任那日本府

日本と韓国との歴史教科書問題の中で、最古の史実は、この任那日本府の問題である。
韓国南部が古代から日本の支配下にあったという事実が、韓国人にとっては、受け入れがたいことなのであろう。
しかし、だからといって、歴史を歪曲することは許されない。ここに、任那日本府の真実を整理してみたいと思う。

結論から言えば、任那という地域は日本の影響下にあった。
任那が日本の影響下にあった根拠はたくさんある。

まず、日本は何度も朝鮮半島に軍隊を派遣していた事実である。
これは『日本書紀』にも記載されているし、考古資料でも広開土王碑文によって明白である。
特に、『日本書紀』に書かれていることが、他国の考古資料と合致するのはきわめて信憑性が高い史実といえる。
韓国の研究者を中心に、この広開土王碑文は、植民地時代における旧日本軍の改竄によるものとする説もあったが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。 これにより、倭が新羅や百済を臣民としたと記されている、この広開土王碑文は、日本軍が捏造したものではなく、事実であったことが実証されたといえる。

次に、新羅が後に半島を統一した後に、日本より下位とされた事実があげられる。
古代中国で起きた事件であるが、遣唐使で派遣された日本使節が、新羅の使節より下位に並ぶよう指示され、これに反論したという事件である。結局はこの抗議が通り、日本使節は新羅使節より上位になる。
この時の根拠として、新羅が古来より日本に貢物を送っていた事実が提示されたが、
このような外交の場での遣り取りから、日本が朝鮮半島に対して軍事・政治的に優位だったのは明白である。

さらに、『日本書紀』によると、任那四県を百済に割譲したとされる。
つまり、任那の四地域の“領有権”を当時の日本は有しており、これを百済に譲ったというのである。
このことを裏付ける考古史料も最近、発見されている。大和朝廷の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で発見され始めたこと、そして新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)したこと等の史実より、倭国と深い関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、倭国に臣従した在地豪族など)が伽耶地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことは確実である。

なお、任那日本府の称は、国号の表記が日本と定まった後世に呼称されるようになったものであり、任那日本府が存在したとされる時代にあっては、倭府と称したとされる。

広開土王碑文が捏造ではなかったことが明らかとなり、朝鮮半島南部から日本特有の前方後円墳がいくつも発見された今となっても、韓国の研究者は、日本による朝鮮半島南部の支配を認めようとはしない。

平等をきすため、韓国人研究者の主張もここで紹介しておく。

広開土王碑文において、「倭人が新羅や百済を臣民とした」とあるのは、百済の鎧を借りて装着していた倭人のことを倭人と表現したもので、新羅を破ったのは倭国ではなく、百済を中心とする百済倭国連合である、と。
こじつけるのもいい加減にしてもらいたいものである。

また、朝鮮半島南部で発見された前方後円墳については、倭人の墓ではなく、倭国との親密さをアピールしたい百済が新羅に見せつけるために作った、百済人の墓であると主張する。いくら政治的意図があっても、墓をつくるのに、外国の墓をまねする人がいるであろうか。

最近は任那の事を任那中の一地域名に過ぎない「金官」と呼んだり「加羅」と呼んだり「伽耶諸国」と呼ぶ。
およそ歯切れの悪い表現で誤魔化している。これらの諸地域を総合して「任那」と呼ぶのが史料的には正しい。
勿論、韓国では「任那」の事など教えられていない。

研究者であるならば、感情に流されることなく、科学的な根拠に基づく研究をしてもらいたいものである。
他方、日本の研究者も、隣国への過度な配慮をすることなく、正しい歴史を堂々と主張してもらいたいものである。