――いい所だよな。 草いきれの青臭い香りに包まれ、寝っころがった諸葛亮の頭上を引っかくような泣き声を一つ上げて、 猛禽類が悠々と飛翔している。 あの高さからだと、弱った小動物に見えなくもないな、と餌の一つに数えられ嘴の餌食になるかも 知れない危惧を抱きながらも、彼はごろりと仰向けになった。 近頃は朝晩の霜もすっかりなりをひそめ、日差しが軟らかく感じられる。しかし風は方向によって温度差を生じ、 時折、まどろみかけた頬を切るように過ぎって行った。 真昼間から惰眠を貪っていても、身を脅かす馬蹄の音など聞こえてこない。微かに耳に届くのは 、自軍の演習の掛け声と太鼓と銅鑼の音。恐らくいまごろは、歩兵隊を指揮している髯の立派な御仁の、執拗な ダメ出しが続いているのだろう。ご苦労さまと口に出したら少し笑えた。 ここ何日も執務室に引きこもって山積みされた事務処理に終われていた。それこそ不眠不休で。毎度のことだが 肩はパンパンに張り、筆を持つ腕も腰もだるい。体だけじゃなく、はっきり言って飽きてきた。 読書するのは好きだし、政務関係の実務能力には長けていると思う。この城にいたどの官よりも。 けれど、長年勝手気ままに過ごしてきた弊害か、薄暗い室内で左右をしかめ面の佐官に挟まれての政務は、息苦しい ことこの上ない。集中できない。だれもかれも詰りたい衝動に駆られる。下手をすると草案なんか蹴り上げてしまいたく なる。そうなる前に我が身の保身のために逃げてきた。 沈着冷静。人当たりのいい軍師を続けるのも結構大変だ。 「竹簡に目を通したり書物を読んだりするのは、木陰の下って相場は決まっているし」 唐突に休憩――と叫んで立ち上がり執務室を飛び出した。振り返らずにそのまま素早く身を隠し逃走を果たしたけれど、 バタバタと椅子を蹴り竹簡などを落っことす佐官たちの慌てぶりに、申し訳なくも笑いがこみ上げてくる。 「まぁ少しは悪いかなという気にもなるけど」 こんなにいいお天気なのだから、今度は彼らも誘って野外で執務と行こうかと画策していたそのとき―― ピチャ……。 何か顔にかかった。 雨? んなわけない。絶好の昼寝日和なのに。彼が薄っすらと目を開けると、そこには真顔で覗き込む軍袍姿の趙雲 が突っ立っていた。ご丁寧にも手ぬぐいを絞って雫を垂らし、彼の顔にあててその反応を観察している。 驚くより少し不気味だった。 「な、なに?」 「こんなところでお休みになられますと、風邪を召します」 「……人を起こすのに、水をかけるのか、あんたは」 「かけた訳ではないでしょう。たらしただけです。言葉は正確に」 「口の減らない」 「どんなふうに起こして差し上げるのが失礼に当たらないか考えていたのですが、声をかけるだけなど芸がないし、 お体に触れるなど不敬も甚だしいでしょう」 「芸などなくていい。常識を測る枡はないのか!」 「一服の清涼剤ですよ。かなり退屈そうでしたから」 「退屈などとほざけるほど結構な身分じゃないよ」 おや、そうですか、と見惚れるような笑顔がますます憎らしい。 「またサボっているではないですか。諸官たちが眦を決して城中を探し回っていますよ、きっと。早々にお戻りを」 「またと言われるほど抜け出してはいません! 正規の休憩時間です。ただ、外の空気が吸いたかっただけで。 だれに咎められる筋合いはない」 言葉尻もあがる。せっかくいい気持で息抜きの最中だったのに、台無しもいいとろこだ。 「そういう趙雲どのこそ演習を抜け出されて宜しいのか」 「優秀な指揮官が不在でも兵たちは一糸乱れませぬ」 「言いますね」 「私が鍛え上げた兵たちには全幅の信頼を置いています。これは関羽どのや張飛にお尋ねになられても、同じ 答えが返ってくると思いますよ」 「はいはい」 「失礼な相槌だ」 「すみません。人を見て対応を変えたりするんです、私は」 趙雲はフンと鼻白んで彼の横に腰掛け、同じように寝そべった。長い下草がワサリと音を立てて耳に優しい。 あとはただ雲の流れを目で追い、風の音を捉える。そんな普遍的な静けさに愁傷を感じるほど、平穏さに飢えていた。 幼い頃から怒声と剣戟の音に塗れた戦禍を逃れ、漸くたどり着いた隆中のわび住い。束の間の安息を得て、 あのままかの地で恙無く、ひっそりと一生を終えてもよかったのだけれど、それが終生守られる訳がないと、 それだけは確信が持てた。 何れ踏み荒らされる。為政者という名の暴挙に。 「趙雲どのの生国はどちらです?」 「また唐突に質問がきましたね」 「話し相手に来てくださったのでしょう。結局あなたも暇なんだ」 「畏れ多いことですが、これも任務の一旦です。羽ははえているし腰は据わらないし、私以上に口の減らない 軍師のお守も仰せつかっているものでね。身が持ちませんよ」 「同情は禁じ得ません」 「労って頂き、恭悦至極に存じます」 諸葛亮は小さく笑った。趙雲はどこか一点を厳しく見つめたままだ。 「私の生まれた河北の常山という土地は、ほぼ鮮卑と隣接していましてね。気候が過酷な上に異民族との争いが 絶えなかった。あれくらい中原から離れると漢帝国の威信も届かなくて、間に合わなくて。地元の豪族たちも アテにならない。だから、我が身を守るものは一本の槍と己の技量だけだった」 「そうでしたか。その槍でさぞかしたくさんの者を守ってらしたのでしょう」 趙雲は小さく何度も頭を振った。 「一番大切な者を守れなかった男なんですよ、私は」 「趙雲どの……」 「私はまだ小さく、力もなく、間に合わなくて、むざむざと、目の前で――敵の手に。ただ、逃げるしか手はなくて」 「趙雲どの!」 諸葛亮は勢いつけてガバリと起き上がった。趙雲は両腕を顔の前で交錯させていて、表情は伺えない。 だが、その途切れ途切れの口調に、ただ狼狽えた。 「嫌な思い出に触れるような心ない質問を許して下さい。だれだって最初から力など持ち合わせていない。 あなたがそのままの強さであった訳はないんだ。失念していました」 寝そべる趙雲の側でつい身を正し背筋を伸ばした。だが――腕で顔を覆ったままの趙雲の口元がヘラリと歪む。 心底嬉しそうに。 「いい根性しているな」 「そうですか?」 「この――!」 腹に一発打ち込んでやろうと振り上げた腕は簡単に捕らえられ、そのまま彼の胸に抱きとめられる格好に なる。それを厭ってもう一方の手で体を支えた。 屈辱的な体勢だと睨む諸葛亮を認めて趙雲はもう一度笑った。 「下草が長くてよかったですね。だれにも見咎められることもありませんから」 「咎められる行為など最初からしなければいい。離して頂こう」 「確かにここは気持いい。眠たくなってきたな」 「寝るなら一人で寝ろ。私は執務に戻らなきゃならないんだ」 間延びした欠伸を盛大について全身の力を抜いているくせに、諸葛亮の腕を取った手だけは離そうとしなかった。 引き抜こうと力を込めても、びくともしない。噛み付いてやろうかと思ったそのとき、ぞくりとするほど 低い囁きが落ちてきた。 「孔明どのは琅邪のご出身だそうですね。徐州、彭城。下ヒ城。泗水。その当時お幾つでした?」 その穏やかな語りかけにビクリと体が反応する。 あれから十年以上も時が過ぎているというのに、未だに土を蹴る馬蹄の音が耳から離れない。脳裏に 刻まれた惨劇と血臭。そして地を這うように遅い来る地鳴り。 体のどこかが震えていた。 体じゅうのどこもが覚えていた。 「先ほど私に謝る必要などなかったのですよ、孔明どの。助けられなかった痛い想いなど、だれだって 抱えている。私だけではない。あなたもだ。人を傷つけることに異常に反応してしまうのは、あなた自身の 傷が癒えていないからではないですか」 「……」 「忘れるという行為は人の心を守るために機能する。どこか引きずっていると、思わぬところで片鱗を現す。 それは全体を俯瞰する立場にあるあなたにとって不利に働きませんか。私情と予断に繋がりませんか」 忘れないと誓った。忘れられるはずもなかった。痛みは推進力になるとも。しかし、怯えがどこかに 存在する。 曹操に対する。 「一端を担いたいと思ったんだ。あのような暴挙を少しでも阻止できるような」 ポツリと彼は語り出した。 「私如きが出櫨したからといって、速やかな安息がもたらせられるとは、いかに傲岸不遜だろうと考えちゃいない。 何かの楔になればいい。そうありたい。けれど私が恐れているのは――」 気づかないまま曹操と同じ轍を踏まないとは限らない。 大義の名の元に。 趙雲は小さく嘆息をついた。この生真面目な男に言ってやりたい。 人は、心の底から畏れている道を 気づかないで進むことはけしてないと。考えられる範囲の危惧は回避できると。 だから怯えを自覚すればいいのだと 「大丈夫ですよなんて安請け合いしかできないですけどね、わたしには。まぁ、いま言えることは、 力を抜いて私にもたれかかったらどうです、かな」 「それとこれとどういう関係があるんだ」 「なんとなく気持いいですから」 「趙雲どのの話はどこに要点を置いているのか分からなくなる」 「私の任務はほんとうに多岐に渡っているんですよ。身辺警護から心の支えまで。実に有能だ」 「いつ心の支えになってもらいましたか?」 「気づかれていない事実が大事なのです」 押さえがなくなり腕を引き取りそのまま横になる。 実に有能。それは確かに。 拘りやささくれが取れた訳ではないけれど、一緒にいて苛立ち以上の何かを与えてくれる。 この先、隣に並び立つ者として彼を失望させる真似だけはしたくないと思う。 それだけは確かに。 鼓動がやけに早い。 目を閉じると何かが唇に触れた。 風がとおっただけかも知れない。 こんな気持のいい季節だから。それもあり得るかなと諸葛亮は思った。 ――了
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季節感まったくなし。長閑な話が書きたくて、たぶん春口でしょうな。(いまは
秋なんスけど?) しかも頭沸いててごめんなさい。さぼりてぇ! そんな気分如実〜。でも趙雲さん みたいな人が迎えに来てくれたら、とっとと、仕事に戻るだろうな、あたし(苦笑) 久し振りなのに、こんな バカップルな会話のみで ひたすら平伏〜で逃走〜。 |