夢を見ているのだと思った。 先の見えぬ深淵へと沈み込み、足掻き、這い上がり、また深みに陥る夢を。 手を伸ばせば波状に揺らめく澱の先に微かな光。もどかしげに揺れては消え、淀んでは現れる。 それ程不確かな己の行く末を暗示するかのような夢だった。 詰めていた呼気を吐き出すように目覚め、ほの明るい暁闇が辺りを覆い、縮緬皺に形どられた 歪な光が天幕内に差し込む。 何度か目を瞬いて諸葛亮は覚醒を促した。 寝起きはいつもすっきりしない。それはきょうに限った話ではないのに、いつにも増して目覚めが悪い。 体が軋む。喉まで痛い。褥の中の体が何もつけていないことに訝りながら、だから風邪でも引いたかと 思って身じろいで、背後から伸びている二本の腕に、起こし掛けた上体が止まった。 「――!」 恐る恐る己の手を確かめる。ある。確かに。では、この腕はと振り返り、思わず蛙を踏み潰したような 声を出してしまった。 「げっ!」 酔っていたわけでもないから失念のしようがない。ボツボツと昨夜の行いが思い起こされた。 耳元で囁かれ、堪らず喘ぎ、体が軋んだ。直裁に請われて正直に応えた己がいた。その痴態の一つ一つが あけ闇とともに鮮明となり、 砕けたように萎えた腰では立ち上がることもままならなかった。 「どう……」 諸葛亮は身支度に時間がかかる。しかも一人では長い髪を結い上げることも出来ないので、起床したころ を見計らって側仕えの官が用意を持って現れる。毎日だ。毎日、諸葛亮が目覚めるのを部屋の外や、外地では 天幕の外で持している。余程のことがない限り、暁闇が吐き出されてころには身支度を整える 慣習のために、この明るさなら必ず居る。間違いなく。 「ど、どうしよ」 いま一度同じ言葉が出た。それに反応したのか、同衾していた男が小さく呻き、薄く目を開いた。 何も初めて間近で接した訳でもない。武官の中でも、恐らく主公よりも、接する機会も頻度も 濃かったと思う。なのに始めて知る横顔とその雰囲気。知らない事実に畏怖を感じ後ずさりしかけた 諸葛亮の手を、伸びてきた趙雲の腕が留めた。 「牀から落っこちてしまいますよ。しかもそのようなしどけないお姿で。頭から転がり落ちたいの なら話は別ですが」 うっ、と言葉に詰まり、そそくさと夜着に袖を通す。趙雲はクツクツと哂いながら、その様子をただ眺めていた。 揶う視線にただイラついて、諸葛亮は背中越しに言葉尻を上げた。 「いつまでも呆けて寝そべっていないで、趙雲どのも支度されよ。皆が起き出す」 「情緒を解されないお方だ。いま少しこの手に留めておきたいと願っておりますのに、そそくさと飛び立って しまおうとなさる。それでは余りに私が哀れではありませんか」 「戯言を」 忌々しげに吐き捨てる。こんな言葉遊びは苦手だった。 外で持す下官には、この将軍と夜っぴきで談義していたことに、そう示し合わせようとした諸葛亮の 背後からやんわりと趙雲の腕が下りてきた。包み込まれ、抱すくめられ、吐息が甘い。振りほどこうとする 腕の震えが止まらないのを知りたくない。知られたくもなかった。 耳朶に軽く唇が寄せられ、離せと荒げる声が出る前に、唐突に趙雲の腕は逃げていった。 あっと、引き裂かれたような悲鳴を飲み込む。唇が触れたそこだけがジンジンと熱を持ったように主張をし、 夜着を掴む彼の手に力が篭るのを見ないフリをする趙雲だった。 「では、また何れ」 引っ掻くような跡を残し、いつの間に支度を終えていたのか、来たときと同じように静かな足取りで 趙雲は退出して行った。鮮やかな残滓が彼を翻弄する。 「ちょっ――!」 待てと言葉にならない制止には見向きもせず、趙雲は当然のように幕外で傅く下官に、何やら挨拶をして 去って行ったようだ。気まずさから顔を背けたが、何をどう説明したのか、 入れ替わりに手水の桶を持って入室してきた下官のにこやかな笑みに、肩透かしを食ったような 諸葛亮だった。 揚州の孫権の名代として魯粛が夏口の劉備陣営に参じたのは一昨日。先触れの使者を昨日のうちに揚州に 遣わせ、正使である諸葛亮も一両日中にはその魯粛と共に夏口を後にする。他国に訪問する際の 体裁を整えている暇はなかった。魯粛にしてもほとんどトンボ帰りの強行軍だ。 一同を会した議場で劉備は労う声をかけた。 「お疲れを承知でご無理を申しあげる」 「滅相もございません。一刻ほども無駄にはできないと重々承知致しております。それよりもまことに 諸葛亮さまを単身で遣わされて宜しいのでしょうか。私共もこのお方にいらぬ気遣いなどさせませぬよう、 尽力致す所存ではございますが、なにぶん東呉も開戦派で統一されているわけではなく――」 「なに、あれほど自信を持って言い放ったのですから、這ってでもことを成し遂げる意気込みでしょう。 これは言い出すと聞かぬゆえ、ほとほと手を焼いておるのですよ」 劉備は鷹揚に苦虫を踏み潰したような渋面を送った。諸葛亮は小さく立礼し、 自軍の布陣を魯粛に見せようとする劉備のあとについた。 進軍が停滞した上の野営とはいえ、背後に曹操軍南下の脅威を睨み、劉備軍の緊張は尋常ではない。 内外に誇る三将軍の采配のもと、劉備軍は臨機応変に対応できる雁行の陣を引いている。文字通り 雁が編隊を組んで飛行するような隊形だった。 劉備が魯粛に何か説明をしている。用兵の匠さと各将たちの勇猛さを同盟国に植えつけようとの 算段だろう。それをどこか遠くで聞きながら、諸葛亮は自然と一点だけを目で追ってしまう己に 気づき、苦笑した。 鋼の軍袍は慣れ親しんだもの。馬上にあって凛とした後ろ姿。生真面目に前方を睨み据えているのは 窺い知れる。たまに、副官らしき将と言葉を交わす。その自然な笑顔に感じる小さな憤りの訳から 目を逸らす。 胡散臭いほどの眩しさだ。 もう一度何か言葉をかけ、何気に振り返ったその視線とかち合った。今更逸らすわけにもいかず、 努めてきっぱりと顎を上げる。その様に趙雲は満足そうな笑みを返した。 「慌しい出立ですね。十分なお荷物をご用意する必要はないと仰られても――」 主公、劉備との取り決めも済み、天幕に帰り着くと、彼の身の回りの世話をしている下官の少年が、荷造りの手を 休めないでポツリと告げてきた。荷は必要最小限でと申し付けている筈だが、彼の手は忙しなく動いている。 「本当に護衛のお一人もお付けしないで向われるのですか?」 「こちらの誠意を示すためにはその方法しかないと判じた。劉備軍の猛者たちをぞろぞろと引き連れて行っては、 相手はいつまでも警戒の念を解かないものなんだ。その僅かな時間さえ惜しい。それほど我々は切羽詰まっている んだよ」 「そうは仰られましても」 「ん。危険であることには変わりない。おまえ、私に付いてゆくことを拒んでもいいよ。元々は下官の一人 さえも居ないでは不便宜だろうという主公のお申し出を受けただけだから」 「そんなこと出来るわけないです!」 少年の激しい叱責に諸葛亮は目を丸くする。 「孔明さまはお一人ではお髪も結えないでしょう。あちらさまと初会されるときに、乱れたお姿を晒される お積りですか?」 「それは――劉備軍の威信にかかわるな。日頃から備えていればよかった。わたしの不徳の致すところだ」 「難しいんですよ、孔明さまの身支度を整えるのは。私でなければ無理です」 軽く睨むように自己主張するこの少年に、生死を共にするような役目は惨いとも思う。そう告げると 少年はクスクス笑って続けた。 「趙雲さまも同じようなことを申されました」 「趙雲どのが、何と?」 「私が孔明さまに付いてゆくと決まったときに、お役目を変わろうかと。それは真剣に」 「で、おまえは趙雲どのでは無理だと言い切ったのだな」 「ええ。それは残念そうに引き下がられましたよ。将軍方とまでは申せませんが、私も武人の端くれ。 孔明さまをお守りするくらいのことは出来ますと、付け加えました」 「頼もしい限りだ」 「お任せしたと、趙雲さまは笑顔を見せられて、私如きに礼を取って下さいました」 あるいは、と諸葛亮は思った。 敵地とも呼べる同盟国に在って、己を守るということはこの年端のゆかぬ少年の安泰にも繋がる。 惨い勤めだが、彼を無謀に走らせないがための布石なのかと、今更ながら主公の差配に 頭が下がる。ただ、信用されていないだけかも知れないが。 守る者があれば慎重にもなろう。もっとも身を滅してよしとされる役目ではない。 ありがたいことに、多彩な ほうーと溜息をついて彼は天幕を出た。 北西の風が容赦なく吹き付ける漢水と長江との合流地点、夏口。このまま長江を下れば東呉の 前線基地柴桑にたどり着く。新野から襄陽、長阪と南へ流れついたのに、風はまだこのように冷たい。 怒涛のうねりを呼び込むか、この滔々とした大河に。北からの脅威を断つために壮大な体を横たえた 河伯。怒り、鎮めよと祈りにも似た礼を送った。 「たまには言いつけどおり、隋人を伴ってお出ましになられることもあるのですね」 厳粛な儀式を妨げてはならないとでも思ったのか、伏せていた諸葛亮の瞳が開かれるのを待っていた ように背後から声がかかった。日の没する前に連れ戻ろうとでも思ったのだろう。 彼の主騎は任務に忠実な男だった。 「趙雲どののご不興を買ったままで出立するのは、目覚めが悪いですからね」 「殊勝なお心がけ、実に喜ばしい」 「それに、対外的に言えば、今までのわたしは軍師という名のただの文官だった。暗殺し甲斐もないような。 だが、これからは名が表に出る。わたしとしてもこんな所で犬死するわけにもいかない」 「漸くご理解頂けましたか。今までの苦労が報われたというものだ」 不揃いの下草に足を取られるとでも思ったのか、趙雲が手を差し伸べてきた。何だかんだと言いながら いつもそうやって甘やかす。憮然と固まった彼の方を見ないように、 仕方ないというふうを装ってその手を取った。 私がお付きすると、周囲に侍る隋人を下がらせると、あとは河を渡る風の切るような音だけが 辺りを包んだ。 「少しは名残惜しいと思っていただけたようですね。きょうはあなたの視線が突き刺さってましたよ」 コホンと一つ咳をついて、沈黙を畏れたのは趙雲の方のようだ。唐突にそう切り出した。 諸葛亮はああ、と余裕の笑み。己よりも少し高い位置にある彼の横顔を捉えた。 「そういうのを何て言うか教えて差し上げよう。自意識過剰って言うんだ。私は全体を俯瞰していた」 「お聞きしておきましょうか。しかし、公の場であまり凝視しないで下さい。気が散ってしょうがない」 「ふん。趙雲どのがにこやかな笑みを浮かべられていたから驚いただけだ」 「それほど不思議がることですか?」 「私には冷ややかな笑みか、揶う言葉しか向けられてこなかったのでね。これは使い分けているなと。 部下たちにさぞかし爽やかな青年将校と映っているんだろうな」 わざと視線を遠くへ飛ばして意趣返しを試みる。 それは――と趙雲は珍しく言い募った。添えられた手に熱が篭る。 正直な、言葉よりもっと胸裡の近くにあるものの温かさに安堵したとしても、それは縋りつこうなどと いう弱さからではない。 「お迎えは必要でしょうか」 切り替えは早い。尾を引かない潔さと、引けない実情を解してくれる彼を誇りに思う。 「たぶん――計画どおりいけば。ただどう状況が転ぶかまでは図りかねる。東呉の思惑と出方次第だと 言っておこう」 「そのお役目は私に賜っていただけるのでしょうな」 「お願いする」 諸葛亮はニコリと笑った。 それだけで通じる思いが確かにある。多くを語らなくても。 あとは、この身に打ち込まれた軛の熱さ、強さ、優しさ――そして思いの丈を背負う。 存在の総てをかけて。 ――了
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え〜、何気ない日常のヒトコマシリーズです。(また、唐突に) やっぱ、腐れ女にとってお初の後に目覚める朝ってのはどうしても外せないテーマですよねぇ。 (ねぇ? ってだれに振ってる) 苛つくせんせとスカした胆を書きたくて、ヤキモチなんか焼かせようかと思ったのに、 全然違う話に発展してしまいました。(汗!) まぁ、それもよくあることで ♪ |