キリスト教について
ぶどう

     神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
       それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
       永遠のいのちを持つためである。
  〜ヨハネの福音書316節(新改訳)〜



 
主の御名を賛美します。

キリスト教には、大きく分けて
カトリックプロテスタント聖公会東方正教会などがあります。

また、さらにプロテスタントの中には、たくさんの教団、教派が存在します。

まず、キリスト教会が今日に至った大まかな経緯をぼくの知る限り、なるべく簡単にまとめます。
以下の初代教会時代までは、原語を底本に邦訳した信頼性の高い複数の聖書を参照しつつ記します。

 

西暦紀元30年頃、キリストは、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死に、葬られ、

聖書に書いてあるとおり、三日目に復活し(よみがえり)、多くの人々に現れ、(一コリント15章参照)

天に上げられ、(マルコ16:19, ルカ24:50, 使徒1:9)神の右の座に着かれました。(マルコ16:19

神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、(使徒2:33

使徒たちに(使徒1:26~2:1)注いでくださいました。(使徒2:33, 2:1

(聖霊降臨のこの日は、旧約の「七週祭」でユダヤ教の「五旬祭」(過越し祭の50日目)にあたり、

キリスト教の「聖霊降臨祭」や聖霊主義の教派をギリシャ語で五十を意味する「ペンテコステ」とも呼びます。)

 

聖霊を注がれた使徒や、これらの福音(良き知らせ)、すなわち、イエスは神の子キリスト(=メシヤ)であると信じ、

その名によって洗礼(バプテスマ)を受け入れた人々によって、イエス・キリストの福音を信じる共同体

(使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒2:42)

日々、心を一つにして宮に集まり、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

神を賛美していた(使徒2:44~47)。)が集まり、また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業が

人々の間で行われました。(使徒5:12)彼らは、迫害を受け、牢獄に入れられながらも、奇跡を行い、

各地へ行って宣教し、初代の教会が形成されていきました。

(こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平和を保ち、

主を畏れ、聖霊に励まされ、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。(使徒9:31)

 

イエスが旧約聖書で預言された救い主(キリスト、すなわちメシヤ、油注がれた者)、

神の子であることを認めず、救いは王位の者から現れると信じ、旧約の律法を重んじるユダヤ人の多数派や、

復活はないと考えるユダヤ教の宗派などとキリスト信徒が対立し、

もはや唯一の主の救いは全世界の異邦人にも向けられていると信じるキリスト教と、

主はイスラエルの民の唯一神と信じるユダヤ教とは、大きく別々の宗教となりました。

 

そして紀元4世紀頃にはキリスト教を迫害していたローマ帝国が国の宗教(国教)に定めました。

キリストの福音は中近東やヨーロッパ一帯に広まり、新約聖書時代の初代教会は各地域の総主教庁となり、

各地に次々とキリスト教会が建てられました。しかし、教理については必ずしも一致せず、

西暦325年、現在のトルコにあるニケア(ニケヤ)の町でキリストとはどういう存在かについての

ニケア公会議(ニカイア公会議)により、

キリストは父なる神と全く同じ本質実態であるということと、聖霊は父と子と等しく神であることが確認され、

また、キリスト教の信仰の基礎「ニケア信条」が発表されました。

また、西暦431年にはエペソ公会議で、処女マリアが"テオトコス(神の母)"であるかどうかについて論じ、

結果、テオトコス(神の母)であることにかわりないとし、テオトコス(神の母)と呼ぶことに反対していた

ネストリウス派は破門され、アラビアやインド、中国へと伝わり「景教」と呼ばれるようになりました。

 

ローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国のローマ教皇を中心とするローマ教会と、

東ローマ帝国の皇帝を中心としたコンスタンティノープル教会とが対立し、

さらにはニケア公会議でのニケア・コンスタンティノープル信条について、

東方の教会で用いられていた原文のギリシャ語では、

「聖霊は、父より出で、父及び子と共に拝まれ讃められ…」となっていましたが、

ローマ教会で用いられていたラテン語訳のニケア・コンスタンティノープル信条では、「子からも」(フィリオクェ)を付け加え、

「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され…」と訳してしまい、(フィリオクェ問題)

これにより、教会の対立は決定的なものとなり、

コンスタンティノープル教会をエキュメニカル総主教庁とし他に3つの総主教庁を持つ「東方正教会」と、
ローマのバチカンを中心とする西欧のローマ教会とにキリスト教会は大きく二分されました。

 

中世のヨーロッパでは、神の御言葉である聖書の教えが国の法律にも深く関わっていましたが、

次第に聖書の解釈が歪み、キリスト教は司教や国王たちの都合の良い事に利用されてしまいました。

 

そして16世紀、キリスト教会の歴史に大きな変革をもたらす出来事が起こりました。

ドイツ人”マルティン・ルター”(マルチン・ルーテル)による宗教改革です。

ルターは、もともとカトリック教会の修道士で司祭でしたが、

当時ヨーロッパで行われていたローマ・カトリックによる贖宥状(免罪符)の発行や教会の腐敗に疑問を持ち、

95ヶ条の論題」(意見書)などを通して、

当時のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを訴えました。

ルターの主張には聖書に根拠のないローマ教皇首位説に関する問題も含まれていたこともあり、

結果、ローマ・カトリックから追放され、公同の教会を本来の聖書の教えに立ち返らせる改革運動を通し、

聖書を原典のヘブライ語やギリシャ語からドイツ語に翻訳し、信仰と行為の唯一完全な規範は聖書のみ。

「救いは人の行い(善行)によるのではなく、信仰によってのみ義とされる神からの一方的な恵みのみによる。」(信仰義認)

神の目からはキリスト者はすべて祭司(万人祭司、もしくは全信徒祭司)、

教会の聖礼典は聖書に記述がある洗礼と聖餐のみ認められる。(聖餐はパンとぶどう酒の二種陪餐。)

これらの教義(教理)をもとにした、民主的監督制による新しい教会を創設しました。

これが新教=プロテスタント教会の始まりです。

さらにルターは、楽譜を五線譜に統一し、小讃美歌集を初め、自ら讃美歌を作曲・作詞し、

音楽を発展させることになりました。(ちなみにカトリック教会には独自の讃美歌は存在しません。)

 

ルターが設立したプロテスタント最初で最大の教会はルーテル教会(ルター派)と呼ばれます。

“音楽の父”と呼ばれる大バッハ(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)もルーテル教会の信徒で

ルーテル教会専属オルガニストとして数々の名曲を捧げました。

また、「メサイヤ/ハレルヤコーラス」などで知られるヘンデルや、

「パッヘルベルのカノン」で知られるヨハン・パッヘルベルなど

クラシック音楽の名作曲家の多くはルーテル教会に属しています。

ルーテル教会(ルター派)は発祥の地ドイツをはじめ、オランダや、

北欧諸国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)の国教となり、

ドイツ・オランダ、北欧からアメリカ、カナダ、イギリスなど英語圏にも広まりました。

 

また、同じ16世紀の宗教改革の運動にはドイツのルターの他にも

スイスのジュネーブではフランス人”ジャン・カルヴァン”が聖人像の破壊運動などを行い改革を推し進め、

礼拝堂のステンドグラス以外のオルガンなども含め信仰上不必要と考えた教会の装飾品を否定し、

牧師と司式を補佐する長老とで運営する長老制度を採用した教会を設立しました。

カルヴァン派の教会はスイス、オランダ、スコットランド等へ信仰改革の影響を与えました。

ルターやカルヴァンの大規模な改革を機にさらに各地で教会改革の運動が加速しました。

改革急進派には、メメナイト派やモラビア兄弟団の源流となる、アナ・バプテスト(再洗礼派)運動が起こり、

教会の幼児洗礼を否認し、自らが志願し洗礼を受けキリストに従い清い生活を送る者だけが救われると説き、聖書を根本にした行いの信仰により再び洗礼を受け合いました。

 

イングランドでは政治的な理由により国王が国内の教会とローマ教皇との関係を絶ち不安定になったところに、

カルヴァン派の影響を受けながら、カトリックの良い伝統的部分を残し、

イギリスの国教(イングランド国教会)として"聖公会"(アングリカン)が英国王室の管轄教会となりました。

聖公会はローマ・カトリックではない時点でプロテスタントの一派ですが、“真のカトリック”と呼び、自らをプロテスタントと自称しないため、カトリックとプロテスタントの中道を歩み、双方の橋渡しの役割りを有すると考えられています。

現在、聖公会には、カトリック寄りのハイチャーチとプロテスタント寄りのローチャーチとが混在しています。

 

イギリスの聖公会の信徒の中にもカルヴァン派の影響を受け改革派が現れ、

聖公会からの改革派の人々をピューリタン(清教徒)と呼びます。

ピューリタンはカトリック教会の伝統を嫌い、カトリック的要素を徹底的に排除しました。

ピューリタン革命で聖公会から独立したピューリタンはメイフラワー号に乗ってアメリカへ渡り、

ボストンに定住し、禁酒、勤勉、節制、倹約等を掲げ、

これがのちにアメリカ資本主義を加速させることになります。

彼らは、会衆派(組合)教会を設立しました。

 

さらに近世、イギリスのジョン・ウェスレーによる第二の宗教改革ともよばれる新たな教会改革運動が発足し、

ウェスレーの影響は大きく、英米を中心に改革運動が頻発し、メソジスト運動、ホーリネス運動

リバイバル運動(信仰覚醒運動)、福音主義運動などによって数々の教派が誕生し、

またさらに、ペンテコステ派ホーリネス教会バプテスト教会カリスマ運動等々も発足し、

プロテスタントの諸教会はとても多くの教団・教派が存在するようになりました。

 

そして、16世紀の宗教改革で改革せずに残ったのが、カトリック教会(旧教)です。

プロテスタントの諸教会が貧しい人々やラテン語圏外などへも急速に広がっていくのに対して、

カトリック教会は大航海時代イエズス会などの宣教師やスペインの航海者により世界各地に広められました。

日本で最初に伝わったキリスト教がこのイエズス会系のローマ・カトリックです。

 

ちなみに、カトリック教会では、聖体を中心にした礼拝式の事を『ミサ』、礼拝堂を『聖堂』、

聖餐式の事を『聖体拝領』と呼びます。また聖堂の十字架はイエス様がはり付けになったものが一般的です。

 

20世紀にはカトリックの第二バチカン公会議によって公式にミサや聖歌、典礼祈祷などを
各地それぞれの公用語で行う事ができるようになりました。

また、聖書を信仰の要点に据え、世界各地でプロテスタントとカトリックが共同で翻訳し、

共同で用いられる聖書の発行が行われました。

21世紀になった現在、エキュメニカル(超教派)運動、聖書や聖歌・讃美歌の現代語への改訂、

ネット伝道等、キリスト教界は時代と共に変化しています。

しかし、キリストの体である教会は、福音信仰の正統な伝承、聖餐への参加、信徒間の交わりを必要とします。

実際の教会での礼拝は無くなることはありません。

 

最近では、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック、英国国教会(聖公会)を中心としたエキュメニカル運動(超教派一致運動)の対話が行われており、各派による信仰義認の確認と、上三教派間の相互陪餐

(いずれか一つの洗礼による相互の聖餐/聖体拝領への参加)の容認と一致に向かっています。

(※ただし、日本のカトリック教会ではカトリックの洗礼を受けたものであってまだ他教派の洗礼による聖体拝領を認めていません。

ルター派側ではカトリック信者と聖公会での受洗者への聖配餐を認めています。また一部のルター派の信徒は聖公会の聖餐式に参加出来ます。)

 

また、プロテスタント保守派・メインライン同士の連盟が組織され、

福音派、聖霊派、それに単立教会の連盟も組まれ、

”使徒信条”や”主の祈り”等の共用翻訳文の試み、相互の代表者,信徒間の交わり、

福音宣教など、プロテスタント諸教派内の一致運動も進められています。

 

 

 

  ・・・以下、未執筆・・・

 

すべての栄光を主にお帰ししつつ。

 

 

 Last date: 03/09 -2025

 

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