空ではためいていた鯉達が、
徐々に姿を消し始めた5月の中旬。
冴え渡る空が綺麗な朝。
いつものように――若干、いつもより早く目覚めた陽炎を迎えたのは、
誰もいない部屋でも、がらんとしたキッチンでもなくて・・・











[[[
感謝の気持ちは ]]]









「おう、おはよー母ちゃん!」


エプロン姿でキッチンに立つ、烈火の元気な声だった。


「れ、烈火!?今朝は早いのね・・・」



『いつもは最後まで寝ていて、いくら言っても起きないような烈火が、
(いつもより少しだけ早く起きた)自分よりも先に、キッチンに立っている』

その事実に驚き、そして、机の上に並べられている
卵や野菜達を見、また驚く。


「烈火・・・もしかして朝食・・・・・」

「今日は俺が作るから、寝てていーぜ、母ちゃん!」


そう言うと、烈火は陽炎の背を押し、
陽炎は追い出される形で部屋を出た。


珍しいこともあるものだ。
内心そう思いながら、とりあえず朝食は烈火にまかせて、
庭木に水でもまこうかと考える。






サァアァァァアァァァァァァ・・・・・・




庭まで残り数mの位置で、いつもは聞こえない音が聞こえてきた。
そう、まるで水をまくような音・・・・。
ある意味聞き慣れてはいるのだが・・・・自分以外の誰かの行動で、
その『音』が奏でられたことはない。


ま、まさか・・・・・。

そう思いつつ、足早に庭へ向かい・・・・。





「あ、おはよー陽炎!おれがやってるから大丈夫だよー」



ホース片手に朝日を浴びる、小金井と対面した。


「そ、そう・・・・ありがとう・・・・・」


少しひきつった笑顔でそう言うと、
ご機嫌そうに水をまく小金井を背に、ゆっくりと自室への歩みを進めた。




素直に喜ぶべきことなのに、何故こんなに動揺するのだろう。


普段だって、助けを頼めばいつでも手伝ってくれていた。
・・・・しかし、こんな朝早くから、頼みも無しに自分から動いたのは・・・きっと初めて。
今日に限って・・・・一体何があったのだろう。
折角の日曜日なのに・・・・。

がらっ。と自室の扉を開け、壁のカレンダーに目をやる。
5月半ばの日曜日。ちょうど、第2週目の・・・・。



「あぁ・・・・・・そうだったのね・・・」




今日は、5月の第2週目の日曜日。










太陽がほぼ真上に上がっていた。
いつもなら、昼食の後片付けの途中かしら・・・。
考えて、台所で右往左往しているであろう2人の姿を思い浮かべる。


5月の第2日曜日。
一般的に、母の日と呼ばれる日。


今日1日、家にいても何も出来ないだろう。
そう思い、陽炎は久々に散歩に出ていた。

洗濯をしようとすれば烈火に止められ、
掃除をしようとすれば小金井に取られた。
・・・下手に動けば、彼らの仕事が増えるばかり。
なんだか悪いような気がして、何も出来なくなったのだ。


そんないきさつもあっての久々の散歩。
暖かい、眩しいくらいの日差しの中、こうやって1人で歩くのは久しぶりだった。
時折聞こえてくる、子供のはしゃぐ声や、車の走る音。
風に吹かれる木の葉や、揺れる木々の音。
落ち着いて聞けたのは、どれだけぶりだろう。

穏やかに1つ息を吐いて、公園へ続く道を、左に曲がる。
前からくる、見覚えのある姿。あれは・・・。



「水鏡君」

「・・・・陽炎?」


少し間を置いて返ってきた声は、間違いなくそれのもの。
相手を確認し、陽炎はゆっくりと歩み寄った。


「偶然ね・・・何か用事?」

「別に・・・大した用じゃない」




少しの会話を交わし、立ち話も何だから、と、先の公園へ向かった。
そこの、ちょっとした木陰のベンチに腰掛ける。
特に聞かれたわけでもなかったが、
安易には続かぬ会話のために、陽炎は今までのいきさつを話し始めた。

朝起きて、最初に烈火を見て驚いたこと。
同じく、小金井に先を越されていたこと。
そして、今日が何の日であったかを知ったこと。



「2人とも、とても気にかけてくれて・・。
でも、何かね。変に落ち着けなくて、それで・・・・」

「『逃げてきた』のか?」

「『少し散歩に出た』のよ」


そう言って、陽炎は笑った。楽しそうに。嬉しそうに。

当然・・・と言えばそうなのだろう。
『母の日』というものを、初めて体験したであろう彼女には、
そこらの『母親』よりは喜びも人一倍のはず。
『落ち着けない』のも、単に慣れていないから。


子を思う母。母を思う子。
模範的なそれに、今はただ感心する。
自分には出来ない、そのことに・・・。



更に続けて、今ごろ烈火達が何をしているだろう、とか
そんなことを陽炎は言っていた。
それを・・・意識半分で聞きながら、水鏡はあることを思っていた。


何が、そんなに嬉しいのだろう。
どうして、そんな『記念日』ごときのために、烈火達はそんなことをするのだろう。


それが普通だ。と言われればそれまで。
『日頃の感謝の気持ちを込めて』。そんな言葉が返ってくるかもしれない。
・・・それなら、別に相手が母親である理由などないはずだ。

捻くれた考えだとも思ったが、合点がいかないのは事実だった。





「・・・・・嬉しいか?」


わからなかった。
だから、言葉を極限まで省略した、ただ一語のセリフ。
それに全ての意味を込めて、聞いてみた。

その問いに、陽炎は言葉で返事を返そうとはせず、
無言のまま、ただおだやかに微笑んだ。



「そう・・・・か。・・・なら・・・・・・・」


水鏡はそう言いかけて、続きは飲みこんだ。

『なら、何かして欲しいことはあるか』
喜ぶのは、嬉しいから。嬉しいのは、烈火らの気持ち・・なのだろう。
あとわからないのは・・・その烈火達のほうである。

何故そんなことをするのか。
わからないのなら、実際やってみれば手っ取り早い・・・と思った。が、
・・・別に実の親でもない相手(小金井は例外)に、そんなことをしたところで・・・。
そういう考えが過ったのだ。

そこまで考えて、不思議そうな面持ちの陽炎に目が行く。
言いかけた続きが、心底気になるような・・・そんな表情。





こいつ相手に、構える必要もない・・・・か。



最終辿り着いた答えにのっとり、続きのために口を開く。

『何かして欲しいことはあるか』
その問いに、少し戸惑ったような顔と、疑問に思う表情をしつつ、
陽炎は、『少しの間の話し相手に』と言った。









1年にたった1度の今日。
1日くらい、ゆっくりしてほしいから。
ありがとう。の代わりに、何かしあげたいから。
ご苦労様でした。の代わりに、今日は1日、頑張るから。

感謝の気持ちは、まとめて返します。



ありがとう。ご苦労様。まだまだ、お願いします・・・。









モドル