってみるものいいだろう。気をつけろよ。演習といってもヤツらの殺気は尋常ではないぞ」
 お待ち下さいという静止を振り切るように劉備は馬を駆り立てた。その後に主騎が続く。残された形の 諸葛亮は舌打をする暇もなかった。
 利き手に槍を持ち替え、ほとんどヤケクソのように馬腹を蹴った。



 劉備軍の前方を張飛の騎馬隊が守る。重厚で固い砦に守られる安心感は、間近にあって初めて体感できるもの だった。その厚みを速攻と引き戻しで突端を開こうとする趙雲の騎馬隊。趙雲をして張飛隊の切り崩しは 容易ではないようだった。
 それでも弱いところを執拗に突いて牙城は崩れる。その機を趙雲が見逃す筈がなく、綻びに乗じて襲い掛かる 将の姿に彼の中の何かが弾けた。
「孔明!」
 背後で静止する劉備の声が聞こえなかったわけではない。
 後先考えなかったわけでもない。
 ただ戦場にあって武器を手にし、襲い掛かる殺気に包まれたのなら当然と、形をついて体がまろび出た。 無謀だとか、寝不足だとか、それは後から付け足したような理由だ。
 その姿に、勇猛果敢、沈着冷静を地でいく武将の眼が驚愕に見開かれる。
 諸葛亮はどこか余裕でほくそ笑んで槍を繰り出した。
 一合打ち合い、二撃目をかわされ、相手の遠慮を幸いにと懸命に身を乗り出した。 型もなにもあったもんじゃない。ただ、呼吸もままならず肺が潰れるんじゃないかと いう恍惚感に見舞われるまで突きを繰り返した。
 その頃になると体勢を立て直した張飛が取って返し、彼の横に並ぶ。ここは任せろとか 叫ばれて、もう握っていられないほどの痺れを両手に感じた。
 自分とは比べ物にならないくらいの張飛の攻撃。矛と槍が火花を散らし、両名の荒ぶれる息遣いまで聞こえる ほどの間近。
 それを暫くただ見つめていた。
 程なく鳴り響く退却の合図。
 決着のつかなかった二人は激しく肩を上下させたままあっさり馬首を返した。
 彼はただ、ただ落馬だけは逃れようと、意識の引き締めに懸命だった。



 その後劉備から簡単な総括が行われ、散会の言葉が出るまで毅然と顔を上げていた諸葛亮の体がグラリと 傾いだ。一度なんとか持ち直し、兵たちの姿が消えた頃になって完全に力を失って倒れる彼の体を 抱きとめたのは、真横にいて不調ぶりを感じていた趙雲だった。簡素な軍袍しか身につけていない彼は驚くほどに 軽い。
 認めて張飛が苦笑いをする。
「何とか気力でここまで持ちこたえたか。途中でぶっ倒れるんじゃないかとヒヤヒヤした」
「なかなか頑迷な性質であるようだな」
 認める関羽に趙雲も口の端を上げた。
「技巧は稚拙、気概も体力もあったもんじゃないが、なかなかどうして腹が据わっておいでだ」
 気絶というよりも、規則正しく寝息を立てている若き軍師の、存外あどけない寝顔に劉備は苦笑を禁じ 得なかった。
「これだけ体を酷使すれば孔明とて、処務がどうとか、未処理だとか、決済だとか考えずに 爆睡できるだろう。趙雲。丁重にご寝所にお運び申し上げろ」
 心得ましたと城内に消えてゆく後ろ姿を見送って、劉備は一人ごちた。
「さて、文官たちに軍師職の過酷さをとくと言って聞かせねばなるまいな。軍師どのご不調につき、それぞれが 自らの責を持って処するように通達いたせ」
 左様でございますなと、自慢の髯をしごきながら関羽も続く。
 張飛はその劉備軍独特の気の使いように ただ苦笑しきりだった。



 劉備の予言どおり、まる一日寝貯めした翌日、余りの筋肉痛に筆すら持てない諸葛亮の有様だった。



――了






玄ちゃん、子竜に先生の寝込みを襲えと命令するの巻。(どんなや)
先生はこうやって玄徳陣営に溶け込んでいったという。(あほや)
劉備陣営あげて体育会系モード炸裂で、書いててこっ恥かしいような爽やかな風が流れとります。 (鼻で笑ってくれ)
汗かくって素晴らしい♪(なんかヤダ)