忠臣蔵新聞発行に際して(編集子より)

発行 義士新聞社

忠臣蔵新聞

忠臣蔵新聞発行に際して(改定)
(編集子より)

 色々な方から忠臣蔵新聞を発行した理由をよく聞かれるようになりました。
その都度丁寧にお答えしていたのですが、その数が多くなりましたので、あらためてこの紙面(ホームページ面)をお借りして、その意図を述べます。

 インターネットが出来るパソコンを買ったのが、1996年8月8日で、パソコン通信に加入したのが9月9日で、インターネットに接続したのが10月10日で、ホームぺージを開いたのが11月11日ということになります。そして忠臣蔵新聞を発行したのが1998年6月14日です。
 ワープロを買ったのが1984年で、資料のデータ化を図りましたが、すぐ限界を感じ、パソコンを買ったのは1986年で、教材の共有化を予感したからです。
 それ以来、色々な方の世話になりながら、dBASEのマスターに全力を注ぎ、膨大な資料のデータ化・検索化に成功しました。
 ホームページを開いたのは、ペーパレス時代を予感したからです。膨大な資料をいとも簡単にデータ化・検索化すると同時に、電子メールを通じて資料や画像という情報を世界的に、瞬間的、経済的に交換できるからです。

 とはいえ、dBASEやホームページはあくまで手段であって、主張するメッセージ(心)がなければただの箱です。そういう意味でメッセージをもったホームページは個展であると定義できます。個展の開催を今の若者に説いています。
 ホームページを見た多くの人から色々な感想が寄せられました。その意見を集約すると、もっと「やさしく」「面白く」「わかりやすい」ホームページにならないかということでした。新聞は「難しい内容」を平易な文章で、写真をイラストを多用して、わかりやすく書いています。
 結論から言えば、「新聞スタイルでホームページを編集する」ということです。
 資料にない事実を求めて色々な人と会ったり、あちこち出かけたり、大胆な予測をしたり、論議を深める手段として、最も効果的な方法の一であると思いました。

改定部分
1050万件の3番目を示す私の忠臣蔵(「忠臣蔵のふるさとへようこそ」)
 忠臣蔵新聞を発行して1年後の1998年10月に月刊雑誌『ヤフージャパン11月号』に私の忠臣蔵新聞が約1ページを使って紹介されました。
 素材(史料)の良さを、私にしか出来ない方法で、推敲を重ねて月に1回発信して、続けて10年以上になります。
 その結果、上記のように1050万件の3番目になりました。

 最近、色々な方から問い合わせが相次いでいます。ありがたいことです。
 出来るだけ、忠臣蔵(狭義の赤穂事件)を日本人の共有財産にしたいと思い、史料を使って丁寧に応えてきました。
 しかし、「こういう解釈は間違っている」・「本所松坂町は当時なかった」・「討ち入り日は12月14日ではない」・「勅使饗応という役はない」と指摘し、最後に「訂正しなさい」と要求する内容が増加しました。

 なるほど、個々の指摘は間違っていません。しかし、全体の流れの中の一部を指摘して、訂正を要求されても、対処の仕方がありません。
 私は、忠臣蔵(狭義の赤穂事件)を、史料にそって、出来るだけ、分かりやすく、多くの人に知ってもらいたいという編集方針を持っています。
 
 研究者のための論文ではありません。


 そこで、私は、「忠臣蔵をどういう立場で考えられていますか」、さらに、「あなたなら史料を使って具体的にどう表現していますか」、つまり、議論する方の立場・対案を求めるようにしています。忠臣蔵発展のため、ご協力をお願いします。


 朝日新聞の天声人語氏が指摘するように「『源氏物語』とおなじく忠臣蔵も国宝級である」ことを実践したいと思っています。


 今後ともご愛読をよろしくお願いします。