風花が一片、二片、背後から舞い落ちる。
 それでも健気にほころびだした白梅の香りに誘われて、 潅木の隙間を縫うように進む文官の姿があった。
 身を切るような催い風に反して、彼はいたって軽装だ。
 片付けてもこなしても引きも切らない執務の合間に、耳が痛いほど静かに降る雪の音を聞いた。 漸く温もりを見せた室内に 名残なく窓を開け放てば、風に乗って運ばれてきた微かな香りに、やにわに部屋を抜け出した。
 元来の蒲柳の質から季節の変わり目は弱い。ぐずぐずと何時までも治りきらない風邪をよくひく。 それを周知している 人たちに見咎めれば眦を決して詰め寄られるに決まっているが、流れ出した水の流れを括ることは 適わず――要するに上掛けを取りに戻るのが邪魔くさい。
 肩も指先も冷え切って、それでもあと少しと歩を進めている彼の頬に、空をも斬り裂かんばかりの 太刀風が鳴った。 空気の振動から枝がわたみ、軋む。風が啼き、気が膨張する。
――だれがこのような……。
 眉根を寄せ、少し前のめりにその無粋な音の発生源へと急ぐ。何度か掻き分けた枝の先に、 その人はいた。
「――」
「趙雲、どの」



 両手で水平に剣を突き立た剣舞の型の趙雲が、気紛れに伸びる枝の中に立ち尽くしていた。 切っ先は来訪者の喉元を狙いすまし、安全圏にいるとは 思えないほどの剣気に心が震えた。
 趙雲の足元には、はらはらと舞い落ちた花片が集っている。けして彼は枝を斬っていたわけではない。 枝と枝の間隙をぬって空を裂いていたのだが、漸くほころびだしたそれに対して無体な所業と、諸葛亮は 渋面を送った。
「このような場所で、何ゆえに剣を振るわれる? 趙雲どの」
 趙雲は諸葛亮を認めると、弾ける汗と共に掲げていた剣を振り下ろした。ブンという音の後に静寂が蘇る。
「あなたの方こそ、そのようなナリでまたお忍びですか?」
「最初に質を正したのは私の方でしょう。敵をも唸らす剣技の美しさを、白梅相手にご披露されていたと 推測いたしますが、 観客がこのさまでは一人舞台と言わざるを得ませんね」
「花弁一つに慈悲を掛けられるとは、これからのあなたの行く末に不安を感じずにはいられませんよ」
 くすりと笑みを落とされて、頬に朱がのぼった。枝を切り落とそうが、根こそぎ花株を引き抜こうが、 非難する資格 も感性も持ち合わせていないが、これは目にした彼の舞姿の美しさに対する妬心なのだと、その事実から 目を背けた。
 枝と枝が触れる位置にまで密接した梅林。その枝を傷つけずに煌く切っ先の美しさに、目を奪われたか のように諸葛亮は 趙雲に近づいた。
 趙雲の腰に佩いているもう一振りの剣に手をかけ、カシャンと振りぬく。何をするんだと言わんばかりに 趙雲がそれを押し留めようとした。
「武人の魂に軍師風情が手を掛けるなと仰りたいのでしょう」
「お戯れも程々にして頂きたい。大切な指に怪我でも負わせたら、主公並び文官たちから恨まれまるのは私だ」
 お返しくださいと差し出された手への返礼として、諸葛亮は先ほど趙雲が見せた同じような型を取った。 趙雲の指がピタと止まる。
「何の真似です」
「お手合わせ願いたい」
「何ですって」



「関羽どの! 関羽どの!」
 厩舎で愛馬の手入れをしていた関羽の元に息せき切って駆けて来る者があった。先ごろ主公自ら膝を折って 帷幄に向え 入れた新参者の若者だ。関羽自身、軍師という役職に重きを置いていないためか、彼に対してはあまりよい感情は 持っていない。ただ、寡黙にやり過ごせばいいという認識でしかなかった。それに黄嘴の輩ごとき甘言をあの 主公が鵜呑みに するとは思えない。ただ関羽が張飛のようにあからさまに年若い軍師へ盾突かないわけは、存外抜け目ない主公 への信頼の厚さに あると言えた。
 その男が血相を変えて近づいて来る。
「このようなムサイ場所に何用ですかな、孔明どの」
 肩で息をつきながら彼は関羽の前に両の掌を突きつけた。関羽の眉間の皺が二割五分ほど増しになる。
「豆が……つ、潰れて……」
「はぁ、確かに潰れてますな」
 かざされた掌の白さと、その指の付け根辺りで潰れた皮膚の赤さとの対比に気の毒とも思うが、 それがどうしたというふうの関羽に、諸葛亮はさらに手首の痕も見せつけた。打ち身なのか、ほんの少し赤く なっている。
「手首近くも叩かれて、剣を叩き落とされました」
「あー、軍師どの……」
「このままでは夢見が悪い。なんとか意趣返しをしないことには気が治まりません!」
「ですから」
「私だって適うなんてこれぽっちも思っちゃいないさ。それなのに適当にあしらってくれて! こちらは本気だった んだ。それなのに、適当っていうのが 一番腹に据えかねると思いませんか、関羽どの」
「……」
 近頃の若者にはついていけんと、踵を返そうとした関羽の袖を諸葛亮はガシっと掴んで離さなかった。
「是非とも関羽どのにご教授願いたい!」
 必死の形相に関羽は思わず後ずさりをした。



 趙雲がせせら笑ったというのだ。
 手合わせを願い出たこの軍師に対して。
 どこでどう間違って二人が刃を交す修羅場に発展したのかは理解できないが、あの男がそんな不敬をする筈 がないと思った。だが、何とかその趙雲に一矢を報いたいと懇願され、口篭ったが 最後。気の利いた断り文句一つに戸惑い、これが部下ならば一蹴するものをと後悔しているうちに、彼の修練に 立ち会わされていた。関羽雲長。力ない者の頼みを無下にできない。
「趙雲相手に、その程度の傷で済んだことを僥倖と思いなされ」
「私だって何時までも戦えませんじゃ済まされませんからね。何か一つでいいんです。自分より遥に強い相手 と向かい あったときに対処できる方法をお教えください。それがひいては、趙雲どのに一泡吹かせられることに繋がる」
「人に教えるのは儂よりも趙雲の方が丁寧だという噂だが」
「相手にしてくれませんよ」
 ふむ――と関羽は自慢の顎髭に手を添えた。
「武器を振るうのは、我々武人にお任せ願えますか。貴殿には他にせねばならぬことがござろう。 趙雲もそう言いたかったのではないかな」
 分かっておりますと俯きながら、諸葛亮は口籠もった。
「いつも守られてばかりでは気が引けます。護身術を――ほんの少しの時間稼ぎが出来るくらいの。 私をお守りくださる 方々が間に合わない場合もございますから。新参者の身の程知らずと言われましょうが」
「それならば尚のこと趙雲に頼まれるのが筋ではござらんか」



 軽い身のこなしで諸葛亮の一撃をするりとかわす趙雲の姿が蘇る。
 かするどころか、剣をあわせることもできない。右に左にと突きを繰り出しても、時間の流れが違うのではない かと思うほど、ゆったりと彼は舞う。息一つ乱すことも叶わず、最後には刀身に衝撃を食らって剣を 取り落としていた。
 足が縺れ、手が宙をかく。辿り着いた先は地面ではなく、趙雲の腕の中だった。
「私がお守りするだけでは不十分でしょうか?」
 跳ね上がる鼓動と同時にその腕も押しやり、足早にその場を後にした。何故の周章なのか自身にも分から なかったする。



 関羽はいま一度つややかな髭をさすると、何を感じ入ったのか、諸葛亮が手にしていた剣を取り上げ続けた。
「諸刃の剣は重くて扱い辛い。力ない者には刀の方がよかろう」
「間合いの長い槍の方がよいのでは?」
 消沈ぎみだった彼の顔に笑みが戻った。劉備軍一の遣い手と同じ土俵で挑むのは無謀だと分かって問う。
「いや、突きに関してはそうかもしれんが、長い得物は振り回すのに存外コツと力がいる」
 そう言いながら関羽は一振りの刀を諸葛亮に持たせてやる。型がなっていないな、と背後から抱え込むように 両手の持ち位置の修正をした。
「護身術をと言われるのなら、まず相手の一の太刀を防がねばなりますまい――」
 相手の得物の間合いを見極めること、突きか薙ぎかを察すること、左右上下どの位置から繰り出すか判断すること、 と意外と丁寧に指導してくれる。
「儂が持つような偃月刀の場合は、ほとんど右横からの薙ぎだと思ってもらって結構」
 言い終えると緩やかに弧を描いて、右方向から青龍偃月刀が迫りくる。それを両手持ちで支えて、跳ね除けた。
「払ったらすぐに一歩後方へ。角度が変わる」
 横一文字に空を裂いた偃月刀はそのまま角度を上げて薙ぎ払いに来た。それをどうにか踏みとどまる。
「休息している暇はない。次は突き上げに転じる」
 間合いの変化についていけず、切っ先を避けきれずに後ろへ転倒した。
「そこで転んでいては串刺しにされますぞ」
 ペタンと尻餅をついた諸葛亮の鼻先で偃月刀は止まっていた。関羽はゆっくりと刀を下げ、開いた方の手を 諸葛亮に差し出す。その手を取って彼は立ち上がった。
「儂が教えられるのはここまでだ。あとはご自身で鍛錬されよ」
「……はい」



 ペコリと挨拶され、その頃になって漸く執務の合間に抜け出したことに気づいた文官たちが、鈴生りになって大挙 してきた。頭ごなしの小言を食らいながら、取り囲まれて去ってゆく諸葛亮を関羽は目尻を細めて見送った。
 そして背後の大木を振り返りやんわりと言葉を掛ける。
「そんなところに隠れていないで、出てきたらどうだ、趙雲」
「出るに出れない雰囲気だったので」
 つと一歩踏み出した趙雲の厳しい視線とかち合う。覗き見などとらしくないことを――と揶揄る口調にも 動じないで所在なさそうに佇む趙雲に、自然、関羽の目尻も下がる。
「本来ならばお主の仕事であろうに。手を煩わされた上に悋気を起こされては叶わん。そのような仏頂面を 下げるくらいなら、最初から御伝授して差し上げればよかったのではないのか」
「別に、悋気などと。当て推量は迷惑です」
「さてさて、そんな顔をして執念深いことだ」
 睨め上げる趙雲の視線など肩ですかして関羽は片手を挙げた。そしてさも愉快だとばかりに肩を上下させた。
「肩肘を張った者同士、これからの道行きに同情は禁じ得ないがな。あの調子ならば不意打ちを食らわすか、 さもなくば寝込みを襲われるか。お主も気の休まるときがないと見た」
「だから嫌だったのですよ、わたしは。あの方はああ見えても、会得したことは実践してみないと気が 済まない性質です からね。大人しくわたし共の背後に隠れていてくれる方が、遥に扱い易いというものでしょう」
「さて、どうかな。人それぞれ想うところは違うもの。何はともあれ、背後には気をつけることだな」
 そう言い残して関羽は立ち去っていった。



 背後に気をつけろと言われても、日頃の鍛錬より培われたものがある。春まだき、だが確実にやわらかく なった日差しを浴びて、うたた寝を楽しんでいたとしても近づく気配はわかる。息を殺し、ひた足で歩み寄る姿は 瞼を閉じていても想像できた。その真剣そうな姿に噴出しそうになるのを辛うじて堪えた。
 寝こみを襲うとは卑怯の一言でも返してやろうかと想ったが、想うところあってそのまま狸寝入りを続ける。
 趙雲は頭上で両腕を組んだ状態で大木に背を預けている。そのゆったりとふくらんだ袍衣の袖を目掛けて諸葛亮は 斬り込んだ。趙雲を傷つけることなく、背後の大木に縫い付けてやろうと思ったのだが。
――ザッシュー
 ある筈のない位置に腕が下りている。
 諸葛亮の目の前に趙雲の鮮血が迸った。
「ち、趙雲どの! なぜ!」
 刀から伝わる肉を裂く感触にそのまま呆然と立ち尽くしていた。



 怒りと困惑がない交ぜになったような表情のまま、諸葛亮は趙雲の腕の治療を黙々とこなした。 と言っても掠った程度で 出血も抑えられたようだが、彼を傷つけた事実に、怒りの矛先をどこへ持っていってよいのか分からない。つい 口調が棘を帯び出した。
「これは牽制なのですか。出来もしないことに拘りをみせたわたしへの。出来る方なら、あなたが腕を 下げたとしても止められたはずだ」
 布の端を握る手に思わず力が入る。ギュッと縛ってあとは視線すら合わせられなかった。
「人を傷つけたのは初めてですか?」
「そう、かもしれません」
「さっきのは掠っただけだった。だが、人を死に至らしめる感触は、幾日も脳裏から離れないものです」
 それをあなたに知って頂く必要はないと判断しました、と趙雲の視線が蕩たう。その言葉に諸葛亮は 切り返した。
「それは趙雲どののお言葉とは思えません。わたし一人蚊帳の外に放り出して頂いたところで、この手を 血に染めてゆくことは避けられないのです。私に死地の分からない軍師になれと仰るのか。わが身一つ守ら れない人間になれと?」
「あなたをお守りするようわたしは主公から命ぜられました」
「ですから――」
「わたしはあなたのお傍を片時も離れはしませんし、喩え敵に包囲され、逃げ場がなくてもあなたの剣を頼みに するような真似は致しませんよ」
「包囲されてもわたしはあなたの後ろで震えていろと言われるのか?」
 流離っていた趙雲の視線が諸葛亮を捕らえた。贖えない何か強い力で縫い止めれる。四肢から力が抜け落ち、 しゃがみ込みたい衝動に駆られた。
「そうですね――万の敵に包囲されましたら、わたしがあなたを殺して差し上げます。敵兵の刃に掛かる 屈辱だけは防いでみせますよ」
「趙雲どの――」
 緩やかな日差しが差し込む室内で、手を取られ、その腕に倒れこむ。束縛に似た心地よい陶酔感。鼓動と鼓動が 重なり、遠い穏やかな日が蘇った。
「わたしの生がある限り、あなたの背後は死守致しましょう」
 語られる言葉に確約を求めても縋ってもいけないのだと理性が訴える。それでも、どうしてこの人の言葉はこうも 胸に響くのだろうと、彼はゆっくりと力を抜いていった。



――了






11000hitsを踏んで頂いた隆之さまに捧げます。
お題は「喧嘩して仲直り」ということで、何が原因がいいかなと 考えましたところ、こうなりました。なんかちょっと違う気が…。
冒頭のがんばった格調高さは長続きしませんね。あたしにゃ、あの文体を続けるのは 無理だ。
梅林で舞う趙雲さん。「無双3」のCM見てたら書きたくなりました。