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壁巌録 第八十則 「趙州初生孩子(趙州孩子六識)」 

 挙。僧問趙州。


 初生孩子還具六識也無。


 趙州云。急水上打毬子。


 僧復問投子。

 急水上打毬子。意旨如何。

 子云。念念不停流。


 挙す。僧、趙州に問う。
    
 (ジョウシュウ)

 初生の孩子、還って六色を具すや無しや?
(ショショウのガイシ)

 趙州云う。急水上に毬子を打す。
        
(キュウス)

 僧、復、投子に問う。

 急水上に毬子を打す。意旨如何?

 子云う。 念念不停流。

<語句解説>

 挙   ・・ あげる。問う、尋ねる、etc...。

 孩子  ・・ 赤ん坊。

 六識  ・・ 分別、判断、心を生じる認識作用。 
         眼、耳、鼻、舌、身、意、の六つの認識作用。

 毬子  ・・ (キュウス) 手毬、まり。

 投子  ・・ 中国ジョ州投子山の大同禅師の事。(819-914)

 意旨  ・・ 言わんとするところ。意味。

 念   ・・ 心、想い。

<雑感>

 
 これは、禅問答の、ああ言えば、こう言う類のやりとりに、趙州和尚が
 如何に対応されたか、流石に趙州和尚だなぁと思わせられるお話であります。

 つまり、この問いを発した僧にとっては、仏教の「無我」という
 問題が、大きな問題となっていたのでしょう。
 それを趙州和尚と問答したかったのでしょうが、趙州和尚は、ただ単に、
 「急流に毬を打つ。」と答えた訳です。
 それで、この僧は、その意味がわからず、今度は投子和尚に尋ねました。
 趙州和尚に「急流に毬を打つ。」と言われましたが、これはどういう意味
 でしょうか?と。すると、投子和尚は答えて曰く、「念念不停流。」と。


  「初生の孩子、還って六色を具すや無しや?」というこの僧の質問から
 推測するに、もし、「無我」が悟りの境地であるならば、いわゆる
 「赤ん坊」と「仏」の違いはどこにあるのか?
 この僧はそれを明らかにしたかったのかも知れません。
 趙州和尚の頭の中は私の頭の中とは違いますから、あくまでも推測にしか
 なりませんが、この言葉、いろんな意味に受け取れます。 

 一つには、その様な問題に関して何かを答えたとしたら、急流に投げた
 毬が、転々としながら流れに流されて、果てしない議論になるだろう、
 という事。

 いまひとつは、急流の上で、毬をつけば、その毬は、あっという間に流れに
 流されて消えてなくなってしまって、ちゃんと自分の手元には還ってこない、
 つまり、禅の境地を求めるにおいて、その様な議論から得られるものは何も
 無い、という事。

 つまり、その様な問いを発した瞬間から、禅の教えを離れ、仏教を離れ、
 転々と脇道へ逸れていく、そういう意味にも取れるかと思います。

 そして、もう一つが、この僧とのやりとりにおける投子和尚の極めて直裁な
 答えであります。投子和尚の答えは、「念念不停流。」です。
 念(想い)から念へ、想いというものは、流れてとどまらないものだ、
 という訳です。

  結局、僧は聞きたかった問いの肝心の答えが得られなかった訳ですが、
 赤ん坊に六識があるか否か、つまり赤ん坊を仏の境地と言われる「無我」と
 見なせるかどうか、という問いは、まさに、「無我」という言葉に囚われて、
 溺死寸前の禅僧と言えるかも知れません。

 同じ「無垢」と言えども、赤ん坊は「我」の何たるかも自覚せずに「我」を
 生きている状態故に未だ「無垢」なのである。つまり、「我」を自覚認識
 しないものが、どうやって、「我」の為に知恵を働かせる事が可能であるか?
 当然、その様な事は不可能である。
 その命は「母親の我」に守って貰わねば、生き延びる事さえ難しい。
 そこに小賢しい自己保身やら身贔屓やら当然生じるべくもない。
 自覚も知恵も無論、智慧など生じ様も無い存在である。
 故に、赤ん坊は純真無垢と言われる。
 そこに全く下心の様なものが無いと言えば良いだろうか。

 仏とは「我」を自覚認識した上で、自身を浄化させる事によって、「我」を
 極力減少させ、自他を平等に見る眼を得た人、ここに身贔屓にとらわれない
 「仏知見(如実知見)」が得られる訳ですが、まさに、この様な境地を体得
 した人をこそ仏と言うのでしょう。
 「無我」は無我であって無我でない。くれぐれもご用心なされますよう。


※蛇足:
 一休禅師は「柳は緑ならず、花は紅ならず、御用心御用心。」
 と言われたとか。まさに、その通りで、花は紅、柳は緑、しかしながら、
 花は紅ならず、柳は緑ならず、なのである。

  <海青く雲白し、然れども、海青からず雲白からず>

   いずれもこの世の真実は、又かくの如しか。