第二十五話
これがわたしの嫁の道
 
いや〜ん、浪花節的?(笑)
わたしが夫と結婚したのは21のとき。 実家に行って驚いた事。 はじめて韓国式の法事を見て、 キッチンで用事をしている女性の数の多さと、 並べてあるテーブルの数のすごさ、人の多さに、 わたしはただただ圧倒されるばかりで、 日本語と韓国語が飛び交う中で なにをしていいのかわからず、 この先、わたしは果たしてやっていけるのかと 不安な気持ちになり、孤独な思いにさいなまれたものだ。 テーブルの上に並べられてある、見た事もない料理の数々。 知らない人の、顔、顔、顔・・ 法事のときに、繰り広げられる花札遊び (ただし、やるのは男のみ) 当時は、実家のこの法事に、会社の社員等も加わり 100人以上の人間が出入りしていたのだ。 わたしが結婚した人は、韓国人なのだ、と 思い知らされるのがこの法事だった。 嫁姑の確執はいつの時代でも同じこと 姑が大好きだ、という嫁はおそらく居ないのでは? ご多分にもれず、わたしも母を好きではない。 では、嫌いなのかというと、 これが不思議なのだが、嫌いではない。 多分それは、 母の生きざまを見て来て、尊敬の念を抱いているからだと思う。 夫の両親が、自分たちの両親とともに日本にでてきたのが 義母が18のとき。 両親は、大阪で苦労しながらも10人の子供を育て、 船場に、繊維関係のお店をいくつか持ち、 ゲーム喫茶や、3件のパチンコ店の経営していた時期もある。 両親は、とにかくよく働いてきた。 日本語ができなかった義父は、日本に出て来た当事 印刷会社に勤め、活版で日本語を学んだ。 義母を常に苦しめ、卑屈にさせたのは、 文盲であったこと。 子供を育てる事と、商売のことで忙しかった母に 文字を勉強する時間があるはずはない。 両親が、商売で大成したことでもわかるように 文字を覚える能力がなかったのではないのだ。 気丈で、頭の切れる義母にとって この文盲というのは、いつもつらくのしかかっていたのだった。 在日の多くが、朝鮮学校に通い、向こうの文化を大事にし、 同じ民族との間の交流をとても大事にする中で、 義父は、子どもたち10人に日本の教育を受けさせた。 同胞との交流も、あまりこだわらなかった。 それゆえ、同じ民族にはいいように思われていなかったようだが、 これからの子どもたちの将来を考えたときに ここ日本で住む以上は、日本の教育をしっかりと受けさせるのが ベターだと考えてのことだろう。 父は、かなりハイカラな人間だったのだと思う。 両親は、子供の教育に力を入れたのだった。 潔癖で、大酒のみで、厳しく、 私たち嫁は、ことごとく泣かされて来たのだが、 父のこういった教育に対する姿勢については ある意味、あっぱれだったとおもう。 母は宗教心の強い人で、先祖を大事にした 法事は、そのまま韓国式 いまだに、簡略化することなく、手作りにこだわる。 子どもたち10人にとって、両親、ことに母親の存在は絶対的で 母親にとっても、この子供10人がすべてだった。 この子どもたち10人が居れば なにも恐くない。将来は安泰だ・・ 母はきっと、そんなことを思っていたに違いない。 この一族の絆は、恐ろしいほど強い。 その強い絆の一族にも、結婚すればよそのものがはいる そう・・・
嫁だ。
実家で満足に料理を作った事もなく、何も知らずに 若くで、この一族に足を入れたわたしのこの先は・・・・・・
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