何度も目覚めて瞬く間に眠りに落ち、その日唐突に、しかもはっきりと覚醒したのは強烈な空腹感 からだった。しかもなにやら、五臓六腑に染み渡るような心地いい香りまで漂ってきている。 あれはたぶん烹炊長ご自慢の鮭のクリーム煮。大好物なんだよな、とシードは鼻をひくつかせた。 それに余りの空腹さに幻覚でも覚えたか、頬の傍で湯気の立つ温かさまで感じている。 「あー、食いてえ」 そう呟いたのも仕方のないことだった。何せ本当に美味い。コクがあってまろやかで、脂の乗った鮭がてんこ盛りで、 必要以上にジャガイモが潰れていないのにニンジンは柔らかくて、想像するだけでヨダレが枕を濡らす。 しかも士官クラスの夕食ならいざ知らず、圧倒的に数の多いシードたち准士官以下のテーブルでは、滅多と お目にかかれないシロモノだ。現に一度しかありついていない。 こんな夢ならもう少し寝ていようと、ふかふかの上掛けを頭まで被ろうとした矢先、ズンと枕が沈んだ。 恐る恐る目を開けると、見覚えのある銀灰の瞳が不審も顕わに絞められて間近まで迫っている。 「えっ、と」 そう、確かクルガンと名乗った佐官だ。底冷えするような声音で囁かれた。 「何日も人の寝室を占拠した挙句、久し振りに目覚めた一言が『食いてえ』か。しかも枕はヨダレ塗れ。 腹が空く元気があるなら、さっさと自分の部屋に戻れ」 よく分からないがなにやら静かに怒っている。この枕はお気に入りだったのだろうかと、起き上がろうとした シードの視線がベットサイドに釘付けになった。 「クリーム煮! いったぁ!」 跳ね起きた途端に背中に激痛が走る。ついでに一、二本どこかがブチ切れた音もした。 「阿呆が。ざっくりと抉られた背中の傷はまだ抜糸も済んでいない。無理をすると簡単に裂けるぞ。しかも クリーム煮が原因だったなどと恥ずかしくて軍医にも説明できまい」 「いたたたた、た。でも腹減った。食いたい。お願い。何でもします。食べさせてくれ!」 「調子に乗るのもいい加減にしろ。なぜ私がおまえの枕元でスプーン片手に、食わせてやらなければならない。 重篤患者でもあるまいし」 「十分大怪我してるじゃねえか。しかも名誉の負傷だぜ。俺の働きで”獣の紋章”の眷属を手に入れたんだ。 きっとルカさまはあの功績を認めてくださって、 この待遇なんだろうな。念願の士官入りってか? 傍にいるのがあんただってのが気に食わないけど」 「大いなる誤解をしているようだから告げておくが、おまえが寝ている間に異例の特進などという通達は 一切なかった。今後もない。なぜならあれは極秘任務だったからだ。喩えあの場でお前が見事に散ったとしても、 道端で転がっての横死と処理されただろう。 この部屋でおまえが健やかに寝ていられたのは、私の、特別の温情だと理解しておけ。 食料を運ばせただけでも感謝しろ。それを食ったらさっさと自分の部屋に戻るんだな」 「くっそうぉ! 信賞必罰が軍の原則だろうが! おらぁ、命を張ったんだぜ。あぁ、クリーム煮ぃ〜」 シードは思い切り髪の毛をかきむしる。一体どちらに怒ってなにを惜しんでいるのかわからなかった。 痛みに体はベットに沈みそうになるが、指はサイドテーブルの椀を求めて彷徨っている。よほど 飢えているのだろうと思う視線の先、包帯に巻かれたシードの背が紅に染まりつつあった。 本当に傷が開いたようだ。 「いいか、絶対仰向けになるな。シーツが汚れる。軍医を呼んできてやるから、そのままでいろよ」 「痛いつってんのに言うことがそれかよ! 鬼! 鉄面皮!」 言い残してクルガンは靴音も高く、出て行った。 シンと静まり返った部屋で痛みに耐えながらソロリとシードは体を起こす。 戦場での怪我は感覚が麻痺するのか 泣き言一つ吐かない彼だが、平時に置いては情けないほど痛みに弱い。いまのようなズキズキと疼かれると 本気で涙目になる。しかも空腹だ。ほとんど匍匐前進で肘で進んで、目標に到達した。 文字どおり――夢にまで見た大好物が、目の前に存在する。 肩肘で体を支えてスプーンを突っ込んで、零れないように口に運ぶ。消化器官よりも脳髄が爆発するかの 官能が呼び覚まされる。 「生きててよかった。俺」 喉から胃に至るまでに、すでに吸収されたように染み渡る。ここまで飢えていると喩え雑草だろうが 寒露だったに違いないが、その相手は美味いに超したことはない。人でよかったと実感した瞬間だった。 もう一口とすくった中身が、記憶していたよりも小粒だったのに気づいてシードは手を止める。 烹炊長の煮込みはどれをとっても肉や野菜がでかい。それも自慢の一つだった。大振りなそれらが 小さく潰されたような跡がある。 胃に負担をかけないように。 あの無愛想な男が手ずからとも思えないが、厨房にそう指示してくれたのだろうか。 「へえ、いいとこあるじゃん」 鼻の頭をかきながら、シードはゆっくりとそれを平らげていった。 程なく軍医が看護婦を連れて往診に来てくれた。穏やかな医人たちからそれなりに丁寧に扱われ、薬を 飲まされてまた眠気が襲ってきた。 意識がとろみかけてそれでも、 「気持悪いからさ、裸に剥いて、ねえちゃんが体拭いてくれよ」 と、寝入りばなにセクハラ発言も忘れないシードだった。 普段、薬などあまり使わない方だから、痛み止めがよく効いたようだ。目覚めはすこぶる快調だった。 多少だるくもあるが、生理現象と現金にもまた覚えた空腹感からシードは自力でベットから離れた。 寝室として使われているこの部屋と、廊下とを繋ぐ執務室には灯りが漏れている。部屋の主が在室なの だろう。ソロリと立ち上がり、その扉に手をかけた。 「おはよ」 居候もいいところだから、出来るだけ愛想よく挨拶を告げるが、仕事中といった感の相手はジロリと 睨めつけて、また机の上の書類に視線を戻した。相手をする時間も惜しいと態度で現していた。 「歩けるようになったのなら、早々に出て行くんだな」 「あんたってさ、二言目にはそれだね。けどさ、さっき軍医の先生が医務室のベットが満室状態だから、 できるならここに居させてもらいなさいって言ってたぜ」 「いい加減なことを言うな」 「ほんとほんと」 「調子に乗るのもいい加減にしろ。軍医に問い合わせればおまえの嘘などすぐにばれるのだぞ」 シードはニコリと極上の笑みを浮かべる。ばれたところで構わないといった体だ。 調子よくしながらも、一度グラリと傾いだシードの体は、壁に支えられてどうにか持ち直した。それを クルガンは見透かすような視線で捉えていた。どうも演技で同情を引こうとしているとしか思えない。 クルガンはヘラリと笑って方法を変えた。 「医務室のベットに空きがないのなら、休暇申請をしておいてやろう。家に帰れ。あすの朝、ソロン殿に 話をつけておいてやる。だれも異議を唱えんぞ。おまえの日頃の素行の悪さから、ソロン殿は最長期を 許可してくださるだろう」 それには直情経口の男、弾かれるような反応を見せた。 「冗談じゃねえぞ、そんなことになったら、イザってときに出撃できないじゃないか! 俺の居場所は ここなんだ! 誰がなんと言おうが軍を離れる気はさらさらねえ!」 「阿呆かおまえは。そのような状態でここにいたところで、足手まといだとは思わんのか」 「思わない。すぐに治してやる。ここで緊張感に包まれていた方が、きっと早く動けるようになる。 そう思わないか?」 「お前の、自分を追い込む性質など私の知ったことか」 なぁクルガン、とシードは紅蓮の瞳に光を宿して机の上に両手をついた。大層な怪我人の癖に、強い意志を 持った瞳だった。 「なにかあったときに俺がいた方が頼りになるって。それ、証明したろ。なにせアノ敵からルカさまとあんたを 守ったんだぜ。敵がデカければデカい程燃えるタイプなんだよね、俺って」 「高々一度くらいの功績を鼻にかけて高慢なやつだな。そのような信頼は積み重ねでしか得ることは出来ない。 特におまえのようなスタンドプレイに走りがちなヤツは、諸刃の剣だ。偶々、運がよかっただけだったという 認識でしかないな」 「ツレナイこと言いっ子なしで頼みますよ。なんならソファでもいいや。ここ温かいし、士官用の食事にあり つけるし、胃袋的にも肉体的にも療養にはもってこいだ。精神的は置いといて。まぁ、世話をかけるったって、 あんたがケアしてくれる訳でもないしさ。士官付きの兵士のお仕事がちょっと増えるくらいで。 間借りさせてくれよ」 「却下だ。却下。なぜ私が執務室を提供して、おまえと寝食を共にせねばならない」 目の前の紅が丸く膨らんだ。顔には好奇心の色さえ張り付いている。 「ここ仮眠用だろ? 自宅通勤組じゃないの? あんた、まさか家には帰らないのか?」 おまえに関係はない、と言ったあと、やけに長い間を置いて、クルガンは停滞していた書類整理に 意識を戻した。 「お前のような訳の分からん者がいるお陰で、想像もつかない程に激務なんだ。家になんぞ帰れたためしがない。 これ以上私の邪魔をすると衛兵を呼ぶぞ。営倉に放り込んでくれる」 あからさまにふうんと哂った後、シードはトテトテと重そうな体を引きずるように部屋を出て行こうとした。 あれくらいの恫喝で勝手な言い分を引っ込める訳はない、とクルガンはつい尋ねる。 「どこへ行くんだ」 言ってしまってから、その尋ね方の微妙さに顔をしかめる。 これでは、まるで――。 「トイレ。ついでに顔を洗ってくる。ベタベタして気持悪い。こざっぱりしとかないと、申し訳ないだろう。 大家さんに」 「――二度と顔を見せるな。私も室内で雷鳴を発動したくはないからな」 見れば、クルガンの手の中で小さな雷鳴が行き場を得たいと放流を起こしていた。 剣呑な物言いと行動が余りにもぶっきら棒過ぎて、シードは笑みを漏らす。そしてこれ以上彼の仕事の手を止めない ようにと部屋を出て行った。 だが、留めの言葉も忘れない。 「あんた、結構いいヤツじゃん」 その言葉を聞いてクルガンがどんな顔をしたかは見えなかった。 恐らく、心の耳栓をしっかりはめてクルガンは、書類に没頭していったのだろう。 end |
ほのぼの話っていうのは書いてて体と心にいいですね。自分で嬉しいですからね。 つうことで、うちのシードの背中には瑕が残ってます。それを使って話を書こうという意識アリアリですね。 |