星降る夜に







 バタバタと幌を軋ませて啼く風の音に、束の間我に返った。



 建安十三年、夏口の劉備陣営。
 曹操の南下に追い立てられ、ほうほうの体で逃げ込んだ劉備軍はこの地に陣を張った。その機を測ったように 足を運んできたのは揚州から同盟締結の使者。
 劉備軍に否応はない。
 揚州の覇者、孫権の名代として劉備の前に膝を折った魯粛に伴って、あす、その地に単身乗り込もうとする諸葛亮 の陣屋に趙雲が訪った。
 主公劉備自ら危険だからと眉をしかめても、長身痩躯のこの男は、艶然とした笑みで懸念にはおよばないと 返すのみだった。月夜に提灯とはまさにこのことだ。
 いまも、趙雲がこのような夜更けに推参したわけを、己の不在による詳細な取り決めと勘違いしたのか、 得々と心積もりを語っている。それを受けながら自嘲気味に哂った趙雲の心情など、 何百年経とうが理解出来ないだろう。
 だからと言うわけではない。
 理由などなく、ただ、危険はないと嘯く男の華奢な体を背後から両の (かいな) で封じ込めた。ちょうど手が合わさった辺りで脈打つ鼓動までも我が物とする。
 腕の中の諸葛亮が音にならないような叫び声を上げた。
「これは契約です」
 込める力加減に押さえが利かず、趙雲は己の狭量さに眩暈すら感じた。



――わたしの元へ戻られることを願います。



 思えば何の脈略もなく、何の権限もなく、よく言えたものだと苦笑が洩れた。相手は主公 寵愛の文武最高責任者。一介の将がどうして繋ぎとめられよう。身の程知らずと詫びればいい。 ご容赦下さいと跪けばいい。そうすればこの無体もなかったことにできようものを、 趙雲の腕が弱まることはなかった。
 諸葛亮の胸の辺りで交差させていた手がそろりと顎の辺りを流離う。彼の喉が 一度深く上下したのを感じて、ますます止められなくなった。手の動きにあわせて趙雲の唇が 彼の首筋に到達する。
「――契約、と言われましたね」
 小さく問われ、彼はピタリと動きを止めた。
「わたしが陣営に無事帰り着くための契約の贄が、己自信だとは笑わせる。一度陣営を発ってしまえば そこは修羅が口を開けて待つ敵地。何が起こるかどう転ぶか定かではないが、わたしが膝を折るのは劉備さま お一人と決めている。約定を違えるような不埒な真似や安寧に転ぶとでも思うてか。するなら曹公が 南下して来た時点でとうに逃げ出している。何を今更――」
 努めて冷静に、絡め取られて波打つ血の流れなど塵ほども感じさせてはならないと、 諸葛亮は冷淡に言い放った。
「それに不敬であろう、趙雲子竜。このような夜更けに訪いを入れるだけでも無作法だと言うに、それ に輪をかけて、わたしの忠義を疑い、このような――この……」
「このような、なんです?」
 言葉の綻びを待つように趙雲の手の動きが早まった。首筋に当てられた唇は贖おうとする動きに 呼応して何度も上下する。いい加減にしろと口調を荒げても、腕の一本下げさせることすら出来ない。 この体勢で身じろぎすれば痴態にしかならない。さらに行為を煽ってしまう。
 力ずくではどうのもならないと、全身の力を抜いた諸葛亮に、揶うような声がかかった。
「おや、抵抗はもう終わりですか? 意外と諦めが早いですね。だからあなたは油断ならないと 申し上げたのですよ。東呉で同じように攻められて、呆気なく陥落しそうだから。あなたに 決断を迫るには何も、言葉の応酬だけではないと教えて差し上げたい」
「不思議なことを言う」
 疲れるからと人形のように趙雲に体重を預け彼は囁いた。
「たとえ首と胴とが離されようと、わたしを意のままに操ることなどだれにも出来ない。これでも結構 頑固なんだ。無理から拘束されようものなら、口をつぐんでしまえばよいし、首筋に刃を当てられたなら、 自ら差し出せばよい。体を蹂躙されるくらい、何程のことか」
「潔い決意、確かに聞き及びました。主公に成り代わりお礼申し上げます」
「本気でそう思われるのならその手を離してくれ」
 ピシリと言い放つ彼の体温が少し高く感じる。身を寄せ合っていたために己の熱が伝播したのかも知れない。 ただそれだけのことが心地よく、聞かなかったフリをして探る手を進めた。
「趙雲!」
「止まらない」
「ば、何を!」



 大きく割られた襟元から進入を許し、直接素肌に触れる趙雲の指先に痺れすら感じる。その間も唇は一所に 落ち着かず、耳朶を弄り鎖骨の溝を行きつ戻りつ五感を翻弄する。肌はさんざめき、拒絶の腕は力を失い、 体中が粟立つ吐き気にも似た感覚が充満するのに、不快だと認識できないこと事態が厭わしい。
 ここで落ちては相手の思うつぼ。踏みとどまろうと贖う先から痺れは直裁に下半身を穿つ。
 いまならまだ収束可能だ。あらぬ声がまろび出る前に、矜持が砕かれる前にと子供じみた 最後の抵抗に出た。
「主公に讒言するぞ!」
「どうぞご随意に。わたしもそれ相当の覚悟で挑んでおりますから」
「一騎当千の名将がこんなところで覚悟を使い切ってどうする! 主公が悲しむ。劉備軍の損失だ!」
「主公は常々よりわたしの木石さに嘆息をついておいででしたから、知れたとしましても、 孔明どのの意に反してお喜びになられるやも知れませんな」
「寝込んでやる! 主公の御前で倒れてやる! その原因が趙雲どのだとお知りになると、きっと お怒りになる」
「本気でしたと申し上げます。事実そうですから」
「清廉な印象が一夜にして塵芥と化すぞ!」
「落ちるならば諸共」
「わたしは!――」
「孔明どの」
 諭すような優しい音色。
「息を弾ませながら仰る科白ではないでしょう」
 耳元で囁かれてつい喘ぎに似た声が出た。



「ん……あっ」
 吐き出された甘い吐息が合図とでもいうふうに、趙雲は諸葛亮の体を牀の上に横たえる。 そのまま両手で顔を覆ってしまった彼を慈しんで、燭台の灯りを吹き消した。
 夜目が利かず、闇の中で貪る肌が次第に月明かりに縁取られてゆく。密着していた体を離し、 朧に差し込む万象なる灯明によって青白く浮かび上がる肢体に、目を奪われる趙雲の視線から、 堪らなくなって顔を背けた。
 漸く手に入れたと思えたのはなぜだろう。
 激情に駆られた唐突な行動だった筈なのに。
 長い長い喪失感。だとすれば出会ったころより惹かれていたと言うのか。
 肩から腕そして指先までと、何度も趙雲の指が肌をなぞる。 まるで体の輪郭を覚えておこうとするかの行為に、諸葛亮はクスリを笑みを落とした。
「何が可笑しい?」
「いえ、きっとあなたはどなたにでも、こうして優しく接しているのだろうと」
「このような場面で無粋なことを仰る。それとも照れ隠しか」
「勘違いしないでください。わたしだって自惚れちゃいない。体が繋がったからと言って、何もかも 理解出来るわけでも特別なわけでもない。趙雲どのは仰いましたね。あなたの元へ戻るようにと。でも、 こんなの手形にもならない」
「確かにそうかも知れませんね。ではなぜ人は肌を重ねる?」
「生理現象」
「あなたが言うと洒落にならないな」
「事実でしょう」
 そうかも知れませんが――と言い放ち、趙雲は更に深く体を進めた。
「趙雲――!」
 小気味よく、諸葛亮が悲鳴を上げる。
「申し訳ないが、この程度では体を繋げたとは言わないんですよ。わたしの中では」



 直接脳に響くような愛撫を重ねられ華奢な体が跳ねた。そのまま細腰を抱き取り、更に強く激しく深みへ。 吐息は喘ぎへと変貌し、体は何度も逃げを打ち、何度も捕まえる。
 矜持の高さから、襲い来る快楽の波を必死にやり過ごそうとする表情を心底美しいと思う。簡単に 委ねるを良しとしない気高さを誇りに思う。そうであるから尚更、その殻を打ち破ってしまいたい 衝動は、何も狩猟本能だけではないだろう。
「ふっ、う……」
 かみ殺す奥歯から洩れる声と眦から溢れる涙を丁寧に掬い取って、趙雲はさらに最奥を穿った。
「――!」
 たとえここで失墜するような快楽を与えても、それは趙雲だけに可能な行為でもない。 だから何の約定にもならない。それは理解している。
 それにこの小憎たらしい美貌の青年が、このまま黙って手の内に入ってくれるとも思えず、 一段登ればまた一段、高みから見下ろす態度で毅然と顎を上げるのだろう。
――いたちごっこかも知れない。
 趙雲自身限界を覚えて、それでもかみ殺す哂いと相まった恍惚感に身を委ねた。



――了






とうとう書いちゃったよお母さんってな感じで、非情にこっ恥かしい!
がんばった割には全然色っぽくならない。これはもう上手い下手の問題ぢゃないよね〜。
で、まあ、これが精一杯つうことで逃走!