真夜中に寒さから目が覚めた。 諸葛亮は細長い手足を折り曲げて、もう一度褥にもぐりこむが、冷え切った末端神経は 今一度の安眠を妨害してくれた。仕方なく起き上がり夜着の上から袍を纏い自室を後にする。 りんと冷えた月の美しい夜だった。 建安十三年、荊州領内の出城、樊城。 今現在、南に荊州刺史、劉表が腰をすえる襄陽城を死守する最後の砦となっている。ここより六十キロほどの北に位置し、 華北に一大勢力を展開する曹操からの脅威に晒されていた新野城に、曹操軍が到着したという情報はすでに掴んでいた。 襄陽城の方針はすでに降伏の方向で決定している。彼とて、王師という錦の御旗を掲げる中原の大軍と、やり合う無謀さなど 持ち合わせていない。だが、降伏はしない。劉備陣営を上げて逃げる。ただ逃げるのではない。 歴史に名を残す逃走になるであろうと思う。その方法も方向も何度も確認をした。数は少ないが、勇猛果敢な将軍たちには それぞれ役割を分担してもらった。それが最善の策だと主公が決めた。なのに――。 ただ、月明かりだけを頼りに中庭に出た。寒さからか震えが来る。袍の襟元を合わせた彼に声がかかった。 「こんな夜更けになにをされている?」 声のした方向に視線を移すと、壁に背を預け胡坐をかいた趙雲がいた。不思議なものを見たように少しの逡巡のあと、諸葛亮は 彼の座している方へ進み、同じようにペタリと座り込んだ。何をするんだと言わんばかりに身じろいで、趙雲がその間隔を少し 空けたのには笑えた。 「趙雲どのこそ、眠れませんか」 「あまりにとぼけた作戦に憤りを感じまして」 作戦立案の当事者を前にして、腕組みをしたまま憮然と告げる。可笑しくなってつい吹き出してしまった。 「忌憚のないご意見、確かに賜りました」 まったくここの人たちは――。主公の義兄弟である関羽と張飛の両将軍といい、この趙雲といい納得がいかなければ胸倉を 掴まんばかりに詰め寄ってくる。だが自身の得心がいけば、その去り際も毅然としている。今まで文人や学者、書生といった 人たちとしか交わってこなかったから、かなり新鮮だった。 「将軍たちには見事に逃げていただきます」 「てっきりおれが殿だと思っていた」 彼の不満はその点にあるようだ。 「張飛どのが殿ではご不満ですか。主公のご家族をお守りする役目の方が忍耐が要ります。ですから趙雲どのだったのですが」 そんなことは分かりきっているというふうに、彼はそっぽを向いた。それを見てクスクス笑う諸葛亮を睨みつける。 「張飛よりおれの方が辛抱強いなんて決め付けてしまってよろしいのか。出会って間もないというのに」 「土壇場であなたは冷静になれる人ですよ。滾っていても芯は冷えている」 「買いかぶられたものだが、武人とは芯が冷えていようが、ここぞという時に周りなんか見もせずに打ち合いに 走ってしまうものです」 彼は目の高さに掲げた両の掌をぐっと握り締める。あたかもそこに曹操の首があるような力の入れようだった。 「わたしはね、趙雲殿。今後一切主公にもあなた方にも、戦場での見事な散り際なんて用意して差し上げませんから。 勝ち目のない戦は断然回避します。主公とあなた方とこの陣営を守るために、わたしは存在すると思ってください。 だから綺麗に逃げ切ってください。ご家族を守って、出来るだけ多くの民を連れて。そして生きて夏口でまみえましょう」 襄陽から南へ逃げる道は二本。一本は真南に位置し、荊州の一大兵站基地がある、江陵。当然大軍で大遠征を行ってきた 曹操軍は、物資の補給のためこの地を目指す。その行為を阻止するべく、劉備軍は江陵に向うであろう、という読みすら 囮に過ぎなかった。江陵へと見せかけて主従は夏口へ向う。 よく考えたものだと、趙雲は隣に座して背を丸くしている異質な男を見た。 初めて新野の城で主公から紹介されたとき、そのあまりの華奢な痩躯に眉根が寄った。幾分緊張していたのか、表情は硬く 青臭い印象しかなかった。役所に入り浸たり民と税の把握に精を出しているかと思えば、兵舎にも足繁く通って、武将たちに 多少疎まれながらも編成に口を出したりしていた。一所に落ち着かないというか、流れるように場内を闊歩し、瞬く間に 新野と劉備軍の情勢を把握してしまったようだ。並みの管理能力ではないと見直したりもした。 その男の雰囲気が幾分柔らかい。緊張からの反動だと見抜くのにそう造作はない。 「簡単に言われる」 「簡単そうにでも言わないとやってられないでしょ」 「将軍がたには、作戦を承諾していただいたことを感謝しています」 「主公のご決断に我々が逆らえるわけがあるまい」 けしておまえに従順したわけではないと、面と向って言えるこの人を頼りに思う。これで少しの信頼は得ているのだと 知っていた。出会いは酷かったな、と思い出すと自然と笑みが零れる。 「決戦を前にえらくご機嫌だな、孔明どの。それとも緊張のあまりたがが外れましたか」 「いえ。新野の城でお会いした折のことを思い出しました」 「覚えがないな。無骨な私が何か失礼でも」 「白々しい。兵練場へ赴いたわたしに、槍を突きつけられたのはどなたでしたっけ。そのあとの台詞が決まってましたね」 「「賊かと思った」」 二人同時に発せられ、つい吹き出す。 「おれは、槍を眼前に突きつけられ、微動だにしなかったあなたの胆力に感嘆させられたな」 「違いますよ。びっくりして腰が抜けて動けなかったんです」 「それもどうだかな」 あのとき、この繊細な風貌の男はニヤリと笑った。趙雲の殺気の量を見極めていたのだと思う。そう告げると、 「ニコッでしょう。あなた相手にニヤリと笑うほど命知らずではありません」 的外れな返事で矛先をかわす。 彼を目の前にして感じる苛立ちは、この侮りがたさにある。趙雲は関羽や張飛とは違い、 この秀麗な男が主公の寵愛を独り占めしたところで、何の感情も沸かなかった。ただ、一目見たときから苦手だと 感じた。その容貌も、立ち居振る舞いも、言葉の進め方も。何もかもが。だから今まであまり関与してこなかった。 彼もその気配を感じているだろうに、今夜はやけに人懐っこい。やはりこの人を食った男も、不安に苛まれているのだと 思うと少し親近感が持てた。 「あなたの仰るとうり逃げ切りましょう。こんなところで死ぬわけにはいかない」 「よかった。あなた方はすぐに戦場で死ぬ準備は出来ていると言われるから」 「それは出来ていますよ。しかし、思えば主公に陽の目を見せて差し上げていない。折角眠れる龍をたたき起こしてご 出馬いただいたのだから、瑞雲となって湧きあがり空を覆いつくしていかれるのだろう。それを見ないで死ぬ手はないな」 「詩的な表現痛み入ります。主公という雲を形づくるのは今までも、そしてこれからもあなた方なくしては ありえません。肝に銘じておいてください」 「そういう扱われ方は性に合わない。手駒の一つとでも使われればよい」 諸葛亮は小さく首肯する。さやっと衣擦れの音の後、優雅に立ち上がった彼は白い月を背に拱手した。それを 趙雲は眩しそうに視線を絞って捕らえる。 「お時間を取らせましたね。お話できてよかった」 「それは何よりだ。気をつけて戻られよ」 立ち去りかけた諸葛亮の歩みが止まった。ふと振り返った表情は、ほんの刹那、えも言われぬもの悲しさに溢れていた。 察した趙雲が立ち上がり彼との距離を詰める。 「悲しまれてはいけない。あなたは何があっても。今までも我々が進んできた道の後ろには、犠牲となった兵や無辜の民の 無念が息づいている。それを己のせいなどと感傷に浸っている暇などありはしないし、悲しんだところで彼らの無念が晴れる とは思えない。我々にできることは民の安寧を信じて進むことなのだから」 申し訳ありません、と掠れた声が返った。 「現状を把握して、何度も反芻して確かめて、それが最良だと信じても、どこかに綻びは生じてきます。 それすら計画の範疇内だと帷幄の中では断言できましょう。しかし一歩戦場に出てそんな机上論が通用するのか、ただ……」 ただ、震えが止まらないのだ、という彼の指先は小さく慟哭を刻んでいた。 手を伸ばせば届く距離。力を込めれば折れてしまいそうな華奢な肩に指先が触れた。そう知覚したときにはすでに彼は趙雲の 腕の中にいた。小さく飲む息の音に煽られたように、なおいっそう力を込める。何をしているのだと、どこかで理性の警鐘が鳴る。 しかし趙雲がその手を緩めることはなかった。 「……将軍」 「不敬を働きましたことをお許し願いたい」 「いえ……」 少し、ほんの少し宙を浮いていた手を趙雲の背に添えた。コクコクと息づく彼の命の音。守られているとも守りたいとも 思える暖かさに、溢れくるものがある。 不安を取り除く言葉はいくつももらった。そして自分を信じている。それでもこの暖かさに適うものなどない気がする。 「いま少し……趙雲どの」 冴え冴えとした月の綺麗な夜だった。 |
あっ甘〜い。決戦を前になにやっとんじゃの二人です。趙雲さんはもう少しクールに
終わらせようと思ったのですが、楽しかったので進めちゃいました。二人に愛はまだないでしょ。芽生えるのは
もう少しあと (引っ張る引っ張る) |