エアコンの効きすぎた部屋の室温は、肌寒いくらいに下っていた。 寒さから夏用の羽毛布団を体に巻きつけた状態で、体が危機を感じて覚醒する。遮光カーテンの隙間からのぞく、細く伸びた強い日差しが室内の一部 だけを焼き尽くしていた。 部屋の主である青年は薄く何度か目を瞬かせ、もぞもぞとベッドから這い出した。体のあちこちがキシキシと悲鳴をあげ、熱いシャワーでも 浴びない限り、関節が動きそうにない。どうして下着一枚で寝入ってしまったのか、彼は芋虫のような状態から腕を出し、手近にあった リモコンの設定温度を睨みつけた。 22度。 自分ではない。勝手に他人の部屋の温度設定を変えるだろうただひとりの相手に舌打ちをし、彼はエアコンのスイッチを忌々しそうに切った。 都心の一等地にある高層マンションの一室。 ロケーションも展望も間取りの広さもセキュリティーも、賃貸料に比例して一等だ。 この部屋の主、四乃森蒼紫は寝室のカーテンを勢いつけて開いた。 副都心が眼下に広がる。 蒼紫は、いっせいに全身が陽光に包まれるこのざわざわした感覚が嫌いだった。なにか自分のそぐわない。嫌いながらも、そうでもしない限り 五感が目覚めてくれそうになかった。けして夜には強いほうではないのに、昨夜寝入ったのは四時を回っていたと思う。本業でもない、頼まれ仕事。 適当にこなすことも出来ずにその時間だ。律儀というより融通が利かない己の性格が恨めしかった。 彼の起床を待ちかねたようにサイドボードに放りっぱなしの携帯が鳴った。画面確認をしなくても相手が誰だかは分かる。 彼のマネージャーの武田観柳。おそらくきょうの打ち合わせの時間に遅れないようにとの催促だろう。無機質な 呼び出し音をいつまでも聞いているわけにもいかず、彼は仕方なく手を伸ばした。 『起きていたんですか? 蒼紫』 「いま起きた」 『朝から申し訳ありませんが、嫌な報告をしなければなりません』 彼はさっさと用件を話せとばかりの沈黙を相手に与えてやった。 『驚かないでください。曾我が死んだそうです』 ――曾我が…… 蒼紫の脳裏に神経質そうに指で机をたたく男の横顔が過ぎった。 ――曾我が死んだ。 恐らく日本で著名なデザイナーの五本指に入る男だ。 アルコーン(闇天使)というブランド名で日本はいうに及ばず瞬く間にパリコレを席巻し、帝王カール・ラガーフェルドから第二の川久保玲と 評価されていた。すでにパリに事務所を持ち、コレクションに合わせてパリと東京を行き来し、現地のプレタポルテ界では確固たる地位を築いている 男だ。 しかし死んだと聞いてもなぜという疑問しかわかない。前に会ったのはいつだ。変わらず元気そうだった。そう確認するだけで、感傷に似たもの すら感じない。浸り切るには情報が少ないからか。少なからず――いや、あんなに因縁の深い相手だというのに。 『蒼紫、聞いてますか』 「ああ。通夜にパリまで行って、ついでになにか仕事を取ってくる算段だな」 『あなたらしくない冗談ですね。彼は東京に帰っていたんですよ。ご存知なかったんですか? あれほどあなたに 執着した男の訃報にその反応では、まったく曾我も浮かばれませんよ』 くつくつと不愉快な笑い声が携帯の向こうから聞こえてきた。蒼紫が嫌うこの男の癖のひとつだ。 「用件がそれだけなら切るぞ、観柳。葬儀の件ならあとで詳細をファックスしてくれ」 通話を切ろうとする蒼紫の耳に粘着質な男の言葉が続けられた。 『それは了解しましたが、彼の帰国後のスケジュールがまったくのオフ。最たる理由があなたに会うためだったとの関係者証言から、事情聴取の依頼が ありました。さすがにトップモデルのあなたが警視庁に出向くわけにはいかないでしょう。まもなく刑事とかいう無粋な人種が そちらに到着します。わたしも同席しますので支度しておいてください』 それでは、と携帯ひとつ切るやり方も尾を引くような感じがする。 そういうことは早く言えとベッドに携帯を投げつけた蒼紫だった。 取りあえずの身支度を済ませ、キッチンに立ったままでコーヒーを一口すすった。多少の空腹感はそれで癒せるだろう。と言っても、 ミネラルウォーターばかり並んでいる冷蔵庫からは、朝食のひとつも生まれてはこない。 ほどなく一度のチャイムのあと玄関のドアが開けられた。 合鍵を持っていてもチャイムを鳴らすのが観柳なりのマナーだそうだが、即開錠というのがマナー違反でないのかまでは考えられないらしい。 ご大層なイタリア製のスーツをきっちりと着こなし、手首にはダイアとゴールドをあしらった腕時計。到底裏方とは思えないような風体の観柳が 顔を見せた。 蒼紫をひと目捉えて、ほう――と呟いたあと、コットンシャツにジーンズというカジュアルな出で立ちの、彼の 頭の先からつめの先までゆっくりと観賞する。 その余りの居心地の悪さに、蒼紫は思わず目を逸らした。 武田観柳は蛇というよりは蜘蛛だ。周到に計画したあと音なく背後から近づき、自らは何の労力なく目標を絡めとる。人も。仕事も。そしてその地位も。 執拗に絡まる糸は本人が意識しないうちに躰じゅうに張り巡らされ、身動き取れなくなって初めて、背後にいるこの男の存在に気づくのだ。 その象徴がまさに自分のいま置かれているポジションだと、蒼紫は諦観に似た溜息を落とした。 「いいですね。素敵ですよ、蒼紫」 その姿で人目に晒せてもよいと――グラビア撮影でもなんでもない、たかがだ刑事の訪問を受けるだけでもそれなりの装いを必要以上に気を使う 観柳だが、いまはカジュアルで迎えるべきだと裁可したらしい。 無反応なままもう一口コーヒーをすすったとき、きょう二度目のチャイムが鳴らされた。 玄関にすっ飛んで行った観柳は何が嬉しいのか、嬉々としながら二人の刑事をリビングに通してきた。早口で蒼紫を紹介すると、 そのまま甲斐甲斐しくもキッチンへと取って返す。 ふたりの刑事はその姿を見送ってから促されたソファに腰掛けた。 「四乃森蒼紫さん? お忙しいところお時間を取らせて申し訳ない」 ふたり掛けソファに窮屈そうに納まった刑事のひとりが口を開き、蒼紫は伏せていた目をちらりと上げた。 細長い体型の目の細いその男は、警視庁捜査一課、第三強行犯捜査三係の斉藤と名乗った。日本人には珍しい琥珀に 似た色の瞳をしている。後ろに控えているもうひとりの男は護衛かと思うほどの巨漢だ。 「こちらは安慈刑事」 巨漢が挨拶らしき首の上下運動をする。無言の蒼紫に斉藤はかまわず続けた。 「昨日、『アルコーン』の社長件チーフデザイナー曾我敬一郎が東京都内のホテルで絞殺体で見つかった。まったくの極秘帰国で、パリ事務所の スタッフも彼が日本にいることを知らなかったらしい。最後に彼に会ったのはいつですか?」 「二ヵ月前にこちらで行われた彼主催のパーティーが最後だ」 「彼は三日前に帰国している。その間には会ってない?」 蒼紫は同じ質問には答えたくないというふうにソファに背を預けた。 「周りくどい聞き方は本意ではないもので、直裁に聞かせて頂く。被害者とかなり深い関係だったと。それは関係者の口々から聞かされた。 極秘だろうが公式だろうが、日本に帰ったのなら、被害者はまず、四乃森蒼紫に会うための時間を取るだろうと」 「深いと言えばそうなんだろう。曾我のファーストネームをいま初めて知った程度にな」 シニカルな答えに反して蒼紫の紫紺の瞳がまっすぐ斉藤に向けられる。ふっと冷笑して先に目をそらせたのは斉藤のほうだった。 「では質問を変えましょう。彼の交友関係、あるいは仕事関係で怨恨の線に心当たりは」 「蒼紫は彼のことなど何も知りませんよ」 観柳がこの家では珍しい日本茶を載せた盆を手に、リビングに入ってきた。甲斐甲斐しく、それを刑事二人と蒼紫にもに差し出す。そして 当然とばかりにソファに座る蒼紫の後ろの立った。 「親密ではなかったと?」 「そうは言ってません。曾我にとって蒼紫は唯一の存在だったかもしれないが、彼はそうではない、という意味ですよ」 観柳は眼鏡の下の瞳をすがめて、何をいまさら――という風情だ。斉藤が蒼紫に視線を向けるが、こちらも聞いていなかったような反応でしかない。 「なるほど。では尚更曾我が接触を図ってきたのでは? 連絡はあっただろう?」 「ええ、何度もね」 「申し訳ないが武田さん。あんたに聞いてない」 斉藤の叱責に観柳は大仰に肩を竦めた。こいつにこんな仕草をされると無性に苛つくと感じる。 「仕事中の携帯は観柳が持っている。受けたとしたらそのときだ。俺は曾我とは話していない」 「で、断ったと?」 「蒼紫が自分からだれかに連絡すること、ほとんどないですからね。何度もお誘いはあったんですが、断ったというより 無視を決め込んだんですよ」 「武田さん、いい加減にしてくれ」 その言葉と同時に安慈の巨体が前のめりに観柳に近づいた。あわっと口を押さえて観柳は黙り込む。 「曾我と切れたかったのか?」 斉藤の言葉使いが段々と砕けてくるが、当の蒼紫はそんなことに頓着なさそうだ。 「別に。俺がパリにいるときはほとんど『アルコーン』がらみの仕事ばかりで拘束がきつい。だから東京に帰ってきているときくらいは会う必要も ないだろう」 「他の恋人との時間に当てたい?」 「その質問に答える義務はない」 斉藤の挑発にも蒼紫は乗ってこなかった。結局怒らせることすらできない。 「最後にひとつだけ。昨日の午後十一時のアリバイをお聞きしたい」 「仕事をしていた」 「ひとりで?」 「当然だ」 「ああ、いま、業界の中だけですが、翻訳の仕事も手がけていましてね。蒼紫は語学にも長けていますから、彼の姿形だけでなく知性の部分も 評価されつつあるんですよ」 観柳の、補足なのか自慢なのか売り込みなのかの言葉を片手で制した斉藤は、安慈を促せて立ち上がった。 「わかりました。お忙しいところお時間を割いていただき恐縮です。何か思い出されたことがあれば、どんな些細なことでも 結構です。ご一報ください」 そう言って斉藤は名刺を差し出す。蒼紫も立ち上がってそれを受け取った。 背丈は斉藤の方が少し高い。しかし骨格が軋みそうなくらい繊細なつくりの男だった。 斉藤の琥珀の瞳が蒼紫を捉える。それをすんなりと蒼紫はかわした。 かわす術を身をもって知っていると、斉藤は思った。 事情聴取を終えマンションを出るや、我慢の限界とばかりに斉藤は、すぐさまポケットからタバコを取り出し火をつけた。 チェーンスモーカーには至福のひとときだが、特にいまは、吐き出した紫煙がゆったりと空中で霧散してゆくさまを 呆けたように見送ってしまう。なぜかそれほど気疲れを感じさせる参考人だった。 嫌煙家の安慈がそれを見咎めて露骨に顔を眇めた。 「片時も離れていられんようだな。煙草一本それほどのことか」 「おまえのように浮世離れしている者には分からん世俗の楽しみだ」 揺蕩った紫煙が夏の空に消えていく。その名残を斬り捨てるように斉藤は、中ほどまで灰にしてもみ消すと、すぐさま もう一本銜えた。だがその二本目は唐突に伸びてきた安慈の手の中で無残にも朽ち果ててしまった。 「その吸い方は苛々する。少しは控えろ。見ているだけで肺がんになりそうだ」 斉藤は相方の暴挙を睨めつけて、懲りずにまた取り出した。 「おまえ、いつからおれのお袋になった」 「勘違いするな。心配しているのではない。教育的指導だ。おまえとコンビを組んで、寿命が十年縮まったとなってはどうしてくれよう」 「おやおや。浮世離れしているかと思えば、意外と生に執着しているんだな」 「己が蒔いた種ならいかなる事由も達観していよう。だがおまえのせいでとなると、話は違ってくる」 「あるがままを受け入れるのが御仏の心じゃないのか、このエセ坊主が」 「御仏も煙害には結跏趺坐を解かれて逃げ出されるだろう」 安慈が巨体の肩を揺する。斉藤もつられて口の端を上げた。 先に車のエアコンをつけようと斉藤がエンジンをかけた。車内の酷い熱気をウィンドーを開けて逃すが、安慈は オーブンから取出したばかりのような焼ききった助手席に、かまわず窮屈そうに収まった。 「あれを落とそうと思えば、相当難儀だ。事情聴取には満足に応じない。状況証拠ではのらりくらりと 逃げられる。物的証拠をきちんと耳をそろえて出したとしても、調書の不備などを指摘するタイプだ」 知らぬ存ぜぬでとおされたがいまの参考人、なんらかのかかわりがあるだろうと安慈は腕組みをする。 「黙して語らないんじゃないのか?」 「斉藤、わたしはあのマネージャーのことを言っているのだが」 「ああ、あっちの方か。おまえは依頼殺人の可能性を考えてるんだな」 ヨーロッパを中心としたコレクションで絶大なる評価を受けている日本人モデル、四乃森蒼紫を生み育てたという敏腕マネージャー武田観柳。 溺愛とも信奉ともつかない粘着質なあの過保護ぶりでは、確かに彼のためなら殺人など厭わないと豪語しそうだ。 「豪胆なものだ。醜聞のひとつやふたつ、痛くも痒くもないのだろう。それを四乃森という男は否定もしなかった。実際、業界では有名らしい。 曾我の四乃森に対する恋着は」 「やけに詳しくなったな」 「高荷に聞いた」 捜査三係室の紅一点、高荷恵刑事のことだが、人物に多少難があるため、その情報の信憑性は疑わしいと言わざるを得ない。 だが武田観柳のあの言い回しからすれば。 有名デザイナーが新人モデルをトップにまで押し上げた。ふたりは恋愛関係にある。デザイナーが権力にものを言わせたとも取れるが、 それはこの際論外として、先に醒めたのはモデルの方。しかし相手はいつまでも彼を手離そうとはしない。その関係を清算したくてマネージャーを唆す。 図式としてはそれが一番すっきりいく。 だがなにか腑に落ちない。 まず、曾我が殺されれば疑いの目は間違いなく蒼紫に向けられる。怨恨や痴情がらみの線を念頭に捜査を進めるのは常とうだ。それにあの現場は 自殺を装ったような凝ったつくりでもなんでもない。あきらかに顔見知りによる犯行を示唆していた。 観柳が直接手を下したのだとすれば、なにがなんでも捜査の目を蒼紫から逸らせようとするだろう。 武田でなく実行犯が蒼紫だとしたら――衝動による突発的な殺人というケースも考えられるが、彼の場合それが一番似合わない。 ――あの感情を捨ててしまったような男が衝動で人を殺すだろうか。 そう呟くと、安慈は苦虫をつぶしたような顔を見せた。 「だからおまえは結婚できないのだ」 同年のしかも同じ未婚者の安慈には言われたくないと思った斉藤だった。 署に帰り着き三係室に戻ると、同僚の高荷恵がノートパソコンの前でひとり黙々と作業をしていた。 ふたりの気配に気づいたのか、画面から目を離さず片手を挙げる。お帰りという素っ気ない合図なのはいつものことだ。恵の真横をとおり過ぎ、 斉藤はパーテーションに区切られた応接セットにドカッと腰を下ろした。 恵は椅子の背もたれ部分に仰け反ってきょうの成果だけを聞いてきた。 「どうだった。日本が誇るトップモデルのご尊顔は? 絹の如き玉肌と紫紺の瞳で男女を問わず魅了する東洋の神秘、だそうだわ。これってほんとに 男を飾る言葉なのって思うんだけど。マスコミ嫌いは有名。対談めいた取材も一切受けない。めったと衆目には晒さないらしいから、 あんたたち役得よ〜」 データをセーブし終えたのか、恵は机の前から離れると、作業のため纏めていた髪の先をもて遊びながら斉藤たちの前に腰を降ろす。こういった場合、 お茶の用意をするのは安慈の仕事だ。上下関係からではない。この三人のなかでは少しだけマメだからだ。 「そんなご大層なもんなのか? 少し小奇麗なだけの無愛想な兄ちゃんだったぞ」 「やっぱ無口なんだ」 イメージどおり――と恵が遠い目をする。 「めぐみちゃ〜ん。おれは無愛想って言ったんだが?」 「やかましい。人並みがやっかむんじゃない」 「なんだ、おまえもファンなのか」 「興味はあるわね」 恵は応接セットの机の上に置きっぱなしの雑誌を指差した。 ふたりは途端に眉根を寄せるが、よく分からない横文字のファッション誌の表紙を飾っているモデルは、先ほどとは比べ物にならないくらいに 着飾りメイクされた蒼紫だった。それがいく種類もあるのだから、たいしたものだと言えばそうなんだろうが、お堅く無粋な刑事という職業を 生業にしている自分には、かけ離れた世界であり概念だ。 恵はファッション雑誌なんかには一生縁のないふたりにレクチャーを始めるという親切さだが、ただ単に興味ある 話題を語っているだけに過ぎないと思うのは、付き合いの長さからだった。 「無愛想はかれの商品価値を上げてるのよ」 「ほう。お愛想のひとつもなしに、黙って服着て歩いてりゃいいんだから、結構な商売だな」 「そうね。でも、いまどきどんなお綺麗なタレントだって多少無理して親近感振りまいてるわ。それを敢えて時代を逆行するような売り出し方で 成功した稀有な存在ってわけよ。マネージャーが相当やり手だって話だけど、蒼紫の存在感がしっかりとしたバックボーンになっているのは事実」 安慈が煎れてくれたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。ひと息ついた三人に束の間沈黙が落ちるが、ふと、パラパラと 雑誌をめくっていた斉藤の手がとあるページに吸い寄せられるように止まった。 それをひょいと覗き込んだ安慈共々、そのグラビアの前で凍り付いている。察した恵が上目遣いに男ふたりを見比べた。 「それが所謂、四乃森蒼紫の出世作。二年前のパリコレで『アルコーン』の最後を飾ったらしいよ。文字通りのシンデレラストーリー。 一夜にしてスターダム」 ――ブーケを持った花嫁。 何度も目を瞬いても、雑誌を斜めにしてもそれはウェディングドレスにしか見えない。 それもおそらくシンプルな。 ドレスの素材とモデルの質で勝負といった意気込みさえ感じる。 薄化粧をして少し俯きがちな蒼紫は到底男には見えない。いや、女にだって見えない。 なにかそこだけ切り取られた異世界のようだ。 妖艶でも清楚でもない。敢えていうなら薪能のような息が詰まる幽玄さと静謐の同居。知識人階級のたしなみとして能が受けいれられている欧米で、 彼の評価が高いのは肯ける気がした。 「これはよくあることなのか?」 「男がラストのウェディングドレスを着るって意味ならノーね。前代未聞じゃない? エージェントから蒼紫起用案を何度つき返されても 曾我は折れなかったそうよ。で、結果が大絶賛。でもさ、ほかの女性モデルからしたらたまったもんじゃないわよね。 いくら自分の情人だか女嫌いだか知らないけど、プライドズタズタでしょ」 あたしだったら、やってらんないって引っぺがしてやる、と恵はお気に入りのジノリのマグカップを両手で 包み込むようにコーヒーをすすった。斉藤は頭の上で両手を組んでソファにふんぞり返っている。安慈はまだそのページを凝視したままだ。 「嫉妬と欲望と渇望が渦巻くショービジネスの世界か」 斉藤がポツリと漏らす。 なぜだろう。限りなく高みにいて望まれているのに、彼はその場にそぐわない気がする。四六時中視線と喝采を浴び続け、しかしそれはいつも ファインダー越しの虚構部分だ。 「曾我は独裁者だった。そのときの起用を巡ってのトラブルという線はどうだ?」 安慈の言葉に斉藤は思考を中断する。 「二年も前の怨みをいろいろと試行錯誤して、ようやくチャンスにめぐり合って今回実行できたっていうの? なんか酷く腰の重い犯人よね」 折角の貴重な意見なんだけど、と恵は腰を浮かせて近くのデスクに手を伸ばし、そのままの体勢で器用に茶封筒の中から報告書を取り出した。 「検視結果が出たわ。曾我は首の後ろから前に交差されたひも状のもので絞殺されている。たとえばネクタイ、手ぬぐい、薄手のタオルのようなもの」 「マル害と犯人は向かい合っていたのだな」 うんうん、と恵は軽快に頷いた。 「ホテルの一室。向かい合って犯人はネクタイをはずし、ゆっくりと曾我の首に回すの」 「おまえ変な小説読みすぎだ」 斉藤のちゃちゃにも恵は動じない。妄想中らしい。 「ネクタイをしている女だっているだろう。なにもそれが男だって確証はあるまい」 「そうだな。いくらマル害がゲイだって、女が尋ねてくれば鍵くらい開けるだろうし」 男ふたりの常識に乗っ取った意見に、恵は呆れ顔で顎をしゃくった。 「あんたたちって、妙なところで抜けてるわね。女じゃないなんて言ってないわ。あの当時の怨恨の線はないってこと。 当時の女性モデルたちは、すべてフランスにて存在が確認されているの」 恵はあっけなく幕を引く。 「そのホテルで四乃森らしき目撃情報はないのか? あるいは武田でもいい。やつらは目だつ」 「それは別の班の報告待ちだ」 斉藤は立ち上がるとブラインドの隙間から街並みを見下ろした。纏まらない思考に纏まらない街。四乃森蒼紫を 虚構の世界の住人だといえるほど、実像と呼べる確かなものなど持っていないと彼は実感した。 斉藤は何年もこの仕事で被疑者、被害者、参考人にかかわってきたが、いままで捜査する上で関係者のひととなりを 必要以上に――書類に羅列された項目以上に深く知りたいと思ったことはない。 被疑者に何度も会うのは、不審点を追求したり、塗り固められた嘘を吐露させる機会でしかなかったし、第三者的なスタンスで始終しないことには、 間違いなく予断が捜査の邪魔をする。 極端な話、容疑者が何を考えて、何に追い詰められてその行為に及んだかなどの動機の部分にはまったく興味はなかった。知ったところで 胸糞悪くなるのが落ちだ。犯行に至るという陳腐な憤り。そんなもの隣の誰かさんは耐えているぞ、のオンパレードだったからだ。 ――だが 四乃森蒼紫の今日のスケジュールをエージェントに問い合わせると、事情聴取はオフの時間にしてくれとさんざんごねられた。ただ仕事風景を 見物したいからと渋々聞き出したのが、都内でも緑の多いこの場所だった。よくテレビドラマでもロケに使われるらしい。 ぐるりがロープで張り巡らされ、アルバイトらしき警備スタッフが、退屈そうに一般人に進入を阻んでつっ立っている。 しかし、俳優女優の演技がただで見られるドラマの撮影とは違い、ギャラリーと呼べるほどの人だかりはなかった。 それは斉藤にとって聞いたこともないようなブランドで、きょうはそのプロモーションとスチールの撮影をしているらしい。 スタッフ及びモデルもほとんどが外国人だ。その中で蒼紫は異分子的によく目立つ。 ディレクターチェアの背に体重を預け、屈みこんだスタッフから何か打ち合わせを受けている蒼紫の姿が目に入る。だが、何気なく一歩前に出た ところで聞き覚えのある声が斉藤の足を止めた。 「おや、斉藤警部補じゃないですか」 不覚にも武田観柳が隣に立っているのに気づかなかったのだ。斉藤は軽く舌打ちをするが、ここで出会って当然の人物だ。回避しようがない。 「まだ聞き足らないことでもありましたか? それとも職務の延長のような顔をして、蒼紫自身に興味でも沸きましたか」 にやりと上目遣いで観柳は聞いてくる。その訳知り顔も我慢ならないが、当てこすりの名を借りた警戒をところ構わずだれかれ構わず、 恐らく四六時中張り巡らせているんだろう。警備担当主任は大変だ。 斉藤は余裕に笑んで、社会人の常識として必要な挨拶だけはしておいた。 「ああ、丁度蒼紫の出番ですね」 言われて視線がそちらに移る。 音もなく、本当に音もなく蒼紫は立ち上がり、コートの上から巻かれたマフラーを後ろに払った。 それだけの仕草が絵になっている。 指先からつま先にまで意識を集中し、定められた方向へ視線を移しゆっくりと歩き出す。それが合図だったのか、他のモデルたちも思い思いの 方向へ進みだした。 蒼紫を中心に風が凪ぎ、舞い落ちた枯葉を踏みしめる音が、真夏の日差しをどこかへと追いやる。そこだけ確実に真冬の空間だった。 「美しいでしょう。容姿もさることながら所作が。あれはおそらく日舞で培われたんだと思いますよ」 「思いますって、知らないのか?」 「蒼紫は自分の子どものころのことなど語りませんからね。そうではないかと推測するだけで」 「何も語らなくても、信頼していない者にマネージメントは頼まんだろう」 「蒼紫にその理屈は通用しませんよ」 「なるほど。謙遜でもなさそうだな。保護者である前に信者であろうとするから、なにもかもを把握していないと気が済まないのではないのか」 「語りますね」 「四乃森の恋人は何人いた?」 「知りませんよ」 「その中にあんたは含まれているのか」 「だったらよかったんですがね」 観柳は喉を鳴らして、ひとしきり笑った。 「蒼紫をそれほどまでに多情な男にしたいわけでもあるのですか?」 苦笑した後、真顔に戻った観柳の瞳が暗く光る。 「多情な男ならば、恋人を亡くした後ならば、簡単に落ちると思いたいからですか?」 「だったらよかったんだがな」 斎藤の嫌みに観柳は興味をなくしたのか、蒼紫に視線を送ると、右のモデルの位置が悪いだの、あれでは蒼紫の魅力がひき出ないだの、ブツブツと 文句を言っている。 「四乃森とはどういった経緯で知り合ったんだ」 なかなかシツコイですね、と観柳はセカンドバッグから葉巻ケースを取り出した。あまりにもお似合いなアイテムの登場に斉藤は少し感心する。 「曾我というデザイナーがどういう人物か、もう少しお調べになった方がいいですよ」 「どういう意味だ」 「広いようでこの業界も狭いですからね。色々とね。情報が」 何が言いたいと観柳に向き直ったそのとき、斉藤の目を何かの光が射た。 反射的に――観柳の頭越しにその方向を定める。ビルの屋上に黒い人影が確認できた。肉眼で確認できる。 いま一度何かが光った。 直感的に後ろを振り返る。 ――蒼紫だ。 気がついたら飛び出していた。 急ごうとする体がまるでコマ送りされたか重力が変わったかようにいうことを聞かない。まるで水の中を駆けているみたいだ。 突然目の前に男が飛び出してきて、大きく開かれた蒼紫の瞳。 なんだ、そんな表情もできるんじゃないか、と場違いなことを考えたりする。 誰かが英語で喚いていた。 どけだとか、邪魔だとか。 恐らくそんな単語。 静止は効かない。もう飛び出したあとだから。 斉藤は蒼紫の体を横から抱きすくめ、そのまま路上に激突した。 しかし――何か弾ける音と共に斉藤の目の前で鮮血が迸る。 ――間に合わなかったのか。 「きゃー!」 周囲から悲鳴が上がったのはそのすぐあとだった。 打ち付けた右肩が疼く。誰かが何かを叫んでいる。周囲は蜘蛛の子を散らしたようだ。 斉藤は上体を起こして襲撃ポイントを凝視した。そのビルの屋上から人の姿は消えていた。プロなのか。それにしてはスコープの光を反射させる など間が抜けている。 「蒼紫! 蒼紫!」 半狂乱の観柳が駆け寄ってきた。当の蒼紫の躰はぐったりと力を失くし、腕を押さえている。撃たれたのは腕か。腕だけなのか。咄嗟に確認しようと するが、観柳は斉藤の腕に収まっている蒼紫の引き剥がしに懸命だ。こんなところで悋気と癇癪を起こしてどうする。怪我の状態が分からない じゃないか。叫んだ斉藤の声は観柳の耳には届いていないようだった。 「蒼紫! どうして!」 「喧しい! さっさと救急車を呼べ!」 斉藤は器用にも痛めた方の手で携帯を取り出した。 「おれだ。四乃森が襲われた。ここから五百メートルほど離れた商業ビルの屋上からの狙撃だ。緊急配備を頼む。新宿一帯を。相手はライフルを 所持している!」 携帯を切らずにポケットへしまう。斉藤たちの現在位置はこの電波が教えてくれる。ようやく片腕の戒めを緩めて、抱え込んだままの蒼紫を解放した。 観柳が煩くて仕方ない。 蒼紫の着ていた冬の新作コートが血に濡れそばっていた。黒のカシミアがさらに深く色を落としている。それを脱がせるとその下は白のTシャツ 一枚の軽装だった。上腕のあたりが抉られているが、幸いにも貫通しているようだと安堵した。 「大丈夫ですか! 蒼紫! 返事をしてください!」 「観柳、耳元で、うるさい……」 蒼紫は大丈夫な方の腕で斉藤を押しのけた。いつまでも抱かれていたくないらしい。 「阿呆が。無理をするな。武田。なにか止血になるようなものはないか」 そう言われて敏腕マネージャーは、ハンカチーフと呼んでさしつかえのないものを上着の胸ポケットから取り出した。よく分からないがシルク製 だったりするのだろう。それで上腕をきつく締め上げ、取りあえずの応急処置とした。 蒼紫の躰を横たえると、ちょうどカシミアのコートが地面とのクッション代わりとなる。蒼紫の真横で片膝をついて日除けになっている斉藤を、 さも、押しやってしまいたいと観柳は忙しい。 「あぁ。蒼紫。蒼紫っ。痛くはないですか! こんなに真っ青になってっ。だれか! なにか痛み止めのようなものはないのかっ」 「痛いに決まっている。斉藤。おまえこそ、腕」 「なんだ、心配してくれるのか? 体張って、姫を守った甲斐があったってもんだ」 「だれが姫だ」 「躰を横たえたおまえに、その傍らで膝をつく俺。見てみろ。まるで御伽話に出てくる、眠れる森の美女か白雪姫のようなシチュエーションじゃないか」 「いっぺん、死ね」 東洋の神秘と称されるトップモデルは意外と口が悪かった。 「斉藤! 見舞いに来てやったわよ〜」 自分を白馬に乗った王子になぞらえた騒動で、不本意ながらも入院の憂き目にあった斉藤の病室に、まず巨大な花束が先に出現した。 少し遅れて顔を覗かせたのはだれあろう高荷恵。捜査一課第三強行犯捜査三係を代表しておまえが来たのか。それにしてもその大層な登場の仕方には、 慣れているとは言っても少しゲンナリ気味の斉藤だ。 「高荷、暇なのはおまえだけか? それも大事を取っての一日入院に花なんか持ってくるな」 「バカね。だれがあんたなんかに渡すもんですか。これは特別室にご入院あそばされているあの方によ。これからちょっと顔を出そうと思って」 「同僚のおれがついでか?」 恵はふふんと笑うと花束の中からカスミソウを一枝、サイドテーブルの上に置いた。花束が欲しいわけじゃない。わけじゃないが、 なんだか刺身のつまだけもらった気分だ。 「嫌味なヤツ」 「今更何言ってんの」 「あいつがそんなもんもらって喜ぶものか」 「あんたにもらわれるより花も満足でしょうよ」 そう言って恵は紫でグラデーションされた花束の香りを楽しむ恵の横顔に、斉藤は伺うような視線を当てた。 なにか裏がある。いや、なにかしようとしている。この女狐がただ見舞いだけで、人さまの病室を訪れたりはしない。 それは予感というよりも確信に近かった。 「なにをしようとしている。おまえ、まさかそれに盗聴器とか仕掛けてないだろうな」 恵は心底小馬鹿にしたように目を眇めた。 「馬鹿じゃないの? 考えたけど、却下したわ。だれがそんなこと実行するか」 「結局考えたんじゃないか」 「頭ん中で考えたことと実際に行動に移すのとでは、百里ほどの差があるのよ。そんなもの一緒だったら斉藤、あんたなんかあたしに何回殺されてるか 分かったもんじゃないわよ」 斉藤は恵の襟首の辺りをぐいっと乱暴に掴んで引き寄せた。この話題で口を割らせるのは無理だ。いつまでたってもノラリクラリの逃げられるのが オチ。斉藤は切り口を変えた。 「何? キスでもしようっての」 「高荷、頼んだことはちゃんと調べたんだろうな」 「せっかちですこと。そんなだから結婚できなくてよ、斉藤。こんな妙齢の美女と病院で密室なんて、絶好のシチュエーションで、 その気になんないなんて」 「あいにく好みにはうるさくてな、おまえ如き女狐におれの貞操を捧げる気にはならん」 「あらっ、そう言われると豹変してみたくなりましたわ……」 「おまえに清楚な女の皮なんか被られるか。底の浅い」 「いまどきそんな女がいるなんて、思ってる方がよっぽど底が浅いわよ。なに、斉藤。あんたの好みって清楚な美人なわけ?」 腹の立つことにこの至近距離で敵はカラカラと哂う。コイツを基準に考えたら、相当なじゃじゃ馬も清々しく感じるのではないだろうか。 斉藤はさらに声音を落とした 「四の五の言ってると窓から放り出すぞ」 「はいはい」 恵はバッグの中から封筒を取り出した。わざわざベッドに腰掛け躰を密着させ、男の首に腕を回しながらそれを渡す豪胆さには白旗ものだが、 斉藤は敢えてその体勢のまま事務的に問う。 「裏づけは?」 「こちらでできる部分に関しては安慈がやってるわ。それは一応本庁のデータベースからの検索」 恵は封筒から書類を出し、 「暇でしょ。自分で読んで」 そういい残すと、十分に斉藤虐めを堪能したのか、花束を抱えなおした恵はヒールの音も高く颯爽と踵を返した。斉藤はふん、と恵の体温をはき捨て、 その書類を手に病室を後にした。 そのフロアにある唯一の待合室の喫煙場所が、火災発生かと思うくらいに煙っている。それが斉藤ひとりの所業だと いうのだから、吸いだめとばかりに何本灰にしたかわからない。 担当外科医は、一日の喫煙本数をせめて半分にするようにと顔をしかめたが、別段苛つくから吸い続けるのではない。 ほとんど呼吸するのと同等なくらいに身に馴染んだ嗜好なのだ。だれにも迷惑をかけていないとは言い切れないが―― 事実相棒は受動喫煙の危険性を訴えていた――呼吸を加減してしまっては、それは息苦しいだろう。 ヘビースモーカーの足掻きでしかないと、斉藤は、読み終えた書類を硬いベンチに放り出し腕を組んで宙を仰いだ。 恵に頼んだ曾我敬一郎の身辺調査。未確認の情報も混じっているが、疑惑のオンパレードだ。 麻薬取締法、盗作疑惑、未成年略取及び暴行未遂、不動産虚偽申請、未成年者労働義務違反、免取四回に公共物破損と。この男よっぽどしがらみに 縛られるのがお嫌いらしい。思うまま生きていたら、そこに法の壁があったという感じだ。 こんな危険人物よく税関が行き来を許したなと思うが、実刑はおろかわずかに裁判に持ち込まれているのが、盗作疑惑のみ。これはアシスタントの 作品を発表したとかの世間にはよくある話で、切りつけたカッターには刃がなかったの実例になるまでだ。 子供っぽいばかりの独裁者。実力と実績と地位を備えてしまっては、はた迷惑なだけの暴君となる可能性が高い。そんな男に付きまとわれて 身動きできないとしたら、動機不必要論者にとっても琴線に響くものがある。 それは予断だろうかと目を伏せたとき、 「進言どうりよくお勉強されてますね」 と、声がかかった。葉巻独特の匂いがすると思ったらやはり武田観柳だ。にやりと笑みを落とし斉藤が腰掛けているベンチの側で葉巻を燻らせ 突っ立っていた。 「蒼紫をお助けいただいたお礼をまだ言ってませんでした。その節は取り乱しまして」 「別にあんたに礼を言われる筋合いのことじゃない」 「刑事としての義務、ですか」 やけに含みのある声色と言い方だが、無視して斉藤は話を進める。 「東洋の神秘の容態はどうだ」 「お陰さまで大事には至りませんでした。あのとき、警部補が飛び出してくださらなかったら、どうなっていたかと、想像しただけでもおぞましい」 「それはなにより。どちらにしても運がよかったんだ。話しは変わるが、あんたに言われなくても曾我の身辺調査は当然調べてある。この、 おフランスで著名なデザイナーは自己管理ができない子供か? 破滅型の天才を気取っているのだとしたら、時代錯誤も甚だしい勘違い野郎だな。 十九世紀末のウィーンでもあるまいし」 その科白を聞いて観柳は、おや、と嫌らしく口の端をつり上げた。 「わたしや蒼紫のこともお調べになられた」 「当たり前だ。正確且つ迅速に、しかも波状攻撃がおれのモットーだからな。そのために必要な知識の収集だ。被害者の曾我同様、あんたたちふたりも 十分渦中の人物でもある」 報告書が教える、かつて画商だったという前身を持つ男の笑みが消えた。 「二、三確認したいがこれは直接四乃森に聞くとしよう。ヤツはあんたとは違って嘘やいい繕いができない男だろうからな」 「随分なおっしゃりようだ」 「曾我の後ろ暗さを指摘する以上にあんたは十分胡散臭い。だが、彼を殺した人物と四乃森を襲った人物が同一だとしたら、それは間違いなく あんたじゃない。ヤツの体に傷をつけるなんてこと、あんたには出来ないだろう。しかしあんたはその人物の目星はついている。違うか?」 聞いているのか、いないのか、蒼紫は煙草の煙が嫌いでね、と観柳はきょう出会って二本目の葉巻に火をつけた。 髪も鬢も真っ白な初老の男は柏崎と名乗った。 高荷恵が調べ上げた四乃森蒼紫の身辺および過去。どこまで掘り下げればいいか想像もつかないだけに、彼が武田観柳と知り合った経緯だけでも 掴んでおこうと考えたのだ。柏崎は蒼紫の父親からのつながりだ。唯一といっていい友人であり、そして一時期蒼紫の後見人でもあったという。 下町の風情が残る閑静な一軒屋を訪れた安慈が来訪の意図を告げると、少し驚いたような、そして懐かしさに相好を崩した老人は、 一旦自室に引きこもりスケッチブックを小脇に抱えて戻ってきた。 柏崎は愛おしそうに膝の上のそれをなでる。男が話し出すまで安慈は忍耐強く待った。 「これは最後に、別れ際に蒼紫がわしにとくれたものです」 「では四乃森画伯の?」 「そう。幸せだったころの家族の肖像ですな」 拝見させていただきたい、と安慈は柏崎の了承を得てページをめくった。 軟質の鉛筆かなにかで書かれたそれは、ほとんどが四乃森夫人と思しき女性と、いまになお面影を残すひとり息子の蒼紫の絵だった。はにかんで 母親の膝にまとわりつく少年。子猫とじゃれる少年に笑顔を送る母親。寝ているわが子の髪をすく母親。そこには、安慈が記憶していた画家の作風 とはまったく違った平凡な暖かさで溢れていた。 それを柏崎に告げると、四乃森画伯の唯一の友人だった男は眉を曇らせる。 「蒼紫が七才の時に夫人が亡くなり、四乃森は変わりました。と同時に作風も変わり、世間が認めた四乃森のウィーン分離派の流れを汲む作品とは、 皮肉にも愛する者を喪失した狂気と哀しみに満ちた時代のものばかりなのです。 夫人の死によって彼の心の均衡は崩れ、さらに今までとは比べ物にならないほどの収入を得て、確実に壊れていきましたよ。 彼が亡くなったときに蒼紫に残されたのは、わずか手元に残った作品と、何に使ったか分からない借財でした」 最後のページをごらんください、と柏崎は告げる。 安慈は思わず目を見張った。 それはこちらに背中を向けた少年の裸体だった。 すらりとした後姿を惜しげもなく晒し、振り向くか向かないかの横顔からはなんの思惟も伝えてはこないが、 神聖でいて宗教画のような静謐さと見る者を惹きつけて止まない蠱惑さが見え隠れする。穏やかな温もりに満ちた 家族の肖像からは、この絵一枚だけがかけ離れていた。 そしてよく目を凝らせば、少年の背にはあるかなしかの羽が描かれている。重量感のある、それでいて存在感の薄い六枚羽。天使であって天使でない。 息子をモデルとしたその絵に、もっと違うなにかが込められていたとしても、いまの安慈には伺い知れるものではなかった。 「これがおそらく彼の遺作でしょうな。スケッチからおこして完成されています。ひたむきなまでの重厚さで、それまでの、狂気を叩きつけるような 画風を一新させ、その絵を見せてもらったときは、ほんとうに蒼紫の背に 羽が生えて飛んでいくんじゃないかと思いましたよ。最後の最後に正気を取り戻したのかは分からんが」 「いい作品です」 安慈は丁寧にそれを閉じると柏崎に返した。 「四乃森の死後、蒼紫は当初、わしが引き取るはずだった。それをあの男が――」 「武田観柳だな」 「そう、たしかそんな名だったな。四乃森の作品を一手に引き受けていた画商じゃ。あれが借財の帳消しと引き換えに 残った作品と蒼紫を引き取りを提言してきよった。彼には他に親族がおらんかったから、一介の友人如きのわしでは 意義の申し立てができずに、蒼紫もそれを承服してしまったから、それ以降あの子とは会ってない。まさか、武田が なにかよからぬことでもしましたか?」 「それは現時調査中です」 「蒼紫は元気なのでしょうな」 「元気です」 安慈は少しだけ嘘を言って柏崎家を辞した。 待合室でひとしきり、互いの吐き出す紫煙と思惑の遣り取りを済ませ斉藤と別れた観柳が病室に戻ると、当の蒼紫は 着替えを済ませ荷づくろいの最中だった。 腕の包帯が目立つのがいやなのだろう、この暑いのにジャケットまで着込もうとしている。 観柳が睨みつけてもそ知らぬ顔で身支度を整え、ファスナーをしめてそれを肩にかけた蒼紫の手を観柳は強い調子で押し留めた。 「何をしているんです」 「見ればわかるだろ。退院する」 「お医者さまが許可したんですか。もしそうだとしても、わたしが許しませんっ」 「血は止まった。もう必要ない」 「これは命令です。バッグを降ろして横になりなさい。心配しなくてもスケジュールは当分の間、白紙にしてあります。 そのような青い顔をして、疲労も蓄積されているとお医者さまも仰っていたでしょう。わたしの言うことを聞きなさい」 「病院は嫌だっ」 感情を揺らせることのない蒼紫が珍しく声を荒げた。そんなものは意にも解さないとばかりに観柳は、撫でるような声音に変えて座るよう命じた。 「お母さまが亡くなられたときのことでも思い出しましたか? 最愛のお母さまを亡くされて、 それだけでも辛いのに、お父さままで壊れておしまいになったのが病院ですからね。無理もありません」 「黙れ。おまえの声も聞きたくない」 「でも、それだけじゃありませんね。あの女刑事になにを言われたのです」 観柳は恵が見舞いにと置いていった紫の花束を指差した。席を外すようにやんわりと願われたので、ふたりの間に どんな会話があったのかは分からないが、なにかの意図を持ってあの女刑事が現れたのは穿った見方ではないだろう。 そのあとすぐに蒼紫のこの態度では、内容は押して知るべしといったところか。 「おれはなぜ五年もの間曾我に束縛され続けたんだ」 「それはあなたが一番ご存知じゃないですか。それに納得したうえでのことでしょう」 観柳の言葉を聞いていなかったように蒼紫は、すっと手を差し出した。射るような強い視線が戻り、低いながらもはっきりとした口調で蒼紫は言う。 「絵を返せ」 「曾我を魅了したあなたの絵のことですか?」 六枚羽の天使の絵。それに取り付かれた男は妄想の亡者のようだった。だが、当の本人にとってはただの裸体画にしか 過ぎない。特別忌み嫌って捨ててしまいたいとも思わないが、ある意味一番思いいれの少ない父の遺産だった。 「あんなものだれにだろうが、くれてやる。俺が言っているのは、おまえが取り戻すと約束した母の絵の方だ」 けれど観柳は虚をつかれたようにポカンと蒼紫を見つめる。総てを投げ出してしまった男が執着を見せたもの。 ああ、そう言えばそんな絵がありましたね、程度の認識でしかなかった。約束もしたかもしれないと。 「あれは曾我のお気に入りでね。なかなか手放さないと、何度も言いましたが」 観柳の微かな動揺を蒼紫は見逃さなかった。 「あの男はおれのあの絵さえあればよかったんじゃないのか。母の絵はおれが曾我から離れないようにと、 おまえが唆して手放さないように仕向けたんじゃないのか」 「なにを根拠に。あの女刑事はそんなヨタ話をしにきたんですか? いやはや、女の想像力には際限がない」 「いつから考えることに飽いたのかとあの女は言った」 ――あんたのその頭ん中は空っぽに出来てるの? 武田がなにを与えてくれるの? 曾我をほんとうに愛しているの? あなたのお父さまが残された借財と遺産。それらがどこへ流れていったか考えたことある? その当時子供だった っていうのはただの言い訳だわ。なにもかも丸投げにして、その後の人生までもひと任せで。いまどき子供だって もっと自己主張するわよ。それがラクだってグウタラならまだしも、総てを封じ込めてしまうのはいい加減にしたら。見ていてイライラする。 それまで一度も会ったことのない他人にそこまで言われる謂れはないと憤りつつ、それを言葉にすればそんな僅かな反抗にすら動揺する観柳がいる。 いつからと問われれば、この男と一緒に歩み始めてから。総てを見透かして先回りするように道を用意してきた 男のそれは、気配りの名を借りた、ある種の牢獄だ。 「俺が曾我から離れないでいるとおまえになんの得がある。そうまでして、曾我とつるみたかったわけはなんだ!」 だから彼は畳み掛けた。蒼紫、と観柳は猫なで声を出して近づいてくる。近寄るなと恫喝してもこの男には効かない。 「いい子ですから、落ち着いてください。傷に障りますよ。ただでさえ、あなたの美しい体に銃痕なんて、 気が狂いそうなんですから。ああ、出来ることならばわたしが代わって差し上げたいっ」 ただその言葉に反応して――商品価値以上の粘着質な思いを断ち切ってやるつもりで――やおら蒼紫はジャケットを 脱ぎ捨てると、サイドテーブルの上に置いてあった果物ナイフで自身の傷口に切りつけた。 「蒼紫っ!」 折角塞がりかけた傷口から鮮血が迸る。痛みなど凌駕した観の蒼紫は不気味なくらい静かだ。そして気の毒なくらいに狼狽える観柳と向き合った。 いまはただ己の姿形が厭わしい。 「おやめなさいっ。蒼紫!」 「俺はおまえたちの人形じゃない。おまえによって生き永らえたものになんの価値がある。呼吸して、ただ死んでいないだけの躰のどこが痛む。 おまえなら俺の骸すら美しいとほお擦りしてくれるんだろ。いままで世話になったお礼に、なんならくれてやってもいい」 「ひい!」 騒ぎを聞きつけて看護婦が病室に飛び込んできた。廊下から野次馬が顔を覗かせているがだれも蒼紫を止める手立てはない。 「何をしているの!」 「止めなさい! ナイフを下ろして」 蒼紫には看護婦たちの姿など目に入らない。口をパクつかせている観柳に一歩近づき、手にしていたナイフを頚動脈目掛けて振り下ろそうとした そのとき、 「折角おれが身を挺して守ってやったんだ。粗末にしてくれるな」 と、いつ斉藤に後ろを取られたのか、手首をひねり上げられ、持っていたナイフを取り落とされてしまった。 「貴様、いつの間に」 ひねられた逆に体を回転させ、斉藤の拘束から逃れると、そのまま男の吊った肩に目がけてまわし蹴りを食らわす。 それは斉藤の鼻先を掠めただけだった。その拍子に腕からの出血が蒼紫の頬に点々と跡を残す。一見似合いそうもない凄絶さに、斉藤は思わず口笛を 鳴らした。 「見かけによらず喧嘩っ早いな」 「邪魔をするな、斉藤。おまえには関係ない」 「関係ないものか。おまえはおれの事件の被疑者兼被害者なんだからな。勝手なことをしてもらっては困るんだ。こんな目と鼻の先で不始末を 仕出かされては、上から叱られるなんてもんじゃない。病院側も警備担当者も下手すりゃ、首が飛ぶんだぞ。おまえには分からんだろう。こんな年に なってから、再就職先を探すのは大変なんだ。それに元刑事なんて、とことん、潰しが利かんのだぞ」 「……」 「おまえひとりのせいで、何人が路頭に迷うか」 飄々とした斉藤のもの言いに、迸っていた蒼紫の怒気が少し揺らいだ。それを見て取って斉藤は蒼紫の躰を拘束して、看護婦に目配せをする。 彼女たちは素早くナイフを回収し、取り囲んで止血処置を行った。 それを蒼紫はひと事のようにぼんやりと見ていた。 「武田に聞きたかったことをじっくりと話してもらおうか。ついでにおまえの鬱憤も吐き出してしまえ。テレビドラマなんぞで、よく警察が使う 言い回しだが、ほんとに楽になるぞ」 そう呟く斉藤の声もどこか遠くで聞いていた。 四乃森蒼紫の父の友人だったという老人から、彼らの過去の聞き取りを終えた安慈が署に戻ると、部屋には高荷恵と同じの班の刑事、沢下条張が なにやら楽しそうに親交を暖めていた。 三係長席には彼らのボス、比古清十郎の姿も見える。ある意味、第三強行犯捜査三係の最強トリオのおそろいに彼はこれみよがしに嘆息をついた。 「お帰り、安慈さん。あっついのにご苦労さんやな」 「これは心頭滅却の典型みたいなヤツだから、暑さ寒さは感じないのよ」 「勿体ないな。折角四季のある日本に生まれたのに」 「そんなもの愛でる情緒をちょっとでも持ち合わせてたら、こうまで不毛の独身生活を続けてないわよね」 「うわぁ、恵さん。それ、ひとに言えるん?」 「いい、張くん? 結婚はね、出来ないのとしないとのでは雲泥の差があるのよ〜」 「男運が悪うて、やのに理想だけが高いちゅうんは、十分にでけへん部類に仲間入りとちゃうんか?」 「刀剣オタクで彼女いない歴なん十年のあんたにだけは言われたくないわよっ」 三係が放し飼いにしているドタバタコンビは、ヤマが行き詰ろうが、連日三十五度を記録する猛暑だろうが、至って元気だ。 かみ合わない相手と会話を織り成す努力は徒労だとばかりに、安慈は無言で報告書の作成に取り掛かった。 それが終わったころを見計らって、斉藤一警部補抜きの捜査会議は始まった。 「いま、恵さんにも報告しとったんやけど、曾我が殺されたホテルで四乃森や武田の目撃証言は出てけえへんかったわ。四乃森は免許持ってへんから、 アシに使うとしたら武田の車やろうけど、これも駐車場の記録に載ってへん。タクシーか電車を使って徒歩で殺人現場に来るちゅうのもな、 なんかやろ?」 「武田観柳と四乃森蒼紫以外を想定して、宿泊客と一般客の駐車記録で、不審者のリストアップは現在進行中よ。被害者と関わりのありそうな者が 浮かび上がるかどうか。雲をつかむような話よね」 沢下条のあとを恵が付け足した。 「斉藤はまだ戻らねえのか」 比古の問いに安慈は間もなく、と短く答えた。一時からの捜査会議には間に合うようにすると言っていたから、おおかた渋滞にでも巻き込まれて いるのだろう。 「柏崎って爺さんの話はどうだった」 「高荷の調べに確証が取れた程度です。ただ、分からないことがある。七才で母親を、ついで十五で父親を亡くした四乃森を武田観柳が引き取った 細かい経緯と、画商だった男がどこでひとりのモデルのエージェントに鞍替えしたのか。どこで曾我と繋がったのか」 「武田観柳にとって負の遺産は画伯の借財。益の方は残された絵画と美少年がひとり。あのナルシストの思惑はあからさまだと思うけど?」 「確かにあからさまだ。だが、ちょっと見目麗しかった少年が、そのあと、世界的なモデルに出世するのは、ただの幸運と偶然に過ぎねえ。 そんな海のもんとも山のもんともつかねえものに、ヤマかけるような酔狂な男なのか、武田観柳ってのは? しかもその手塩にかけた男は、 横からトンビにかっ攫われちまったんだろうが?」 倒錯的過ぎて理解できねえのはこの際置いておいて、と比古は顎をなでさすった。 「確かにそうですね。あのふたりの間に曾我を配置しちゃったら、なんかしっくりいかない」 「指を咥えて見守っているタマでもなかろう」 安慈が呟き比古が立ち上がったそのとき、 「もう一度三人の関係を洗い流す必要がある」 痛みが残るのか暑さのせいなのか、汗の玉を浮かべた斉藤が、脱臼した肩を固定した姿で入ってきた。 「おう、名誉の負傷兵のご帰還だ」 「遅れて申し訳ない」 「大げさね。そんなものさっさと取っちゃいなさいよ」 「男かばって怪我するなんざ、おめえもとうとうヤキが回ったか、斉藤」 比古と恵の暖かい出迎えに一瞥を与え、斉藤は比古の斜め向かいにどかりと腰を下ろした。 「それよりも、高荷。おまえ四乃森に何を吹き込んだんだ? あの優男、傷口をナイフで切りつけて武田に詰め寄ってたぞ」 「あら、やるもんね」 「高荷、てめぇっ」 比古の恫喝にも恵はこれ見よがしに組んでいた長い足を組み変えた。彼女がすると色気を覚えるよりも、どこかハッタリに近い ものがあると斉藤は思う。臨戦態勢に入る前に気合を入れ替えるとは、根っからのデカなのだ。 「彼って考えることを無理に押し込めたみたいなところあるから、ちょっと機会を与えてあげたのよ」 くすぐり甲斐のある相手なのよね、とほくそ笑む恵に斉藤はフンと鼻白む。お陰で血を見る騒ぎになったのだ。 「もう一度整理しましょう。調べたデータはみんなも知ってのとおり。十年前、十九世紀末ウィーン分離派の象徴、クリムトやシーレの再来と 絶賛された画家が、膨大な借財を残しままま不審な死を遂げたのが始まりね。その後現れた武田観柳が、残された絵画を売りさばいてその借財を 帳消しにしているわ。そしてその手数料とでも言いたげに、残されたひとり息子を引き取っている」 四乃森家に残った絵画での収益よりも、借財の方が間違いなく多かったはずだと恵は言い切った。 「それを帳消しにするほどの旨味が武田にあったってことなのよ。憶測だったんだけど、それを彼に突きつけてやっただけ。見事に反応したのね」 反応しすぎるほどにな、と斉藤は呟いた。 「十年前っていやあ、曾我は何してたんだ?」 「『アルコーン』はまだ立ち上げてないけど、デザイナーとしての地位は固めつつあったってとこかしら」 「ちょっと脱線するけどええやろか?」 沢下条が行儀よく教師に質問する生徒のように手を挙げた。比古は頷くだけで先を促した。 「曾我の検死結果からの疑問やねんけど、ふつう、絞殺って背後から紐を巻きつけて絞めるもんやろ。殺人者にとっても相手の顔を見たまま 絞め殺すって怖いもんがある。それをあえて正面切ってする場合は、相当深い恨みがある場合が多いって記憶してるんやけど」 「背後に回る時間がなかったとか?」 「それが一番の原因やろうけどな。けど、目の前の相手が紐なんか首に回したら、ふつう体が逃げ打つやろ。それをマル害はあっさり絞めらとる」 「はーい、先生。変体プレイ中だった可能性があると思います」 「曾我は服着とったで」 「しようとしていた、とか」 いい加減にしろ、と比古が横に座る恵を肘で牽制した。放っておくとどこまでも捜査会議が下世話に落ちてゆく。 「高荷、お前が言うな」 「ほんまや。まあ、俺が言いたいのは、なんかすわり心地が悪いっていうか、複数犯の匂いがするっていうか」 「複数犯――」 その言葉を聞いて書類に目を通していた斉藤が顔を上げた。 「比古さん。曾我の家宅捜索の令状取れないか」 「ヤツの自宅の捜索なら終わってるぞ」 「いや、もう一軒、もしくは二軒どこかに別名義かなにかで借りている部屋があるはずなんだ」 「根拠はなんだ」 「曾我の疑惑に欄に不動産不正取得がどうとか、ってのがあった。四乃森自身、場所の特定は出来ないが、一、二度訪れたことがあったと。 使用目的はおそらく曾我のよからぬ趣味がらみだろう。曾我の疑惑を徹底的に洗いたい。ヤクや未成年略取に関するものもあった。 暴力団が絡んでる可能性もある。張の複数犯っていうのもあながちはずれでもないかも知れない」 斉藤は一気にまくし立てた。比古はにやりと笑い顎をなでている。 「おめえはそこに何があると踏んでんだ」 「絵だ。四乃森が探している絵」 「天使の絵だな」 安慈がぽつりと漏らす。それには全員が反応した。 「スケッチしか見ていないが、子供のころの四乃森をモチーフにした天使の絵が存在するらしい」 倒錯的、と恵が感嘆の声を上げる。それを受けて比古が部下たちに指示を飛ばした。 「そいつは、何が何でも探し出して拝みたいもんだ、なあ斉藤」 天使の絵、か。斉藤は視線を流離わせた。蒼紫は曾我が所持している母親の絵だけが自分に残されたものだと言っていた。だが、いずれにしても、 「俺は探し出してやると約束したからな。ヤツに返してやりたいだけだ」 らしくない斉藤の科白に恵が目を丸くする。大柄な比古は腕組みをしたままで高笑いを続けた。 パソコンのキーボードの上を恵の指がせわしなく行き来する。 他の刑事たちが出払った第三強行犯係室。ヒソリと落ちた静寂の中、無機質な音だけが時をも浸食し、差し込みつつある西日はブラインド越しにも、 その熱気を伝えてきた。 空調の利きが悪いのかと、斉藤はネクタイの結び目を緩める。 曾我敬一郎が本人名義で登記してある住宅は自宅にしていたマンションのみ。高荷恵は、曾我が架空名義として利用しそうな法人、身内、 親類などの名前から登記簿謄本を検索させているが、先ほどからの結果は該当なしだ。肩の傷から恵を手伝うように言われた斉藤も落胆の色は 隠せない。 「もともと縁者の少ない人だったからね」 「架空法人という線となると手が出せないな」 「『アルコーン』に税務調査名目で乗り込んだ方が早くない?」 ひと息つこうとふたりはデスク前から移動した。すっかり冷めてしまっているコーヒーに口をつけた斉藤の脳裏に観柳の一言が過ぎる。 ――曾我にとって蒼紫は唯一の存在だったかも知れませんが……。 弾かれたように立ち上がると斉藤は、恵にもう一度パソコンに前に座るよう促した。 「四乃森はどうだ。あいつ名義で何かないか」 「それって、斉藤?」 「曾我が四乃森のあずかり知らないところで名義借りした可能性だ。自宅以外に土地や家屋があったところで、アイツに 固定資産税うんぬんは分からんだろう。四乃森名義の銀行口座から引き落としで、毎年の税金さえ払っていればだれからも 文句は出ない。それを善意と取るか、悪意と見なすかは分からんが」 ひとつ頷いて恵が操作するとすぐにヒットした音が小さく鳴る。恵と顔を寄せるようにして住所を確認した斉藤がポツリと呟いた。 「悪意と出たな」 ――逝くな! 俺を置いて逝かないでくれ! ――なぜだ! なぜなんだ! とろとろとまどろんでもこの環境では熟睡など出来なかった。亡き父があげた絶叫がいまも耳の奥で反響している。 蒼紫は病室のベッドの上で何度も寝返りを打つが、背を伝うじっとりとした汗に耐えられなくなって上体を起こした。 ――お前なしで、どうやって生きていけというんだっ。 ――返せ。返せよぉ。 確かに父は母を愛していた。それは事実だと思う。しかし母の生前より父親としての愛情は蒼紫に向けられたことはなく、 愛する妻の美貌をそのまま受け継いだ息子をどこか忌避していたきらいがあった。 母が亡くなってからはそれはいよいよ顕著となり、父は蒼紫の向こうにいる妻の姿だけを見つめる。あたかも妻に 語りかけるように蒼紫に笑いかける。妻の名だけを口にする。 七才から十五までの八年間をはっきり言って蒼紫はよく覚えていない。いつ果てるとも知れない闇に閉ざされ、 ひっきりなしに入れ替わるハウスキーパーには飢えを救ってもらい、そして下卑た視線を恥かしげもなく押し付けて くる画商だという男ですら、ひかり彩られた下界の住人だった。 父は、弱い人だったのだといまだから言える。妻の死と引き換えに掴んだ名声。望まないのに筆を折る気概もなく、 ただ望みは妻の元へ旅立つことだったのだろう。そんなふうに、そして確実に壊れていく父を冷えた視線で 見つめ続けた。 薄情と誹られようが、実際その死を見取ったときは安堵感の方が強かったのだ。 これで呪縛から離れられると。 ――愛した母の呪縛だ。 冷や汗で湿ったシャツが不快で溜まらず着替えを済ませたとき、遠慮がちにドアがノックされた。低く返事を返すと、 そこには意外なことに刑事としての斉藤一が立っていた。 なぜか蒼紫を捕らえた視線が少し泳ぐ。自己の中に絶対を持っているはずの男のそのさまに、言い知れぬ不安が蒼紫の 中を過ぎる。そんな心情など仏頂面には、わずかにも乗らないだろうけど。 「外出許可を取ってきた。すぐに出られるか?」 行き先も告げられず、真正面を切ってそう告げられ、しかし蒼紫には是非もない。 BGMもなにもない安慈が運転する漆黒のセダンは、エンジン音だけを包み込んで渋滞する幹線道路をひた走っていた。 後部座席に深く収まった蒼紫は行く先について何の質問も挟まない。斉藤もそんな彼の気質を承知しているとばかりに 告げる気もないようだ。車外の風景だけが矢継ぎ早に流れてゆく空間。そのあまりの居心地の悪さに、最初に沈黙を 破ったのは斉藤だった。 「目的地に着く前にひとつ確認したい。おまえ、あのマンション以外に家を持っているか?」 それには何の意図だという一瞥を寄こされた。 「ま、だろうな」 蒼紫は斉藤に向けていた視線を戻すと、窓にもたれたまま移ろう風景をやり過ごしている。新たに巻かれた包帯が少し 痛々しくもあった。 「あまり無理をするな」 なんのことかと、彼の言葉に反応を見せた蒼紫に、斉藤は顎で腕を指し示す。 「武田の口を割らせたいがためだけに、おまえがあの行為に至ったとは思えなくてな。呼吸をしてものを食って、己の 足で立っているだけでは生きているとは呼べない。なにがしたいのか、なにが欲しいのか、手を伸ばすことによって、 ひとは前のめりに進んでいけるんだろう。そのことに、おまえは気づいた。気づいたはいいが、どう足掻けばいいのか 分からない。おまえにとって武田は指針であり枷か? その男の目の前でおまえ自身を消してしまいたかったのか?」 「結局おまえが阻んだんじゃないか」 「死にたがっているヤツの希望をやすやすと叶えてやるほど、お人よしじゃないからな」 「だが、お節介を焼いただろう。あんな刃渡りの短い果物ナイフで、しかも病院で死に切れるなんてだれも思わない。 美しい美しい美しいと、呪いのように繰り返す観柳の口を止めてしまいたかっただけだ。顔に瑕のあるモデルなんか使い物にならないからな」 「意外と悪党だな、おまえ。それとも反抗期か?」 「おれがいま手にしている地位など、少し離れてしまえばだれかにとって代わられる程度のものだということだ」 「それはおまえがどう生きたいかによって変わってくる。おまえ自身の足で立て。だれかに縛られたり依存したりせず、思うままに生きろ。 価値などその後についてくるものだ」 「おれは、おれがこれからなにをしたいかなど、分からない」 斉藤は大丈夫な方の手を蒼紫の頬に添えた。彼はそれを振り切ることもなく虚ろな視線のまま、斉藤のするに任せている。 「そんなもの、だれが分かるもんか。だれが突き詰めてるもんか。ただ考えるだけでいい。なにかを得ようとするだけでいい。おまえのは、 分からないんじゃなくって、考えてこなかっただけだ。それがいまのおまえの答えだ。曾我に縛られ、観柳に囚われているのはおまえがそれを 望んだからなんだぞ」 「だとしたら、そうなんだろ。おれは何も望まない。だから失うものもない。この現状で満足している男に過ぎないさ」 あくまで恬淡と流れてゆく蒼紫に斉藤が口を挟もうとしたとき、 「到着したぞ」 と、安慈の一言が遮った。 目的地には――斉藤たちよりも先に比古たちと鑑識班の車が到着していた。物々しい雰囲気とそれを取り囲む輪が解けて、蒼紫は緩慢な動作の まま車を降り辺りを見回した。ぼやけていた焦点が次第に明瞭になるかのように、珍しく、本当に珍しく彼の表情が変わった。 「これは、おれの……」 見覚えがあるとかないとか。辺りの風景が少し様変わりしたとか。それよりも、歩むときを止めて朽ち果てた洋館は、まるでいまの自分を 見ているようだと、蒼紫は思った。 いつになく厳しい表情の比古が蒼紫の目の前に進み、短く名を名乗ったあとひとつの鍵を差し出す。それを受け取る蒼紫の手は、情けないほどに 震えていた。 「正真正銘、お前の家だ。四乃森画伯の手を離れて、観柳が曾我に売ったみたいだな。それがなんの因果かお前名義になっている」 蒼紫は比古が差し出す鍵を受け取らないまま、手入れの行き届いていない門扉を両手で掴んだ。 いつまでも門扉を掴んで離さない蒼紫に変わって比古が四乃森邸の鍵を開錠した。 十年間硬く閉ざされていたはずの重厚なそれは、何の抵抗なく開かれた。玄関へと続く長いアルコープ。 敷き詰められた石畳の両脇の雑草の成長だけが、捨て置かれた年数をもの語っていた。 斉藤が蒼紫の背に手を添え促す。重い足取りで牢獄のようだった場所へ一歩踏み込んだとき、新たな車が門扉前に横付けされた。 その中から恵と沢下条に付き添われて姿を現したのは武田観柳。それに反応して 蒼紫が立ち止まる。観柳と視線が交錯し、激しい憎悪を押し込めた表情に気おされて先に視線を外したのは観柳だった。 十年ぶりの我が家。父の富と栄誉の象徴。そして母との思い出のない家。 玄関を入ってまっすぐに伸びた薄暗い廊下。綺麗に整えられたそこは何度も人の訪いを受け入れた証拠でもあった。 蒼紫は足早に父のアトリエだった場所に向った。斉藤がそれに続く。比古は鑑識班に家宅捜索の指示を出した。 恵は玄関ホールからリビングへと続く廊下に何気に飾られた装飾品に、顔をくっつけんばかりに接近して鑑賞している。 絵画や陶磁器、アンティーク時計、ガラス細工、工芸品の数々。こんなふうに人目をはばかって後生大事に飾っているの だから、まさかまがい物ではあるまい。その価値は計り知れなかった。 「お世辞にも趣味がいいって言えないわね。一級品ばかりに拘ったコレクション。和洋中折衷でのフルコースは胃がもたれるわ。 仮にもモードの先端をいく方の感覚がこれとはね」 「あっ、でもこれって恵さんが好きなガレのガラス工芸品やん。持って帰ったらあかんで。いくら所有者が故人やからいうて」 人差し指でしっ――と言った仕草を見せる恵に、比古は見張っておけと言わんばかりに安慈へ顎をしゃくった。 「この家は曾我の個人美術館ってわけか。なぁ、武田さんよ」 比古は後方の観柳を振り返らず皮肉な調子で問うた。 「集めに集めたものですね。関心します。私だってこの家に入るのは久し振りなんですから、感慨無量です」 虚構と真実とをないまぜにする性質を持つ男。曾我の後ろで糸を引いていたかも知れない男。 たとえこの家宅捜査で何らかの物証が出たとしても、罪を負うことはない。なんと言ってもここは蒼紫の所有だ。 「さあ、せっかくですから、曾我を魅了した蒼紫の絵を拝見といきましょう」 律儀にもマイ灰皿を取り出して葉巻を燻らせる男は余裕に満ち溢れていた。 先を急ぐ蒼紫の後を追うように斉藤も四乃森画伯のアトリエへ進んだ。開け放たれた扉の向こう、真正面に婦人の肖像画。 これは何号サイズというのだろうか。ほとんど実物大の大きさだった。その前にひっそりと佇む繊細な後姿。斉藤はかける言葉も なく、四方の壁を埋め尽くした絵画をゆっくりと見回した。 その絵はすぐに目にとまった。 正面から向かって右手の壁に、裸体の少年の背に羽が生えた天使の絵が飾られてある。 年の頃なら十才に満たない蠱惑的な素肌をさらし、何かを誘っていると言えば確かにそうかも知れない。 しかしピリピリと音がするほど背筋を伸ばし、こちらに向けている無表情の紫紺の瞳には、矛先の定まらない怒りが見て取れる。 この絵のどこに曾我たちは倒錯的な妄想を感じ取ったのと言うのか。斉藤に沸々とした憤りが滾った。 そんな思いなど微塵ほども感じていない蒼紫が――おそらく四乃森夫人の人物画に手を添えようと伸ばしたとき、 観柳を先頭に比古たちが神聖なる部屋に入ってきた。 「これはすべて四乃森画伯の作品か?」 比古の目にも作風が完璧に二極化していると分かる。暖色で統一された平凡な人物画と、描きなぐられたような強烈な タッチの抽象画とに。一般的に見てどちらに目を奪われるかと言えば断然後者だが、家族にとってはそうではないのだろう。 それを受けた観柳が得意げに作品の解説を始める。元画商の面目躍如といったところか。 四乃森画伯が賞賛を受けたという作品の解説をひととおり終え、観柳は蒼紫の隣に位置を移し、彼が凝視したままの絵を仰いだ。 「父はなぜこの絵を手放したんだ?」 前を向いたままの蒼紫が問う。観柳は身じろぎもしない。 「あの当時のお父上は大変豪奢な方で、得たものすべてをまるで憎むように吐き出しておられた。株に失敗されたり、 必要のない土地を買ったりと。その埋め合わせに売って欲しいと頼まれました。よくご存知でしょう」 「嘘だな。なにがあろうとこれを手放す人ではない」 紫紺の瞳が薄っすらと笑みを浮かべて観柳を捕らえる。怒りを凌駕して、次に告げられた言葉はあくまでも穏やかだった。 「豪遊だの豪奢だのと言うが世間知らずの父が、どこでそんな金の使い方を覚えたんだ。株だって? 土地を購入して 転がそうとでも思っていたと言うのか。あんな蓄財に興味のなかった父が。一体だれが破滅へと導いたんだ?」 「あたかもそれがわたしだと仰る」 「違うのか」 「なんの意図があってわたしがそんな真似をしたと思ったんです。そこまで言うのであれば何か確証があってのことでしょう」 蒼紫が少し言い募る。斉藤の脳裏に四乃森家の財産の略取という平凡な答えが過ぎったが、画伯が脚光を浴びたのは 夫人の死からの約八年間。その間の創作活動の収益をじわじわと掠め取り、蒼紫曰く世間知らずの画伯に散財を仄めか したとしても、今更証明できるものはない。 そのとき、鑑識班のひとりが比古に近づいてきて小声でなにかを告げた。分かっていたというふうに比古は頷く。 ポケットから一枚の紙切れを取り出すと、捜査三係長はなぜかそれを斉藤に突きつけた。厭な役目をひとに押しつけ やがって。だが、仕方ないかと肩を竦めた斉藤は蒼紫に向きなおった。 「四乃森邸から大量の大麻が発見された。麻薬取締法及び薬物所持で、四乃森おまえに逮捕状が出ている」 それを聞いた観柳は困ったように眉を寄せた。白々しいにもほどがある、とはこの場にいた全員の思いだ。 「大丈夫ですよ、蒼紫。いい弁護士をつけます。これは曾我が仕組んだことなんですから。わたしが総力を挙げて あなたを助け出します。なにも心配はいりません」 「おまえの世話にはならない」 はっきりそう言い捨てると斉藤に促された蒼紫はリビングを後にした。 「当然ながら四乃森蒼紫からは薬物反応は出なかったわ。いっそ観柳に反応テスト受けさせたいくらい」 家宅捜査から署に帰りつき、やや憮然とした調子で恵は報告した。特に蒼紫贔屓でなかった彼女でさえも、彼を留置場 に留めておくのすら気の毒といった観だ。 「いうたら観柳って四乃森の保護者みたいなもんやろ。関係者ってことで引っ張られへんか? せや、恵さん。観柳に近づいてオシッコ取ってきてえや」 ぼこっと恵は一課室の壁に拳を突きつけた。 「そのシチュエーション。残念ながら女のあたしより、張くん、あんたの方が適任よ」 「ひやぁ〜。相手はその道の大家やで。めくるめく新境地にどっぷり漬かったらどうしよ」 帰ってくんな、と恵に吐き捨てられ沢下条は、助けを求めて安慈に擦り寄った。そこでも無下にあしらわれ、 一心に報告書に目を通す斉藤の下に行き当たる。肩越しにそれを覗き込んでも彼は何の反応も示さない。沢下条は 仕方なくまた恵の所に戻ってきた。 「斉藤さんすっごい集中してる」 「めくるめく新境地に片足突っ込んでる男だからね」 蒼紫には簡単な事情聴取だけで済ませ、そのあと関係者として一番の難関、武田観柳の取調べが始まった。 物証はなにもない。状況証拠としても使えるとは言えない。ただ語られる言葉の綻びから食い込んでいくしかない。 しかしいつだったか安慈が仄めかしていたように、観柳はのらりくらりと聴取に応じ、簡単に落とせそうにも綻びが見つかりそうもなかった。 拘留期限も迫っている。誰もが疲弊していた。 「あのおっさん、ほんまにむかつくわ。あの比古さんが手こずってんねんで。どうするん? 時間も限られてんのに」 観柳の事情聴取から戻ってきた沢下条が肩を竦めてぼやいた。あとに続く比古の表情も険しい。熱いほうじ茶で ひと息入れた比古は、窓際で佇んだまま煙草を燻らせていた斉藤に近づいていった。 「なんか考えがありそうだな」 あぁというふうに斉藤は隣にいる比古に、いま気づいたらしい。 「考えという程ではないんだが、憶測と希望も含めた意見を聞いもらえるか?」 神妙な表情の斉藤に、比古は黙って先を促した。 「今回のヤマがヤクがらみだとして、死んだ曾我、四乃森、武田のだれからも薬物反応は出なかった。たとえば売る側と 買う側がいるとしよう。曾我、武田の二人は売る側、もしくはさばく側だ。四乃森もそれに入るかもしれない。だが唯一 買って摂取して突然死を遂げたとされる人物がいる」 「四乃森画伯だな」 「ああ。心臓の発作が頻繁に起こるとのことで、医者にかかっていたため検死はされず、ヤクによるショック死かどうかは闇の中だ。 あの当時の武田画廊の法人税を何年かに渡って調べてもらった。画伯が売れ出す前とその後。売り上げは飛躍的に伸びているが、仕入れ額が上がった ためか純利はそんなに伸びていない。にも関わらず次の年に青山の一等地に店舗を移転している。まぁ自転車操業といえばそうなのかも知れない。 次の年は設備投資とやらの名目で赤字に転落している。ただひとつ言えることは、画伯と出会ってからシガナイ画商の周囲が、急に華やかに なったのは間違いないだろう」 「そして曾我と出会う、か」 「接点は画伯の絵。曾我だってその当時は一介の雇われデザイナーだったわけだから、そう何枚も買えるはずもない。 だが強烈な購買意欲をみせ、画商に足繁く通い、画伯宅にかよえるようになり、そこで四乃森の天使の絵と出会う。 あの男は我慢のきかない子供と一緒だ。欲しいとなったらどんな手を使ってでも手に入れたがる」 「しかし曾我には金がない」 比古が厳しい表情そのままで腕を組む。そうすると逞しい体躯から筋肉の張り詰める音がしそうだ。 「金はないが儲けるクチはあるぞ、と。武田はサイドビジネスのクチを曾我に勧める。武田がヤクの密売人だったと いう証拠はどこにもない。おまえの謙遜でもなんでもなく、憶測ばかりだな」 「その意見は甘んじて受けますよ」 「それはそうと四乃森を襲ったやつはだれなんだ? おまえは武田の差し金じゃねぇって言ったな」 「間違いないでしょう。武田は怒ってると思いますよ」 その件で必ず観柳は動くと斉藤は踏んでいた。 ――武田を張れ。 斉藤の提言から、捜査三係は総動員で武田観柳の身辺にピッタリと張りついていた。 恵と沢下条の二人は、観柳のマンションから一本裏手に入った路地に車を止め、その中で待機していた。 観柳になにか動きがあれば、じかに部屋を見張っている仲間から連絡が入る手はずになっている。それがいますぐなのか 一週間先なのか、持久戦になるのは覚悟の上だった。 「なぁ恵さん。観柳のヤツ、自分が疑われてんの知ってるやん。それでもなんか動き見せるんかな」 「観柳が素知らぬ振りをしたくても、相手が黙ってないんだってさ」 「それほんま?」 「斉藤警部補がそう仰るんだからそうなんじゃない?」 もはや斉藤の推理を信用しているとか、していないとかの問題ではなくなってきた。それは先ほどの捜査会議での一致した意見だ。 まずは曾我。邪魔になったのか、もう用済みになったのか、おそらく複数犯によって前後を固められ絞殺された。 そして狙われた蒼紫。この行為によって、曾我が組織に必要なキーワード白状させられた上で、消されたのだと斉藤は言う。 「曾我が喋ったキーワードによって、組織は蒼紫が邪魔になった」 「せやから四乃森邸の家宅捜索を早めたんやな。でもそれって恵さん……」 「そう、蒼紫は四乃森邸が曾我の持ち物になっていることすら知らなかったのよ」 「なんかややこしいな。そしたらその組織とやらは、焦って四乃森を狙撃せえへんでもよかったってことやろ。四乃森は、元自分んち にあないにぎょうさんのヤクが隠されてたなんて知らんねんから。 ってことはやで、曾我はわざと四乃森を組織に殺させようとしたんやろか?」 恵が何か言いかけたそのとき、助手席側の窓が軽くノックされた。斉藤が缶コーヒーを三本持って立っていた。 ロックが外されるとそのまま後部座席に入り込み、前の二人にそれを差し出す。 「サンキュー、気が利くじゃない」 「武田に動きはないみたいだな」 「そうね。でもあの男の監視及び保護って、なんかけったくそ悪い話よね」 「ホンマ恵さんの日本語ヘン」 「張くんに言われたくはないわ」 沢下条は後部座席でふんぞり返ってコーヒーをあおっている斉藤を振り返った。 「なぁ、斉藤さんどう思う? 曾我は殺される間際に、わざと組織に蒼紫を殺させようとしたんかなぁっ、てとこまで話しててんけど」 「バカね、張くん。斉藤は動機撤廃主義者なのよ。曾我の心情なんか忖度するもんですか」 「わざと、か」 「あらら」 斉藤の意外な反応に恵が目を見張る。 「珍しいじゃない。斉藤が他人の心情に反応するなんて。それほど今回のヤマと登場人物は魅力的?」 恵の毒舌にも乗ってこない。もう一度恵は大きな目を瞬いた。 「俺も最初はそう思ったさ。売りに出された四乃森邸を極秘に買い戻す。その中には曾我が欲しかったコレクションまで 収まっている。だがそのコレクションも、そこに四乃森がいてこそ完成じゃないのか。なぜヤツをそこに住まわせなかったのか。 最初はそのつもりだったかも知れない。画伯の絵を買い戻し、四乃森をそこに封じ込める。一生ヤツは曾我の下から 離れないだろう。そうする計画だったんだと思う。だが、曾我の美意識に反する物があの屋敷に貯まりだした」 大量の薬物。 そう、その方向性がどうであろうと、あの屋敷は曾我の箱庭みたいなものだった。美しい物、高価な物、欲しかった物 すべてを並べたてた。その愛しい物たちの中に入り込んできた異物。それが自らの意思なのか、誰かに強制された結果なのか、 曾我の性格からして想像はつくが、だからこそ彼は異物の混じったそこに、蒼紫を迎えようとはしなかった。 コレクターとしての美意識故に。 「もしかして曾我は、流出した画伯のすべての絵画をそろえてから、あの家を蒼紫に見せたかったのかしら?」 「それって、悪意どころか、めちゃくちゃ……」 「そうかも知れんな」 「でも観柳の意図がいまイチ掴めないわ」 「それは同感だ」 そのとき、無線から無機質な安慈の声が聞こえてきた。 「武田が動いた」 一定の距離を保って観柳の車を追跡する。尾行を読まれている可能性は十二分にあり得る。見失わないように、追跡の車は 斉藤たちの一台だけではなかった。ナビゲーションを駆使して追跡車を交互に変え、ひたすらその跡を追う。 捜査本部でその指揮を執っているのは比古捜査三係長。彼の指示で拘留中の蒼紫が傍に呼ばれた。上に見つかれば始末書くらいじゃ 済まないぞ、と周囲がさんざめく。それを比古は一瞥で制した。異例というより異様な光景だった。 「武田の車がどこに向っているか、想像つくか?」 比古はナビ画面を指でなぞり、蒼紫にその周囲の地理を把握させる。大して興味もなさそうに蒼紫は否定した。 「そうか。それじゃあせいぜい見学してるんだな」 ナビ画面と無線に群がる刑事たちからひとり離れて、蒼紫は軽く腕を組んで窓辺にもたれかかった。 ブラインドから差し込む僅かな陽の光が、複雑な陰影を彼に与えている。彼の意識は幼かった頃へと流離った。 父が死んだ後、親友だった柏崎を押しのける形で、観柳がその後のこと一切を仕きりだした。蒼紫はただ座っているだけで 葬式から初七日などが通り過ぎていき、煩わしいことが億劫だったので、観柳に感謝こそすれ何の不満もなかったはずだ。 生活を一新しましょうと、家屋敷と父の遺品を売りさばき、フランスへと同行され、なぜか写真家に引き合わされ、気づいた 時にはモデルとしてデビューしていた。 ――あなたの美しさは世界を魅了しますよ。 当時の観柳の口癖。実際そのとおりに仕事は舞い込み、そして曾我に出会った。 曾我が自分の何に期待していたのか理解していたし、熱い言葉を囁かれ、肌に触れられても嫌悪感はなかった。 人肌の温かさに飢えていたせいもある。愛されているという事実に戸惑いながらも、それに応える術も、 購う気概も残っていなかったのだから、曾我の執着を非難する資格は自分にはないと思う。実際曾我は暖かかった。 無理強いされた覚えも自尊心を傷つけられた記憶もない。ただ、芯は凍えたまま流れに身を任せていた。 欲するものなど何もなかったから。 では、観柳はと思う。観柳は自分に何を求めていたのだろう。立場的に絶対優位のはずの曾我が、微妙に観柳に へりくだる。社会的地位では推し量れない何かがそこに存在していた。蒼紫を中心に据えて、観柳と曾我。 ――曾我はあなたの美しさを一層引き立ててくれるでしょう。 ――曾我のデザインはいい。気品と野性味を兼ね備えていて。まるであなたそのものだ。 ――曾我のショーはあなたのために存在するようなものですよ。 ――曾我は……曾我は……。 いままで考えてもみなかった。観柳が何を考え行動してきたのか。あれも一種の享楽主義者だから、地味な画商に 飽いて、華やかなショービジネスの世界に身を投じたかったのだと思っていた。実際、頻繁に開かれるパーティーでは、 無口な蒼紫に変わって嬉々と飛び回っていたし、ヨーロッパで成功するということは、ある種社交界に直結する意味もある。 ――そんなもののために。 「武田の車が停止しました!」 「現場は工事途中で放置されたらしきビルの一角。半径五キロに包囲網、完了です」 一際高くなった周囲のざわめきに、一気に現実に引き戻された。 「一号車到着。二号、三号も五分以内に到着します!」 「救護班の配置完了しました」 「ヘリの用意は出来ているな! 斉藤たちには、我々が到着するまで包囲したまま動くなと伝えろ!」 スッと比古たちの前に進み出た東洋の神秘。それだけの動作で、一刻を争う修羅場がひっそりと静まり返った。 比古が眉間にしわを寄せる。それに構わず、蒼紫は低く呟いた。 「おれも同行させてくれ」 都会の片隅にひっそりと捨てられた建造物。むき出しの鉄骨やコンクリートの塊の侵食加減が、放置された年月を物語っていた。 その前に、観柳の車以外に黒塗りのベントレーが一台止まっている。斉藤たちは周囲 を見回すが、ひっそりとした静寂のみで、中の様子を窺い知ることはできない。斉藤の合図で開け放たれた入り口近くに身を潜め る刑事たち。後は比古の合図で突入を待つのみだ。 永遠に続くかと思われた沈黙の後、包囲が完了したとイヤホンが伝えてきた。比古たちも到着したのだろう。 斉藤はゆっくりと手を挙げそして下ろす。 ガラスのはまってない窓枠から次々と刑事たちが侵入していく。砂利を踏みしめる音を最小限に気を配り、区切られた支柱や 壁で迷路のようになったそのフロアを用心深く進む。最奥部らしき部屋にひとの気配を感じた。 大きく切られた窓を背に、積まれた鉄骨に腰掛けている男がひとり。派手な文様の背広に黒眼鏡という奇異な出で立ち。その左右には 黒服の男たちが配置されていた。無表情で近づく観柳に黒眼鏡の男は大仰に手を叩いて喜んだ。 「いらっしゃい。このわたしを呼び出すとは、随分偉くなったものだな、観柳」 随員の数は五。みな一様に拳銃で観柳に狙いを定めている。その中を悠々と観柳は進んだ。 「相変わらずお目出度い格好をなさっておいでだ。少しは品よく纏められてはどうです」 「センスの欠片もないおまえに言われたくはない。それとも暫くファッション界で遊んだお陰で、垢抜けたとでも思ったか」 「確かに楽しく遊ばせて貰いました。しかしそれも終わりそうだ」 言うが早いか観柳はコートの中に下げていた機銃を取り出す。男は嬉しそうに黒眼鏡を外す。男には両目がなかった。 「扱い方を知っているのか? 下手をするともんどり打って、自分の足を吹っ飛ばすことになりかねん」 似合わない、止めておけと嘲笑されるも観柳はピタリと男に標準を当てたままだ。 「私の蒼紫に傷をつけた罪を購っていただかなくては、宇水さん」 宇水と呼ばれた男は哄笑を続ける。 「ほう、あの小僧への拘泥のためにここで相撃ちになろうって算段か。大した執心ぶりだ。しかし小僧はあの気障な男 にくれてやったのだろう。ヤクの売買に協力してくれたご褒美に。あぁそうか違ったな。くれてやったんじゃない。恋着するも、 それを形にする術を持たない男だったな、おまえは。愛しい者が他の男に組み敷かれるのを指を咥えて見ていることで、 己が情欲を満足させていたのだろうな。存分にお悔やみ申し上げる」 「少しも気の毒がっていただかなくても結構ですよ、宇水さん。わたしの望みは十分叶いましたので」 「十年近くそばに居てそれで満足か。わたしには負け犬の奇麗事にしか聞こえんな。にしても少々あざとい。わざわざ鼠を呼び込 んで仲間を売り飛ばして、それでやつ等に守ってもらえるとでも思ったか」 「仲間? わたしは一度たりともあなた方を同胞だと感じたとこはありません」 「同盟、決裂か」 「もとより」 宇水が黒眼鏡を放り投げたのを引き金に、観柳は後方の壁に潜んでいる斉藤たちに向けて機関銃を乱射した。刑事たちは咄嗟に 身を低くして凌ぐ。むき出しのコンクリートが弾けて辺りを白煙が舞う。煙ぶる砲煙。視界が利かない。 迂闊に飛び出せなかった。 もうもうと立ち込める中、何かが動く。観柳ではない。目が見えないはずの男は、滑るように斉藤の横を過ぎようとした。 肌を刺す殺気を感じ取りライフルの銃身で打擲する。ごきっという鈍い音。 だがその相手を留めるだけの威力はなかった。反撃を警戒して反対側に逃げるが、痛めつけた筈の男の気配は消えていく。 斉藤は弾かれるように叫んだ。 「気をつけろ! やつ等は逃げるぞ!」 出口を固めるよう外の比古にも指示を送る。しかし―― 「斉藤!」 一際高い悲鳴。恵だと知ると、斉藤は舌打ちをして入り口に戻る形でその気配を追走した。 「恵さん! 斉藤さん! 恵さんが!」 ようやく視界が開けてきた。安慈や沢下条が気づいた時には、その場には黒服の随員が残されているのみで、宇水や観柳の姿は なかった。黒服たちが呆けている隙に張と安慈が彼らの拳銃を弾き落としていく。ふたりは素早い身のこなしで当身を食らわせ、 次々に手錠をかけていった。 「雑魚どもの捕獲は終了しました。しかし、武田たちが高荷を人質に――」 『あぁ、斉藤が追っている。外の包囲は固めた。応援をよこすから到着するまでその場に止まっていてくれ』 宇水の部下たちの呻き声だけの空間。安慈は危惧の念で入り口を振り返った。 ヘリで急行した比古は、その中で待つよう蒼紫と見張りの刑事に言い残し廃屋へと向った。ローターを止めて静まり返った 周辺に突如機関銃の爆音が立て続けに起こった。取り囲む刑事たちに緊張が走る。時間的には僅かであろう静寂。寸刻の後、 ビルの入り口から恵の背に拳銃を当てた男と観柳が出てきた。それを確認して、ヘリの中の蒼紫が腰を浮かす。 それを刑事が諌めた。 「ダメだ。あんたは拘留中の身なんだ。ここから一歩も外に出すわけにはいかない。連れてきただけでも始末書ものなのに、 係長は一体何を考えてるんだ」 「おれが何かのきっかけになると思ったんじゃないか」 そう言うと蒼紫は隣座席に座っている刑事の方へゆっくりと身を寄せていく。あわっと焦った刑事を窓際へと追い詰めた。 長い前髪から見え隠れする憂いのある瞳が年若い彼を捕らえ翻弄する。扉部分に片手をつき、刑事をその中に閉じ込めた。 ほとんど鼻先が触れる位置にまで接近を許し、その気はなくても恐れと期待が入り混じった感覚に驚愕した。その名が示すとおり、 深い紫紺の瞳に縫いとめられる。 「ち、ちょっ、何を!」 蒼紫の朱唇が彼の耳元で何かを紡ぐ。 ――すまない。 そう認識出来た時にはすでに、扉の取っ手部分に己の手錠で拘束され、ひらりとした身のこなしの容疑者に 逃げられた後だった。 恵を先頭に宇水がぴったりと寄り添い、観柳はその背後から牽制している。気丈な恵は微動だにしない。前方には比古たち。そして遅れて斉藤が背後から 彼らを取り囲んだ。宇水が叫ぶ。 「ちょうど手ごろな乗り物があるな。ヘリ一台と操縦士をお借りしよう。この刑事は我々が逃げおおせるまでの人質だ」 「状況を正確に把握するんだな。この包囲網をどうやって逃げ切れると思っているんだ。日本警察の包囲力を甘く見るなよ」 比古が口端を上げていつもの揶揄るような口調で返した。しかし射るような視線に余裕はない。 「人命は何においても尊重される。そうだろう、刑事さん。日本の警察は人質に危害を加えてまで犯人逮捕に踏み切る勇気はない」 「ひと思いに撃っちゃって。あんたみたいな大物を逃すきっかけをつくったのがわたしだと思うと、その後の人生、 生き永らえる自信がないわ」 こんな場面でも恵はあくまでマイペースを崩さない。恐れ入ったと比古はひとりごちた。 「なかなか愉快な女刑事さんだ。意気込みを感じ入ったが、生憎いい女を背中から撃つ性癖はないものでな」 「わたしも好きでもない男に背後を取られたくないわ」 「口の減らない女だ。だがその調子でやってくれると、味気ない逃亡生活も楽しめそうだ。気に入った」 その時、滅多なことでは動じない筈の斉藤と、その少し前方にいる観柳の瞳が驚愕に開かれた。彼らと向かい合う形の比古が 弾かれたように後ろを振り向く。ゆっくりと歩み寄る蒼紫。冤罪が分かりきっているとはいえ、拘留中の容疑者が当然のように 登場していい場面ではない。比古の力強い腕がそれを留めた。 「だれがこんなところに出てきていいと言った」 比古は部下たちに向って顎でしゃくり拘束するよう促すが、蒼紫はその手を振り払って宇水に告げる。 「その女を放せ。人質ならおれがなる」 「蒼紫!」 宇水はひと通り蒼紫を眺めつくすと背後を振り返らずに観柳に冷笑を送った。 「ほう、おまえがそうか。観柳が何ものにも換えがたいと執着した掌中の珠。なるほど納得できる。喜べ観柳。小僧は我々と 同行してくれるそうだ。楽しい逃亡生活が望めそうじゃないか。なぁに窮屈な思いは少しの間だけだ。国外に出てひと所に 落ち着けばえも言われぬ贅沢をさせてやる。おまえもこの小僧がわたしの手の内にあるなら、少しは身を入れて組織のために 尽力してくれるだろう。実際おまえの商才には敬意を払っていたのに、とち狂ってマネージャー家業とは笑わせる」 それは楽しそうに今後の予定に妄想を馳せる宇水と違って観柳の表情は厳しい。小さく何度も何度も首を振った。 「こちらに来てはいけません、蒼紫。忘れたのですか。この男はあなたを殺そうとしたんですよ。あなたに銃口を向けさせた のです。あなたの害になることはあっても救うことはけして出来ない」 「さも己が味方か何かのような口調だな。小僧の父親を死に追いやった張本人が」 蒼紫は驚きもせず、知っていると小さく呟き一歩前に出た。 「知っていて親の仇に身を委ねたか。いかにも業の深いことだ」 「少なくとも観柳はおれをあの家から出してくれた。父の死に関しては別問題だ」 「黙殺したのか。それとも一緒になって父親を殺したとでも」 「開放されたかった」 あの頃はそう渇望していた。望んだそれを叶えてくれたのは観柳だけだと言い切れる。父の死因はショック死。享楽を与えてくれる 薬物の量を謝ったのか、自暴自棄になって甘んじてそれを受け入れたか、無理やり摂取させられたかは窺い知れないが、 いずれにしてもすでに生を紡ぐ意味を見失っていた父は廃人同然だったのだから。それから立ち直る 術をだれも持っていなかったのだから。 そう言う蒼紫に観柳は正視できないでいた。おそらくもっと狭量に満ちた所由からの行動だったのだろう。 「折角開放されたのにまたぞろ囚われの身に転じる気分はどうだ」 「あのときの父の気持がいまは理解できる」 「だめだ!」 後方を死守していた観柳が突如前に出た。宇水に囚われた恵にぶち当たり、蒼紫を庇うように覆いかぶさる。その場の 均衡が崩れた。 「四乃森! 動くな!」 比古たちが動くよりいち早く斉藤の銃が火を噴く。中央に宇水。恵は左にずれた。宇水と少し被さるように立っている 蒼紫。その彼を身を呈して守る観柳。他の三人に被害が及ばないであろう弾道を選んで、斉藤は何の躊躇なくトリガーを 引いた。蒼紫はほとんど己に向けられた銃口から目を逸らすことなく微動だにしなかった。 硝煙とくぐもった宇水の呻き声に遅れて目の前に鮮血が迸る。崩れ落ちる体を蒼紫の腕を掴むことで支えていた宇水の手が少し づつ離れていった。どさりと宇水の体が地面に伏したのと、周囲の刑事たちが駆け寄ってきたのとはほどんど 同時だった。 「まったく肝が冷えたぜ」 肩口を斉藤の銃で貫通させられた宇水は救急車へと搬送されている。当然組織の内情に通じていた者として観柳も手錠が掛けられ た。ぼんやりと立ちすくむ蒼紫の後ろ姿が、まるで捨てられた猫に似ていて、斉藤は声を掛けられずにいた。 実父を死に導いたであろう男の手の内で、引かれたレールの上を歩いた十年間。自らの意思なく仕事を宛がわれ、恋人を宛がわれ、それ でも以前よりはほんの少し幸せだったと言い切った。丸抱えされ、押し付けがましい愛情でも以前よりマシだったから蒼紫は 観柳から離れなかったのだろう。それは頑是無い子供や路頭に迷う小動物が、保護されたい願望と同じだと斉藤は思った。 「観柳……」 刑事に引き立てられていく観柳の背中に向ってぽつりと告げた。聞こえる筈のない距離にいた彼が振り返った。 「さようなら、蒼紫。あなたを手中にしたと錯覚できた月日は愉しかったですよ。十年は人を成長させますね。あなたが出会った頃 の天使のままでいてくれたらどんなによかったでしょう。いっそあの時殺して剥製にでもすればよかったのかも しれません。だが、曾我の目に留まり世間が認めるほど美しく成長したあなたを自慢したかったのも事実。あなたが欲しくて 父上を死に至らしめたのも事実。恨まれていると憎まれているとわかっていて、それでも歓喜に震えていたのです。そうなれば あなたの目の端からわたしが永遠に消えることはありませんからね。満足ですよ」 惜別の言葉を淡々と告げる観柳に、後ろ髪を引かれているのは蒼紫の方かもしれない。それを留める意味で斉藤は 蒼紫の肩に手を置いた。それを認めて嗤う表情はいつもの観柳だ。 「お気をつけなさい、蒼紫。世間にあなたに見合うだけの人間は数少ない。実際曾我はいい男でしたからね。自分を安売りしては いけない。それは断じて許しません」 釘をさすことも忘れない。 砂塵混じりの風が舞う。乾いた風が心地よい。その中を観柳が消えていく。 庇護され続け、安穏とした生活に終わりを告げるべく、蒼紫もゆっくりとその場を立ち去った。 end
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よ、漸く終了しました。最後まで読んでいただけた方、いらっしゃったらごめんなさい。 ただ、斉藤と 蒼紫が出会うだけの話のつもりが、なぜにこんなに冗長に。ほんとに取るに足らない話をダラダラと時間をかけてしまいました。 しかもラスト前あたりから、このままじゃ観柳がいい人で終わってしまうよ〜という危惧のままこんな展開で。 もっと刺激の強いヤな役で終わらせるつもりが、完全に筆力不足です。 ラスボス(強いって意味じゃなく、ホントにラストにしか出番ないボス)は名無しのボスってのにしようと思ったんですが、 某所で観柳と宇水が出会うなんて触れたものですから、急遽登場です。 でもだれもこんな安易な設定での邂逅を見たいとは 思ってないと思いますが、出しちゃいました。これもごめんなさい。 |