
それはどこの辻や村境にもひっそりと存在する普遍的なものだった。
通り過ぎるときにはそこに置かれた意味合いから礼くらいは送る。けれど危急の場合頼むのは己の才覚だけだと、倣岸
ながらもお守りぐらいにしか考えてこなかったし、ましてやあれほど真摯な眼差しを向けたことは一度もない。
あの男も同類だと思っていた。
傑出した戦闘能力を持ちながらも、一枚も二枚も上をゆく曹操の諜略によって丸裸にされた男。苛烈な運命は彼に
係累を残そうとはせず、それでも絶望の淵から這い上がり足掻き続け、敗軍の将となりながらもけして曹操に
屈しなかった男。
西涼の馬超孟起。
その男が道端に膝をつき、麻布を手にして無心で汚れを落としている。
「なにをやっているんだ、あの男は」
落としたばかりの成都の視察に出ると言って聞かなかった諸葛亮の護衛にしぶしぶ付き合った趙雲が、その姿を
見咎めて声を出した。気になるのか一歩踏み出した趙雲を諸葛亮は留める。敬虔な信者の祈りに似て、触れては
ならないような、むしろ触れさせないような気がしたからだ。
背後に佇む二人の存在すら五感に入れず馬超は石造りの置物を無心で清めている。
それは総ての災厄の侵入を防ぎ悪鬼から村人や通行人を守るといわれた、さえの神――道祖神だった。
成都を目の前にしたらく城攻略に手を焼いていた劉備軍は荊州の守りを関羽に任せ、それまで
温存していた兵力を三つに裂き、先に江州から南部を平定させて成都を孤立させる作戦に出た。らく城に篭った劉璋軍
を心理的に追い詰めて開城させようとしていたまさにそのとき、軍師として従っていたほう統が流れ矢に射られた
という。諸葛亮はその報告を合流した劉備から直接聞いた。
「三十五だそうだな、孔明」
「そのくらいになりますか」
「おまえとは兄弟同然だと聞いた」
「血肉を分けた兄弟よりも彼が理解でき、それ以上に思惟を読み取らせない男でした。なぜそのような軽装で
視察などに――」
恐らくこの場に彼の優秀な主騎がいれば、どの口でそんな常識を語るのか――と盛大に詰っただろう。ふらりと
護衛もつけずに出掛けるのは徳操庵出身者の特有なのかもしれないが、そんな特性などこれっきりにしてもらいたいと
願うのは劉備も同じだった。
身を切られるような懇願と言っていい。
「らく城を前にして一年。焦っていたとしか思えぬ。おまえの影を感じ取ったと言えば孔明を責めているように
聞こえるか」
「いえ、だれもがだれかの影響を受けて意識して武装して生きているようなものでございますから。ただ、
なにも焦る必要はなかったのに」
そう呟いた語尾は掻き消えた。
大事を前に泣き言を感じさせない男の頑迷さがいっそ哀れですらある。
諸葛亮の代わりに劉備が涙を見せた。その姿に救われた気がする。ほう統も浮かばれるだろうかと。
意見を違えることも確かにあった。性質が違いすぎた。しかし、ただ物事の積み重ね方が異なるだけで、面白いように
同じような到達点を持った男だったのだ。突出した部分を持ったふたり。山になる部分と谷になる部分が違うだけに、
絡み合って歯車のような強い力を生むだろうと目をそばめていた矢先のことだった。
そのあと巴郡から巴西の掃討戦を成し遂げた張飛が、そして少し遅れて長江を遡上して一番多くの城を抜いてきた
趙雲の部隊が到着すると劉備軍はさながら戦勝の賑わいだった。劉備軍に援軍現るの報を受けて孤軍奮闘していたらく城も
遂に力尽き、益州の最後の砦を失った成都も連鎖するように無血開城を迎える。
沸き立つ中、嘗ての朋友の死を悼む暇も瞑目する時間も与えられずに、落ちた成都の執政が諸葛亮を待ち受けていた。
「こないださ、馬超に会ったぜ」
まるでご近所の幼馴染にばったりと出くわせたような調子で張飛が口火を切ったのは、主従一同が会した夕餉のときだった。
処務の疲れから諸葛亮の反応が一瞬遅れていると、「会った? やりあったのではなく?」と、趙雲が当然の
疑問を挟んでいる。
「おうよ。らく城のちょい手前くらいだったかな。えらい不気味な殺気を漲らせてるくせに、その矛先は俺たちを
見てないんだな、これが。この張飛さまをだ。けしかけてやろうかとも思ったが、趙雲とどっちが先に?城入りするか
賭けてたし、仕方なく諦めた。まさに真横を抜けてきやがった」
「ほう。その殺気に臆したか」
「おまえとの勝負の方が大事だったんだ。あり難がれ!」
「それは光栄だ」
「やはり俺の部隊は最速だ。おまえんとこより二日も速かったんだからな」
「一日半だ。それに、俺の落とした城の数の方が多かったんだよ、張飛翼徳」
「その分、船で楽してきたんだろうが。こっちは大平原を駆けっぱなしだったんだ」
「ただ突っ走っていただけだろうが」
「なにぉ!」
賭けの内容は知りようがなかったが、これ以上続けさせていると恐らく口喧嘩が子供じみてくる。劉備がその場を
引き取った。
「西涼の馬騰どのの子息か――」
「雍州で夏侯淵の部隊に破れて敗走中と聞いておりましたが」
「じゃ、その帰りだな。けど行くとこあるのか、あいつら」
その言葉を受けて、殿、と諸葛亮は立ち上がった。劉備は頷く。主従の様子を見て取った趙雲は斥候の兵士を呼んで命を
出した。動き出した局面。なんだ、食わないのかと張飛は構わず食事を続けていた。
斥候が戻るのを待ち、献上の品とわずかな手兵だけを伴って諸葛亮は馬超の陣営に訪いを入れた。慰労に参りました
と訪問の意を伝えると、暫く待たされたのち、西涼太守の遺児はどうにか警戒を解き幕舎に招き入れてくれた。
連戦に継ぐ連戦で、実際だれもかれも疲れ果てている。食料や医薬にもこと欠き、それでも士気を保っていられるのは、
うえに立つ者の姿勢が兵卒に至るまで浸透しているからだろう。ひとりの猛将として、そして一軍を率いた将帥としての
意気のなせる業とも言えた。
お疲れでしょうと対外的な笑みを零して労えば、異国の相をした男は存外素直に彼らの品を受け取った。勢力が増大
してきているとはいえ、いまだ劉備は領土を持たない流浪の領袖。西涼太守の長子としては矜持の高さから頭など死んでも
下げたくはなかっただろうが、血肉を分けた部下たちの逼迫した現状からか、寡黙な男は瞑目して礼の言葉を呟いた。
「かたじけない」
「単刀直入に申しますと、馬超どのには客将として劉備軍に加わっていただきたく参上いたしました」
「客将? 麾下に下れではなく?」
「それは余りにも礼を失するとわが主公は申しております」
「それほど持ち上げるほどのこともあるまい。出自を気にするなど劉備どのらしくない」
「主公が気にしているのは出自ではありません。馬超どののお気持でしょう。あなたにはあなたが鍛え上げてきた騎馬軍団
がある。わが軍にも同様の律があります。それを混成させるのはどだい無理な話です。馬超どのの流儀でこの精鋭たちを
率いて行っていただきたい」
「では、この男の騎馬隊はどうなのだ」
馬超は諸葛亮の真後ろに控えて一言も言葉を発していなかった趙雲を顎で杓った。彼のなにと比べたがっているのだろう
とは素直な感想だ。
「劉備軍にはこの趙雲と張飛の二大騎馬隊が存在します。それぞれの将帥の采配が異なり、まったく違った働きを
見せると言っても過言ではありません。そして荊州には関羽が育てた歩兵もおります。三人ともただの武将ではありません。
一国を率いることの出来る将帥だと自負しております。ただ、わが主公に身命を賭しておられるだけで」
「それを俺にも倣えと」
いえ、と諸葛亮は即断した。
「わが主公と馬超どのとはただ一点で繋がってくだされば宜しいのです」
――すなわち曹操の首。
渋面のままだった馬超の口元が目に見えて綻んだ。
「面白い。わが一族の弔い合戦に劉備どのが手を貸してくれると思っていればよいのだな。その機会を与えてくれると。
そしてそれが終われば何処へなと消えろと」
「それはそのときの馬超どののお気持に従いましょう」
そして暫くして成都に錦馬超の騎馬軍団が馬首を揃えることとなる。
成都の視察に出た諸葛亮が一心に道祖神を清める馬超の姿を見つけたのはその直後のことだった。頑なになにかを
拒む背から離れ、諸葛亮は彼の優秀な主騎に問うた。
「馬超どのは、その、どうなのだろう。あなたや張飛どのと少しは打ち解けられたのだろうか」
「さあ。張飛はあの男の騎馬軍団を呂布の再来だと誉めそやしていたようですが、あすの合同演習には、必要ないと即断
されたようです。張飛が湯気をたてていた」
「客将に命令違反もあったもんじゃないか。けど、張飛どのの言うその見事な手綱さばきを見てみたい」
「私は牙を剥いたあの男を知らないから」
「力量を見せぬ相手に過分な期待はしないと?」
狭量だなと哂うと趙雲はヒラリと愛馬に飛び乗り鬱蒼とした目で答えた。
「劉備軍に溶け込ませる必要がおありか? 契約めいた科白を吐いてあの男を放し飼いにしたのはあなただったと記憶するが」
「一族のほとんどを殺された絶望と哀しみの淵に陥っている限り、牙を剥けないのではないかと思っただけだ。
そんな相手では物足りないのではないか、趙雲」
「強欲ですね。麾下ではないと言いながら目新しい強大なものを征服したくなる。そんなものをチラリとでも覗かせれば
馬超は、あなたに失望したと、踵を返して逐電してしまうかもしれませんよ」
「私如きの本質を見抜けなくては、この乱世、生き永らえてこれなかっただろう。けど――」
目新しいか、と不遜にも彼はクツクツと哂った。
「この先、どうあってもつなぎ止めておきたい偉丈夫じゃないか」
「どうあっても?」
「ん。そう思うだろ」
「体でも張りますか、俺のように」
「あなたは私がつなぎ止めてるんじゃないよ、趙雲子竜」
そんなことは分かっていると言って歩き出した彼を趙雲は止めた。
「あこぎな真似はお止めなさい」
「あこぎ?」
射すくめる趙雲の眼差しをスルリとかわし、彼は艶然と微笑む。
「誤解も甚だしい。私はまだこの戦で散っていった同胞たちの弔いも済ませていないんだ。彼に倣って祈りを捧げよう
と思っただけだ」
本当のところどう思ったか定かではない。だが彼はそう言い捨て、鞍上の主騎を残して馬超に近づいていった。
背後でうごめく図りようのない気配。害意は感じられなかったから放っておいたが、そのひとつがなにかの思惟
を持って近づいてくる。物憂いさと陰鬱さを隠そうともしないで馬超は振り返った。
漆黒の道袍がやたらと映える白皙に邪気のない笑顔。その中にどこか心許ない寂寞とした表情を覗かせているのは
彼が覚えている数少ない劉備軍の要素だ。
忘れようがないのは、手を伸ばせばたちまち牙を剥く手負いの猛獣の檻に、ほぼ単身といった軽装で訪いを入れた
豪胆さと、冴えた月を弾いた抜き身の刀身のような容貌だった。白磁を思わせる白さは姜族には見受けられないもの。
それは彼が忌避して止まない漢人の象徴だ。
剣呑さを隠そうともしない馬超の殺気を受けて流して男はさらに近づく。その長閑な背後には、彼が慣れ親しんだ剣気を
漲らせている別の男が距離を保って存在していた。なにやら双方、別の意図があるようだ。馬超は趙雲の
視線を心地よいと感じる己に苦笑した。
「ひとが死ぬと禍神となるか、さえの神となるかは、生前の行いとはまったく関係ないと思いませんか?」
馬超が趙雲に気を取られている隙にその男は、目の前を通り過ぎて道祖神の近くで膝を折っていた。意識を戻され
馬超は視線を落とす。不可思議な男の放った言葉の意味が分からない。
「何が言いたい?」
「らく城攻略の折に私は親友を亡くしました。頭も育ちもいいヤツで別に戦場に身を置かなくても悠々自適の生活を
送れたはずなのに、成り行きで軍師なんかに納まってあたら若い命を落としてしまった。らく城に劉備軍の旗
が揚がるのは目の前だったんだ。彼の無念さは察して余りある。その遺恨を拾って私たちをお守り下さいと
言いたいところだけど、元来の面倒臭がり屋で、きっと、死んでしまったあとのことなんか自分たちでなんとか
しろ、って逆に詰られそうなんですよ」
「だから、なんだ?」
「曹操なんか死んだあとも軍神として祭られそうだと思いませんか? 至弱を持って至強を退け、また歴史的な大敗を喫しても
生き永らえてしまうんだから、これ以上の厄除けはなさそうだ」
「おい! そこの! コイツの言葉を通訳してくれ!」
持って回ったくどい口調で相手を苛つかせることにかけて、この軍師は天下一品だ。普段は理路整然と語るくせに、
いまの馬超にはその論法を取る作戦に出たらしい。
なんの因果か、言いたいことが分かるようになった自分が、趙雲は少し虚しくなった。
「要するに、死んでしまった者には生きている者の都合を押し付けても仕方ないというところか」
余裕の様相で顎を上げた趙雲が馬から降りた。通訳してやるつもりは毛頭なかったのだけど、馬超の眉がこれ以上
ないというくらいに切れ上がるのを見て楽しんでいる自分がいる。
「俺がいつまでも亡き者に囚われているとでも言いたいのか!」
そう聞こえましたか、と返す刀で斬りつける。怖ろしいことに諸葛亮は馬超の体から血を吹き出させようとしている。
彼ひとり生き残った罪悪感を和らげるために、言葉の刃で。
「貴様になにが分かる! 遺恨を抱えてそれを機動力にしか出来ない俺のなにが分かる! 総てを曹操に奪われた
無念が貴様に理解できるのか!」
「理解は出来ません。その怒りはあなただけのものですから。けれど無念を呑んで亡くなった方々を哀れむのは
もう止めにしませんか。それをひとりで背負うには私たちは非力であり過ぎる」
諸葛亮は、そう、馬超のように肉親のほとんどを奪われたわけではない。しかしそれでも彼が劉備軍に参与して以来、
逆に彼が屠ってきた命は馬超の受けた瑕の比ではないのだ。それをいまの彼に理解せよと言うのは無理がある。
それでもこんな形の執着は初めてなのではないかと趙雲は訝った。己からなにかを欲するなどなかったひとなのだ。
いまのいままで。
馬超は弾かれたように諸葛亮の襟ぐりを捻り上げる。趙雲が止める隙もなかった。そして周囲を圧する底冷えのする声。
「俺になにをさせようとしている」
「怒りや哀しみだけでない炎を取り戻していただきたい」
「貴様にそれが出来るのか」
「私は見守るだけです」
「焚きつけるだけ焚きつけておいて、言うことはそれだけか」
「そう、ありたいですから、私も」
――願って。
カチリと趙雲の中でなにかが弾けた。諸葛亮の中のこごった澱をその一瞬に馬超の理解が到達した気がしたからだ。
諸葛亮に課せられた哀しみと馬超が背負った怒り。辻、辻に存在する土着の信仰に祈って昇華させるしか手はないだろうと。
そう到達した彼が、未だに流離っている彼を誘った。
趙雲にはそう見えた。
執着に思えた。
馬超は唐突に手を離す。戒めを解かれた彼は乱れた襟元を直すと、
「あすの合同演習。忘れずに参加してくださいね。張飛どのを怒らせると根深いですし、あなたにとってもきっと有益
だろうと思いますので」
と、言い残して踵を返した。その後ろを追いかけた趙雲を馬超が留める。どうしても言っておきたかったのだろう。
「おい、劉備軍はあんなのばかりなのか?」
「安心しろ。あの方だけだ」
「あれで気遣ったつもりなのか」
「そんな殊勝なものではない。たぶん本気のおまえを見てみたかっただけだろう。劉備さまのために」
殊更劉備の部分を強調した趙雲の真意に敏感に反応して馬超は笑んだ。
なるほど、そういうことか。
「やけに理解が深い」
「短い付き合いではないからな」
「俺は理解が深いと言ったんだ。短い長いの問題ではないだろう」
「持って回った口調が伝染したか?」
なにが言いたいのかさっぱりだと、その場を離れようとした趙雲の背に馬超の言葉が突き刺さった。
「おい、趙雲子竜。俺が劉備軍にいる理由は、曹操の首、ただ一点ではなくなったようだぞ」
それはよかったなと、趙雲はわざと彼の目の前で愛槍を振り回して持ち手を変えた。そのまま立ち去ってゆく
男との間に乾いた風がとおり過ぎる。鉛雲の切れない成都の空は相変わらず鬱蒼と重かったし、彼が背負った
幾万もの無念も晴れることはなかったが、少しくらいの楽しみを謳歌してもよいのではないかと馬超も歩き出した。
――了
十万と十万五千のニアキリのお礼に霧音さまへ捧げます。 お題は劉備軍に参加したばかりの
馬超を気遣う先生とそれに嫉妬する趙雲を頂戴したのですが、なにやら当初の予定とはかけ離れた
色っぽさの欠片もないようなお話に仕上がってしまい、汗顔の至りってやつです。
スミマセン、霧音さまぁぁぁ。これに懲りないでやってくださいぃぃぃ。
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