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知人者智
自知者明

勝人者力
自勝者強

知足者富
強行者志有

不失其所者久

死而不亡者寿


 
人を知る者は智
 自ら知る者は明

 人に勝つ者は力有り
 自ら勝つ者は強

 足るを知る者は富む
 強を行う者は志有り

 其の所を失わざる者は久し

 死して亡びざる者は寿(いのちながし)


<語句解説>

 
 「智」と「知」の違いについて・・
     「知」の「知る」という知識的な意味に対して、「智」には、
      物事を判断し、適切に処理対応できる能力、というニュア
      ンスがある。
    【解字】・・
     「」は「口」(驚き叫ぶ意)と「矢」(立て続けに並べる、
       喋る意)から、ぺらぺらと喋る意。転じて、知る。
     「」は「知」の下に「曰」(イワく)が付加されているが、
       これによって、言葉の意味を強調したものとなり、転じて、
       その話す内容に「知恵」というニュアンスが含まれる。


 「寿」・・ジュ。コトブキ。イノチナガい。
      いのちながい。長生きする。いのち。



<解釈>


  人を知る者は智者と言える。

 自らを知る者は明、即ち、物事を見分ける力がある。

 人に勝つ者は力がある者であるが、自分に勝つ者は強い者である。

 何事においても、足るを知る者は常に豊であり、志有る者は強行する。
 
 それぞれのその本性を失わないものは、長くとどまる。
 
 死んでもなお亡(ほろ)びないものこそ、いのちは長い。


<雑感>


  物事はいろんな見方が出来ますが、その見ている深さによって、相対的な見方
 から、次第に物事の根本(根源、大元)に近づき、その深さが極まれば、おそら
 く相反するような事柄でも一つの統合された姿として見えてくるでしょう。

 ここでは、人(他人)を知る事を「智者」と言い、自分を知る事を「明」という様
 に、分けて書かれていますが、しかし、究極のところ、「自分」というものが分
 からなければ、「人間そのもの」を知ったとは言えず、それは引いては「他者」
 を知ったとも言えなくなります。

 「智者」という言葉をどの様に解釈するかによるでしょうが、ここでは、「智」
 と「明」という言葉の使い分けをしているところを考えると、「智者」というの
 は、物事に適切に対応できる者、処世に長けている者、というニュアンスが含ま
 れていると解釈すると、「明」との違いが見えてくるのではないかと思います。

 しかし、突き詰めれば、「明」でなければ、真の「智者」にはなれない、そうい
 う事になるのではないでしょうか。
 孫子の兵法にいわく、「相手(敵)を知り、己を知れば百戦して危うからず」、
 とあるように、物事に常に的確に対処し得る為には、片方を知るだけでは覚束な
 いのであります。
 人を知ると言い己を知ると言っても、結局その究極のところは「自他を知る」、
 つまり「人間そのもの」を知る事となるでしょう。
 

  又、人に勝つ者は力が有り、自分に勝つ者は強者である、という事にしても、
 自分にすら勝てない者が、他者に勝てる道理も無く、真の強者たらんとすれば、
 先ず、自分に勝つ者である事がその必要条件となるのではないでしょうか。

 そして、自らに勝つ為に必要なものは、強固な意志であります。
 しかし、その強固な意志を自らの欲望の為に使うならば、おそらくそれは、自ら
 を常に貧しいもの、満たされない者、不足している者にしてしまうでしょう。
 何かを求め続ける人間の強固な意志は、そこに阿修羅の世界を構築し、安穏は無
 く、果てしの無い戦いの世界を展開していく事でしょう。

 自他の安穏と平和の為には、「足るを知る事」がその根本において必要な事であ
 り、「禍は足るを知らざるより大なるは無い」のであります。
 世の様々な事件の根底に流れる人間の想いをよくよく観察するならば、この事が
 よく分かるのではないでしょうか。
 不平不満は、足るを知らないところより生じ、その想いより生じるものは、大き
 な禍を生じずとも、人の心を貧しいものにしていく事でしょう。
 「知足者富」は、足るを知る者、つまり、満たされない想いが無い人こそ豊な人、
 真の「富者」である、という事であります。
 

 又、自らの本性に逆らわず、無為自然の状態で生きる事が出来れば、それは長く
 存在し続ける事となる、と言うのは、つまり、自分の本性を無視して日々作為技
 巧を弄さなければならない様な状況に身を置くならば、当然、自他の作為技巧に
 翻弄され、その様な状況においては、変化も甚だしく、心身ともに疲労し蝕まれ
 て長くそこに在り続ける事は出来ない、という事でしょう。
 
 最後の一行、「死んで尚、亡びざる者はいのちながし」というのは、様々に解釈
 可能でありますが、「死」の【解字】は左部分が「死体」の意で右部分が「変わ
 る、変化する」意味を持っています。
 人が死んで、肉や骨が無くなり(変化し)、それでも尚、亡びないものとは、
 さて、何でありましょうか。

 根本の少し手前で考えるならば、ここで老子の言う「寿命」というものは、想い
 (思想)的なもの、つまり、魂に繋がり、いわゆる霊魂とか怨霊的なものに繋が
 るかも知れません。それらは、確かに死んでも尚残るものとして、この世に生き
 ている人間よりも、その命は長く存在する事でしょう。

 しかし、それは未だ「永遠の命」と言えるようなものではありません。
 「永遠の命」とは、この宇宙に普く存在する総ての生命の大元、「いのちそのもの」
 であります。その「いのちそのもの」と同化した時、人は永遠のいのちに帰る事
 が出来るのでしょう。つまり、仮に人間の霊魂というものが死後存続するとして
 も、それは永遠のいのちとは言えないのではないでしょうか。

 少なくとも、霊、或は霊魂などという名称をもつような特別な何かが存在すると
 いう事は、それらは、この宇宙に普遍的に存在する「いのちそのもの」と同化し
 たもの、つまり、形として捉えることの出来ない、人間が認識する事が出来ない、
 それ故、名も無く、強いて名付けられて「道」とか「空」などと言われる、「い
 のちそのもの」、総ての根源となる恒久普遍の「永遠のいのち」と言えるような
 ものではない、という事が言えるでしょう。

                        −2001年05月25日記−
                       −2001年06月01日一部修正−


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