かぎろひ ――陽光




 季節が変わる。
 艮の方角からの情け容赦のない吹き返しの風がそれを伝えてくる。
 陸風は長江の川面を玻璃が転がるように波立たせ、細身の体を情け容赦なく弄るように通り過ぎてゆく。 それは北からの脅威と災いを、この地にもたらす禍つ神である自身の非難にさえ思えた。
 広大なこの大陸を東西に走る大河が二つ。
 北方に古より文明が栄えた黄河。その名が示すとおり、含有土砂が多く重量感溢れる黄色いうねり。 そしてこの荊州と江東とを分断する長江。水量が豊かで大型船の運行が可能で、故に東呉と荊州は太古より水軍 が発達してきた。そして今、それまでの野戦とは異なり、荊州と東呉の水軍が主力となった大戦が始まろうと していた。



 建安十三年、去秋。
 襄陽から縦に流れる漢水と大河長江とが交わる地、夏口。
 目の前を流れるうねりはそのどちらでもなく、そして次第に相まって黄海へ。この流れを東に下ると、東呉の 若き盟主、孫権の本営がある柴桑へと到達する。
 長江を隔てたかの地は独自の文化を持つ。 その地に鬼神を引き入れて戦場に変えようというのだから、おさおさ 真っ当な末期を迎えられよう筈がない。そう思って一歩水面に近づいた。途端に彼の背後に控えた将がそれを 押し留めようと声をかけた。
「屈原の真似でもなさるおつもりか。何の意図かは知れませんが、泪羅(べきら)の川は今少し南ですよ、 孔明どの」
 くすりと微笑み、趙雲どのの嫌味は一味違いますね、と黒衣の男諸葛亮は彼の主騎を振り返った。



 漢の左将軍、宜城亭候、劉備玄徳を同じく主と定め、幕下にその名を轟かせる無骨なその男は、 川面近くの大木に身を預け腕組みをしたままで口の端を上げていた。不撓不屈に漲る堂々たる偉丈夫。 だがけして巨漢というのではない。 気配りに長け、物腰も柔らかく常に平常心を崩さないその様は、山賊あがりや野武士の集団といった観のある 劉備軍において異質であると言えた。
「残念ながら、この季節に入水する程酔狂ではありません」
「では水量でも測りに行かれましたか」
「それを測って何の利があります」
「どの程度の大型船が航行できるのか、身をもって確めに行かれたのかと思いました」
「既に調査済みです」
「それは結構」
 諸葛亮は軽く睨んでその場を離れた。
 背後にある彼の国からの使者はまだ来ない。劉備陣営上げてその来訪を痺れを切らせて待っていた。 本当に来るのかと訝る声も聞かれる。しかし東呉とて北からの脅威に 立ち向かうには単独では挑めない。必ず来る。遠からず。
 中原を揺るがせて南下する曹操軍をこの地に誘った。それもこれも 孫権との同盟を当て込んでの所業だ。あとは同盟に向けての瑣末事に、己の三寸不爛の舌先でもって優位に運ぶ。 そうなると徹底的に冷徹になれる自信はあった。
「早く戻りましょう。あなたに風邪でも引かれたらことだ」
 足元からくる冷気に、薄着の男を案じて趙雲が堪らず声をかけた。御託を並べようが引っ張ってでも 連れ帰るつもりだ。 二人並んで川面から離れた。
「孔明どのが風邪を引けば材木商が儲かるという話をご存知か」
 先を行く諸葛亮から少し遅れてついてくる趙雲が飄々と軽口を叩いた。
「何ですって?」
「市井で専らの噂です。孔明どのが風邪を引けば政務に支障を来たす。すると主公が狼狽える。 それを見た張飛が苛つく。 当然街に出て浴びるように酒を飲む。喧嘩っぱやくなる。屋台が壊れる。修理に大工が借り出される。材木商が 儲かるという寸法だとか」
「よく出来た話だ」
「主公が狼狽たえられて、関羽どのの機嫌が悪くなって、歩兵隊への訓練が一掃厳しくなり、劉備軍の底上げが なされるという有難い筋書きもありましたな」
 屈託なく笑う秀麗なこの男を見て、陣屋を出て正解だったなと趙雲は思った。
 気取らせたら秀逸を誇る彼の表情が綻ぶさまがやけに眩しい。
 当人は真っ向から否定するだろうが、この年若い軍師は意外なところで忍耐力がない。ひた隠しに しているらしいので敢えて告げる不敬には及ばないが、今回のようにただ待つことには耐え性がなかった。 または精神的にも肉体的にも、逼塞感が堪らなく嫌なのだろう。



 彼が劉備陣営に出仕してからこの方、いかなる場合にでも張り付く護衛を極端に嫌がった。 ほぼ、主公と同格で同数の隋人が纏わりつく。数名で背後を固める。それは当然の対応と諦めるかと思えば、 穏やかで聡明なだけの男と認識していたこの軍師は、隋人をまいてでも行く先不明で 執務室を飛び出そうとするし、誰にも気づかれず城下に出ていたということもあった。無事に戻ったと安堵もし、 それでは示しがつかないと叱責され、逆ギレして主公に詰め寄る無謀をしでかした。
「無くせとは言いません。数を減らしてください。私は移動の時に思案することの方が多いんです。 ああ周りを取り囲まれ たら、気が散ってしょうがない。纏まるものも纏まりません。主公は私の邪魔をなさるおつもりか」
 いくら先まで晴耕雨読の天も地もない自己中心な生活を送っていたとは言え、その言い草に周囲が色をなした。 敬愛する長兄への侮辱 と、関羽が――慢心も大概にせい、と青龍刀を突きつけたくらいだ。それに対して劉備は流石だった。
「考え事をしながら道を歩くのはよくない。柱にでもぶつかったらどうする」
「そのような不始末、仕出かしたことはございません」
 思わぬ反撃に流石の諸葛亮の肩が震えた。  周囲、腹筋を抑えて堪える中、主従しばし無言の恫喝のあと劉備の方が折れた。腕の立つ者一人に絞ろうと。
 なぜか末席に控えていた趙雲に皆の視線が集まり、欲しくもない白羽の矢を拝領する羽目に陥ったと確信した。 苦虫を踏み潰した表情を隠そうともしない趙雲を、彼は冷静に観察していた。 心底小面憎いと思った。



「長江まで出てみたい。よろしいですか」
 新野を追われ、樊城、長坂を経てたどり着き、夏口で張った陣屋の一室で、そう告げられ趙雲は 少したじろいだ。
 趙雲が主騎としてつき、少し離れた位置から警護するようになってからも諸葛亮の 放浪癖は変わらず、彼の存在などないように振舞う。ただ趙雲は、行く先も告げず歩き出す軍師のお守りを黙々と こなしてきた。そのつかず離れずの距離がよかったのか、目に見えて強張っていた諸葛亮の肩が穏やかに 緩められたこと に安堵した。有体に言えば護衛役として、対象相手を見失う失策だけは避けたかったのだが。
 しかし、このように承諾を得ようとする言葉など初めて聞いた気がする。己の立場と集団生活の何たるかを 体得しだしたのかも知れない。ありがたいことだった。
 そうして公認の視察の帰り道、忍び笑う趙雲に気を悪くしたのか、彼はプイと表情を引き絞り歩調を 上げて歩きだした。 さながら何かの感情を持て余しているかように。頑是無い子供のように。
 乱立する木々の間を覚束ない様子で進む諸葛亮に、堪りかねた趙雲が並んだ。足元が不如意だからと差し伸べた 手に、やや躊躇いがちに添えられた華奢な彼のそれは、芯から冷えていた。指先だけでも包み込めるようにと 熱を与える。少し傾斜のあるこの場所が、今暫く続くことを願っている己を知り周章した。 望むらくはこの感情の正体と、生地のまま向き合いたくはない。
「仕官なさる前は隆中で自給自足の生活をなさっていたとお聞きしましたが、この手で鍬や鋤を持たれて糊口は 凌げましたか。何やら痛ましい限りです」
 沈黙に怯え前方を見据えたままで問いかけた。趙雲の嫌味など肩ですかして、彼は何やら偉そうに顎を上げる。 冷たかった諸葛亮の手は少し温もりが戻ったようだった。
「腕っ節や豪腕で作物は育つものではないでしょう。収穫量は付近の誰にも引けは取らなかったな。それだけでは ありません。一応、剣術の真似事もこなしました。腕に覚えのある兄弟子に教えを請いまして。 けれども少しも形になりませんでした。兄弟子に言わせると私は――」
「先読みし過ぎる?」
 答えを待たずに予想をつけた趙雲に切れ長だった筈の瞳が大きく膨らんだ。苦衷が察せられる悔しそうな表情に 溢れるものがある。
「予想をつけること事態は悪くない筈ですが」
「仰るとおりです。どう動くか。次はどの手で来るかはじっくりと検分すれば自ずと明らかになるもの。しかしそれでは 初見の相手や先の先を制する一撃を持った相手には通じませんな」
 趙雲の手に添えられていただけの諸葛亮のそれに力が込められる。横に並ぶと少し目線の低い相手。見上げる瞳に 吸い込まれそうな一条の光が過ぎった。
「先の先か」
 何か別の構想へと彼の意識は移行したらしい。



 孔明の好きにさせよと主公は言った。戦略に沿った戦術を実現可能な水準にまで引き上げた男の、手腕にかける しか生き残る術はない。全幅の信頼に怯えを見せる程の可愛げなどあろう筈がなかった。
 総て一任された東呉との交渉。彼にとっても初見の相手との駆け引きは考えあぐねるものがあったのかも知れない。
 組み立てられる情報と使い道。選ばれる言葉と手順。そしてその時期。止まっていた時が動き出した。
 その思考を中断させるつもりは毛頭なかったが、中空から銀糸を揺らめかせて飛来する一匹の蜘蛛。手を伸ばそうと、 しかしそのまま諸葛亮の黒衣に取り付くまで待った。肩の辺りに着地したその小動物を指伝いで引き取った趙雲は、 満足そうに微笑えんだ。
「よい先触れだ、孔明どの。蜘蛛が下がって衣服に付くのは、待ち人が来る前兆と申しますから」
 趙雲は未だ銀糸に取り付くそれにふうーと風を送って飛翔を助けた。糸が遊び、光を弾き、草木にたどり着く様を 諸葛亮はじっと見ていた。
「陽炎――」
「蜘蛛の子が糸を出して風に舞う姿を古くはかぎろひ、と呼ぶと聞いたことがありますな」
「陽炎、稲妻、水の月とは手に取ることの出来ないものの喩えですよ、趙雲どの」
 底意地の悪い笑みが返された。
「しかし、朧気ながら、」
「陽が差し輝く見立てと申し上げたい」
 僭越でした、と趙雲がその先を引き取った。繋がれた手はそのまま二人は歩調を上げた。
「蜘蛛が下りて云々とは趙雲どののお国の伝承ですか?」
「常識だと思っておりましたが」
「初耳ですね。先の見通しの明るいことからの昔伝えなのかな。蜘蛛自体にその意味はない。浮遊する様が陽炎 と酷似しているからの発想だと思っていたけれど――」
 何か一書生に戻ったかのように探究心むき出しで語源の後先を思案している。足場の悪い傾斜が途切れ、あとは平坦 な道ばかりで支えはもう必要ない。しかしその事実さえ忘れてしまったかの集中の仕方だ。これなら肩を抱いたとしても 気づかないかも知れない。 考え事をしながら歩くとぶつかると案じた主公に食って掛かっておきながら、 なかなかの不調法ぶりだと趙雲は苦笑した。



end



決戦を前に他愛のない会話を楽しむ二人。
私、趙雲さんが仏頂面で嫌味、真顔で冗談ってのが 好きなんですよ。次回はもうちょっと軽快な会話が繰り広げられるように精進したいです。
趙雲さんは何せ放浪の騎士ですから、口碑伝承系には強そうかなと思いました。