京宴 ―― 過去からの誘い







 その依頼人は紫地の上品な小紋に身を包み、小さく小首を傾げて妖艶に微笑んだ。
 夕闇が辺りを侵食しようとする鈍色の室内。誰(た)は彼そ。冬の陽は翳りが早く、まさしく今、目の前に座している婦人が幽玄に霞む。 職業柄、修羅場と愁嘆場には動じない蒼紫の喉がごくりと上下した。



「奇妙な依頼なの」
 四乃森蒼紫が「葵屋探偵事務所」に帰り着くと、同じ調査員の巻町操が口を尖らせて迎えてくれた。何でも 蒼紫を名指したその依頼人は、不在だと告げても待つの一点張りだったらしい。丁度手の空いていた操が 代わりに対処しようと促しても、優雅な仕草で拒絶されたという。
「一時間近く待ってるよ、あの人。またどこかで無意識にフェロモン振りまいた結果の、被害者じゃないでしょうね。 まったく、下は幼稚園児からお婆ちゃまにまで守備範囲広いんだから」
「身に覚えのないことをとやかく言われても、対処の仕様がない」
「そういうのが一番始末に終えないんですよね」
 早く行けとばかりに柳眉を逆立てた操に追いやられて、蒼紫は恐る恐る婦人の前に立ち、待たせた詫びを入れた。
「いいえ、お気になさらないで下さいまし。私の気儘でさせて頂いたことですから」
 婦人の眼差しに溢れる慈愛の正体が掴めない。戸惑いながらもその前に座った。
 どこかで会ったのだろうか。足掻くように記憶を辿るが心覚えがなかった。
 年の頃は三十五、六。少女が清楚なまま齢を重ねた清々しい雰囲気と同時に、何ものにも動じない豪胆な気質を併せ持つ 存在感のある女性だった。
 操が依頼人の前に二杯目のお茶を静々と差し出す。ペコリとお辞儀をして立ち去る彼女の後姿を、その婦人は眩しいもの でも見るように目を側めた。
「それでご依頼とは」
 何時までたっても依頼内容を話そうとしないのに苛立って蒼紫が少し前のめりになった。そうでしたね、と何処か遠くを 漂う視線がえも言われぬほど美しい。あなたは――と彼女は続けた。
「大切な人が手の届かない場所へ一人で行ってしまう恐怖をよくご存知のお方。それでも薄れてゆく傷跡に、痛みを感じ なくなったとしてもそれは致し方のないこと。それではいっそ、あなたが不憫と思い、差し出がましいと知りつつ 一言申し上げたくて参じました」
「あの、」
 淀みなくたゆたう視線に背筋が凍りついた。知らずに立ち上がったと、その婦人に窘められて漸く気づく。
「申し訳ありませんが、仰っている意味がよくわかりません。一体あなたは何をご依頼に参られたのか。俺にどうしろと 言われるのか」
「京にお上りなさいまし」



――京都へ……。
 そう言い残してあの男は去っていった。警視庁捜査一課警部補斉藤一。
 傲岸不遜で唯我独尊の典型。横柄で尊大な人格が服を着て拳銃を握っているような危険人物だ。そして凪いた水面のような 蒼紫の自制心を、容赦なく掻き乱す諸悪の根源であったりもする。
 当然のように休暇を取れ、一緒に行こうと言われにべもなく断った。殉職した同僚の墓参りだと、いつも 強引な男が垣間見せた寂然とした様が片隅に過ぎった。あれから何日たった? 三が日明けに取れた非番を利用すると 言っていた。そうなると約一週間連絡がないことになる。心もとないのはその時間ではない。眩暈を覚える奇妙な既視感。 しかしそんな蒼紫の昏迷に婦人は構わず続ける。
「当時抱いてらっしゃった宿願はもはや関係ありません。ただ、今、お行きにならなければ、また悔恨 の根を下ろすこととなります。そのようなことは一度で十分でしょう」
「何を言ってるんだ。宿願だの悔恨だのと。分かる言葉で話してください!」
 今一度立ち上がり、珍しく声を荒げた蒼紫の腕に操の手が掛かる。落ち着けとその目が訴えていた。
「申し訳ありません。それで俺は京都の何処へ行って、何をすればいいのでしょう」
「行けば自ずと足が向きますわ。あの方もそれを待ってらっしゃいます。憂いてらっしゃいます。あの方々もそんなことを 望んではいないのだけれど、哀しいことに呼び合ってしまった。望んでいないのだから、せめてお止めしたくて。今を生きて いるあなた方が、亡者に翻弄される謂れはないのです」
「せめてもう少し具体的に言って頂かないと。あの方とはだれです。あの方々とは」
――四乃森蒼紫さま、と小さく呟いて婦人は立ち上がった。操にもてなしの礼を告げると、軽い足取りで戸口へと進み ドアノブに手を掛けた状態で振り返った。
「あなたが大切に思ってらっしゃる方と、そのお方が大切に仕舞い込んだ方々との想いが触れ合ってしまいました。 連れ戻すことが出来るのはあなただけではないでしょうか」
 大切な――と言われ浮かんだ姿を瞬時に打ち消し、不安だけを残して去ろうとする婦人を追いかけた。その背に向って 叩きつける。
「あんた一体何者なんだ」
「すぐにお支度なさいまし。逡巡なさっている暇はございません」
 そう言い残し出て行った。



「蒼紫さま!」
 パタリと閉じられた音と操の声に反応して、蒼紫は立ち去る婦人の後を追う。既に廊下にその姿はなく、エレベーターが反応して いないのを確認して、階段を飛ぶように下りた。雑居ビルの寂れたエントランス。辺りを見回せば、扉の向こう側の雑踏に、紛れそうな 小柄な和服の後姿を見つけて蒼紫は駆け出した。まだお話が――とその婦人の肩を掴んで振り向かせた蒼紫の背に冷たい汗が 伝う。
「何なの?」
 と、鋭い眼差しを向けてくる和服の婦人に見覚えはない。しかし、間違えようのない紫地の小紋。この錯綜感は一体何だ。 蒼紫の手が宙を彷徨った。 固まってしまっている蒼紫に変わって、駆けつけた操が訝しげな婦人に詫びを入れてくれた。 その婦人の背が雑踏に紛れていく様を見送って、操がポツリともらす。
「何だったの一体? 幽霊にしては時間が早すぎるし、二人して狐に化かされたかな」
 だとすると、妙に生々しくて琴線に触れる妖しが出現したものだ。
 ビルの谷間に沈もうとする陽が目に焼きついた。
 京都。今から出ても着くのは夜。バカなことをと蒼紫は小さく何度も首を振った。
「気にしない方がいいよ、蒼紫さま。戻ろう。景気付けに翁が戻ってきたらたかっちゃおうか」
 動こうとしない蒼紫に操はさらに続けた。
「あのね、こういう時は関心持っちゃダメなんだって。何が言いたかったんだろうとか、どうして出てきたんだろうとか 思うと、憑かれちゃうって翁が言ってたよ。喜ぶことしちゃダメ」
 帰ろうと蒼紫の袖を引く操の手を取り、蒼紫は俯き加減にポツリと告げた。
「操、あれは幽霊などではない」
「えっ?」
「すまないが翁に伝えてくれ。二日程休暇が欲しいと」
「蒼紫さま!」



 京都駅に降り立った蒼紫は迷うことなくタクシーの運転手に行き先を告げた。
――自ずと足が向きます。
 まったくそのとおりだ。何の激情からか後先考えず新幹線に飛び乗り、行き先すら分からない男を追い、それでも 根拠のない確信があって。それもこれもあの男が去り際に見せたもの哀しい表情が、どこか脳裏に焼きついて仕方なかった からだ。正気の沙汰ではない。
 四条大宮辺りでタクシーを降り、夜更けの京都を闊歩する。斉藤の同僚の墓の場所など知らないし、宿泊先など分かりようも なかったが、京都へ行くのなら素通り出来ない場所なのではないかと漠然と思った。 大通りを一本南へ下ると道幅は途端に狭くなる。そのまま嘗ての名家を通り過ぎ壬生寺へ。
 蒼紫が踏みしめる砂利の音だけが木霊する空間。そう大して広くもない境内に、月明かりに映えて燻ゆる煙草の煙が、中天にかかる 白刃の月にまで届こうかとしていた。 慣れ親しんだ その匂いが漂ってきたのはその後だった。蒼紫の立てる物音に反応して、ゆるりと振り返る壬生の狼。細められた双眸の琥珀 が幽玄の河岸へと誘った。斉藤であって斉藤でない者。抜き身の真剣を突き立てられたような緊張感が走った。
「おまえはたれだ」
 低く五感を揺り動かせる斉藤の低音。ざわりと肌が粟立つのをどうにか堪えた。
「あんたこそこんな所で何をしている。斉藤一ともあろう者が我を忘れたか。思い出せ。あんたは何処に居たってあんた だろう。誰に心を明け渡している」
 蒼紫が一歩踏み出し斉藤の琥珀が揺れた。そのまま咥えている紫煙の元を指で摘むと後方に放り投げた。 何をするのだとばかりに差し出されたその手を掴む。



――あの方々もそんなことを望んでいないのだけれど……。



「済まないがこの男を俺に返してくれ。亡き同僚を悼むその気持だけ受け取ってやって欲しい。あんたは、現世に思念を 残すような生半可な生き方をした訳ではないだろう。だが俺たちはまだ存分に生きたとは言えない。俺もこの男もまだ 生にしがみ付きたいんだ」
 そしてそのまま斉藤を引き寄せ頬を寄せる。びくりとその背が震えた。
「斉藤、俺と一緒に帰ろう」
 静粛な儀式のような行為が永遠かと思われた。
 この男を抱きしめたことなど嘗てあっただろうか。この男を追いかける羽目に陥ろうとは想像だにしなかった。 歯の浮くような睦言を他人事のように聞き流し、どうせ戯言と高を括ってきた。当たり前の日常と存在して当然と信じた ものが、応えを怠ると簡単にすり抜けていく。
「斉藤、俺はあんたに行って欲しくない」
 蒼紫の耳元で言葉にならない吐息が漏れた。宙を浮いていた斉藤の両の腕が蒼紫の背に縋りつく。息が止まるかと 思った。
「し、四乃森……?」
 慣れ親しんだこの男独特の温もりと匂いが戻ってくる。蒼紫の元に。
「おまえ、何をしている」
「夢だと思え。あんたのせいで妙な白昼夢を見せられた」
 蒼紫の表情が見たいと肩に手を掛けて引き離そうとするが、頑是無い子供のように更に纏わりつく。斉藤は低く嗤った。
「少し距離を置いてみるのも悪くないな。どういった心境の変化かは知らんが」
「少しどころの話じゃなかった。知らぬは斉藤、あんたばかりだ」
 草木が啼き影が擦り寄り、月が嗤う。
 なぶる夜気の冷たさを程よく忘れる京都の夜だった。



end





キリバン5000を踏んで頂いた葉月さまに捧げます。
蒼紫から告白――と伺って、何を告白しようかと悩んだ結果、このようになっちゃいました。
「愛してる」は言えない人かな。またしてもはずしてごめんなさい。
過去と現代、虚と実が微妙にリンクした話が書きたかったので、リクエストに 便乗する結果となりましたが、意味不明だし、斉藤出番少なすぎ。