Instruction







 ひと際暑かった夏の、最後の足掻きとばかりの陽光がジリジリと肌を刺す日曜の午後。
 警視庁捜査一課勤務斉藤一は、久しぶりに訪れた非番の午前中を 日常品の買い足しと部屋の掃除に費やしてしまい、何とか昼食にあり付こうと駅前の小さな繁華街を物色していた。
 勤務中はロクな食事を取れない激務。たまの休日にはバランスの取れた和食が欲しいと体中が訴えている。
(夕飯は何か煮込みでもつくるか)
 強面の警部補、これで器用にシチューやブイヤベースなんかを手作りしたりする。
 そういった料理なら冷凍にして、何日か後にでも食べられるから経済的だと、ふつうの主婦感覚も持っていた。 長年のひとり暮らしが培った健康管理が成せる技だ。
 この年でファーストフードなど胃と味覚が受け付けないし、手近な定食屋もいつもだと飽きてくる。少しずつレシピが 増えだして、同僚の安慈などには結構評判がよかったりするのだ。
 もう少し寒くなるとおでんかかす汁が恋しくなる季節だ。折角の休日に思い悩むのがきょうの夕飯だと思うと、 なにやら情けないものがあるが、さっさと昼飯を済ませて食材を買いに行こうと歩調を早めた。
 何気なく通り過ぎようとした商店街の端っこに位置する不動産屋のガラスディスプレイの前。ふと吸い寄せられるように 斉藤の視線が止まった。
 薄手のジャケットに手を突っ込んだまま、食い入るように賃貸情報に見入っている長身の男。見慣れない眼鏡なんかを 掛けているが間違いなく、あの男、四乃森蒼紫だ。
 斉藤一警部補。そのあまりの偶然に、つい、立ち止まってしまった。



 ほぼ、二週間ぶりぐらいだろうか。
 相変わらずの線の細い立ち姿。鬱陶しいくらい伸びた前髪で隠れてその表情までは読み取れないが、 綺麗な口元は音がするくらいきりっと引き絞られ、悲壮な雰囲気すら漂う。
その必死の様相に、なんの思惑なく斉藤が蒼紫に声を掛けたとしても、不思議はなかった。
「そんなところでなにをしている」
 緩慢な仕草で蒼紫が振り向く。誰だ、あんたという顔をされたのには、正直言ってショックだった。
「警視庁の斉藤だ。散々世話を掛けておいて、その反応はなかろう」
「別に忘れていたわけじゃない。ただ、なんであんたがここにいるのか不思議だっただけだ」
「ここは俺のシマだからな。ちょうど非番でブラブラしていたところだ」
 そうか、ならばさっさと行けとばかりに蒼紫はガラスディスプレイに目を戻す。素っ気ないにも程があると 思ってしまうとこの男とは付き合えまい。しかし――
「なるほどな、あの一件はおまえの中からすでに焼却済みというわけか」
 そんな雰囲気が滲み出ていた。蒼紫は、自分を取り巻く雑多な事情を、ほんの少し理解しているであろう男に 視線を戻した。
 あの日――情人殺しの容疑者とその男と結託していた保護者が目の前で逮捕され、捨てられた小動物のように見えた 覚束なさはもう見受けられないが、なにひとつ成すにしても手探りな状態が不安定でもある。
「そんな大層なものでもない」
 だから蒼紫はそう謙遜したのだろう。斉藤はひとつ納得し、親指で不動産屋のディスプレを指差した。
「引越しでもするのか?」
「あのマンションを出る」
 確かモデルの仕事も辞めてしまったと、同僚の高荷恵から聞いたことがある。ただでさえひとりで住むには広すぎる マンションだった。蒼紫にはもう一軒今更手に入れたところで嬉しくないであろう家があるのだが、
「実家には住まないのか」
「もう手元にはない」
 そう聞くと即答だった。
 だが、なるほどと納得もした。
 以前住んでいたマンションとはかけ離れたこの地域。考えてみれば旧四乃森邸があった場所からさほど離れてはいない。 手放したといっても、幼少時代を過ごした馴染みのあるこの地域で部屋探しといったところなのだろう。
 とすると、当然の疑問が出てくる。
「おまえ、もしかして一軒一軒不動産屋を回っていたのか?」
 吐き捨てるような声音に、それがどうしたという顔をされた。
 呆れるをとおり越して感心してしまった。
 世間知らずというか世ずれしてないというか、ただのおバカというか。そういう 雰囲気は以前から感じていたがこれほどとは。武田観柳が溺愛し偏愛した弊害以外の何ものでもない。部屋探しから この調子では、希望の物件を手に入れて引っ越すまでにいったい何年かかることやら。
「おまえ、パソコン持ってないのか」
「持ってる」
「使えないのか」
「使える」
 そう言い切ったが、悔しそうな沈黙が落ちた。使えるがネット検索までには至っていないのだろう。接続すらして いないような気がする。笑ってはいけないが自然と笑みが零れる。
「いま時な、沿線を入力するだけで賃貸情報は得られるぞ。例えばこの駅周辺とか、この沿線とか、この家賃とか、 この設備とか。○・モードでも検索できる。おまえ携帯持っていたな。使いこなせているのか?」
 蒼紫は拗ねたのかぷいとそっぽを向くと、斉藤の追及を無視して立ち去ろうとした。
「ちょっと待て。そうつれなくするな。おまえがネット初心者なのはよくわかったから、部屋探しに協力して やろうと言うんだ。不本意かもしれんが、早々に見つけたいんだろうが。ついて来て損はないぞ」
 蒼紫は睨みつけるように逡巡している。ニヤけた斉藤が心底憎たらしいのだろうが、分かったというふうにひとつ 嘆息をついて言い放った。
「見返りは」
「おまえの育ってきた環境に同情する。そんなことよりまずは腹ごしらえだ。この近くにうまい鯖の味噌煮込みを食わせる 定食屋がある。ついて来い」
 斉藤、ご機嫌に蒼紫を促した。



 日曜のちょうどお昼時。斉藤が褒めた定食屋は結構な繁盛振りだった。
 当然場違いな感のある蒼紫は一斉に周囲の注目を浴びているが、ご当人は店の壁一面に貼り付けられたお品書きに 興味を示したようだ。首をかしげて小さく「もつ煮込み?」と呟いたのには笑えた。食べたことなどないのだろう。
 異様に目立つ長身二人は四人掛けテーブルに陣取り、斉藤は予告どおり鯖の煮込みでいくらしい。出される食べ物の 想像がつかないのか、蒼紫は散々悩んだ挙句、出し巻き卵定食に決めた。
 こんなざわつく場所を嫌がるかと思えば、確かに雑音など耳に入らないタイプだった。ゆったりと背もたれに体重を預け、 見とれるほどの仏頂面はどこであろうが健全である。
「おまたせ! きょうはまたえらい別嬪さんと同席だな、斉藤さん。新しい恋人か」
 店主が冷やかすような口調で注文品を運んできた。
「そうだといいんだが、生憎重要参考人だった男だ」
「ほう、こんな可愛い顔して何やらかした。結婚詐欺か」
「結婚詐欺ができるほど器用なら苦労はしないな、四乃森」
 蒼紫は聞いてないのか無視を決め込んだのか、口の悪い店主が芸術的に巻いた出し巻き卵を箸で解いている。 薄く何層にも密着したそれを箸で解体している蒼紫に、二人は魅入られる。
 これはどういう意図なんだろう。
「し、四乃森、それ」
「え、いや、くっ付いて取れない」
 店主、斉藤の肩をバシバシ叩いて大爆笑している。ほとんど涙目だ。
「最高だよ、あんた。どこから来たんだ? 地球の反対側か? 火星か?」
 いままでなにを食って生きてきたんだ、四乃森蒼紫。そう問いかけたかったが、おそらく毎食一流のフレンチとか イタリアンとかの返事が返ってくると、安易に予想がついたから止めた。
 その蒼紫はあまり箸が進んでいない。味付けが気になり小声で尋ねてみた。
「口に合わなかったか」
「いや、そういうわけでは」
 いつも食が進まない方だと弁解する蒼紫に、出されたものは平らげるのが礼儀だと、幼稚園児に諭すように 言い放った。
「腹にしっかり溜め込んで、いつでも万全の状態で動き出せるように生活スタイルを変えていくんだな。 これからの身の振り方などいつか思い浮かぶさ。だがしっかり食って英気を養っとかないと、いざって時に動けない。 考えることだって出来なくなる」
 さっさと食えと促した。



「その辺に適当に座っていてくれ」
 狭い部屋だけどな、と通された斉藤の住処は、1LDK程のこざっぱりと片付いた気持のよい部屋だった。
 家財道具は必要最小限に留め、なにもないから散らかることすらないのだとなぜか彼は弁解する。大きめの書架と デスクトップのパソコンが一台。テレビは部屋の片隅に追いやられている。
 本好きの習性としてつい家主の傾向を知りたくなる。男臭い時代小説から六法全書のような辞書に混じってインテリアや 編み物の雑誌まで置いてある。その意味が分からないほど、頭の巡りが悪いわけじゃないが、他が殺風景だから、 そこだけ無理やりはめ込んだような異空間に見えたのだ。
「コーヒーしかないがいいか?」
 斉藤はサーバーに湯を落としている間にパソコンの電源をオンにする。その横の書架の前で立ち尽くす蒼紫に視線を 送った。じっと見つめられて蒼紫は我に返ったようだ。
「なにか面白いものでもあったか?」
「あ、いや。多趣味だなと思って」
 蒼紫の視線の先にある雑誌を認めて、斉藤は苦笑を禁じえない。
「あぁ以前の同居人が残していったんだ。捨てるのを忘れていたな」
 なんだ、嫉妬してくれるのかと嗤う斉藤を無視して蒼紫はパソコンの前を指で示した。早く検索しろという意思表示。 見かけによらずせっかちなその様に斉藤は肩を竦めた。
「希望の沿線や駅名、あと家賃だな。何か希望はあるか?」
「家賃?」
「あぁ。幾らまでなら出せる? 一応この駅周辺で検索してみるか。男一人なら1LDKあれば十分だろ。 だが、安いからといってワンルームマンションは止めておけよ。圧迫感があるからな。忠告ついでにもうひとつ。 便利だろうけど、コンビニの近くはお勧めできん。夜中に餓鬼共が騒いで寝れやしない」
 なん件かヒットした音につられて斉藤の肩越しに蒼紫が顔を覗かせる。どうやらこの方法にひどく興味を惹かれた ようだ。塑像のような硬質のペルソナが少し揺れた気がした。
 蒼紫は徐に斉藤を押しのけるとパソコンの前に陣取る。使えないと先ほど言ったが、キータッチは大したもの。 検索の手段として使っていなかっただけだと知れた。
 作業の手順が理解できたようで、綺麗なタッチで節のない指がキーボードの上を滑る。 何度か首を捻りながら作業を続ける蒼紫の傍から離れ、すでにサーバーを満たしたコーヒーを等分にカップに注いだ。
 この日の日差しはやけに柔らかい。壁にもたれたままでブラックのそれをすする。なにかいっそ居心地が悪いほどの 穏やかなひと時だった。
 ふと、背後を振り返って蒼紫が斉藤、と問いかけてきた。
「なんだ?」
「この家賃というのは絶対ひと月分しか払えないのか?」
「?」
「毎月払いは邪魔くさい。全額は払えないのか?」
 絶句した。
 そのあまりの世ずれ模様にどう返事してよいか迷う。
 本人は至って本気なのだろうが、纏まった金を持っているヤツは言うことが違うと皮肉のひとつでも言いたいが、 つうじないだろう。
 斉藤はパソコンを指差し、それは賃貸情報だけだから分譲が欲しいなら別項目で探せと投げやりに答えた。それなら 一括支払いだと言うと、何故か嬉しそうに口元だけが少し綻んだ。
 たかだか部屋探し。
 それでもこの浮世離れした青年が地に足を着けた瞬間でもある。満足そうな背中を見つめ斉藤はそう思った。


end
 



蒼紫、斉藤のラブラブ初デート。世間ずれしていない蒼紫というのは皆さんの共通の認識でよろしいのですね。
にしても、斉藤甘やかし過ぎ。だからいつまでたっても蒼紫が自立できないんですが、それも範疇かも。
原作はともかく、このパラレル蒼紫はお箸さえ満足に使えない気がします。これから色々と斉藤が教え込んでゆくのです。
でも近頃食べ物ネタばっかり書いてます。蟹だの豚しょうがだの鯖煮込みだのと。お手軽にも程があるぞ!