薬 師 岳 (2001.7.20〜21) 晴れ


1.有峰湖

薬師岳と言う山の名前に魅力を感じながら、この山だけが取り残される形で登ることができないままであった。 「でん」とした山の姿は、いつのまにかどんどん気にかかる山になってしまっていた。
古くからある、立山から五色ケ原、薬師岳のコースをいつも計画するのだが、日数が足らない。今回も又同じように不足する。 「ええい薬師岳に行ってかえってこよう」と思い立っての出発である。

JR富山駅から登山口の折立まで直行のバスが早朝に出ている。折立にはダム湖である有峰湖がある。
北陸電力が昭和31年から足掛け5年のをかけて建設したダムが、有峰湖となっている。 この湖底には、11戸の集落があるが、ダムができるまでには廃村となっていたそうである。

当時の有峰の人々が信仰する山が薬師岳であり、毎年6月15日に20〜40代の男たちが、 山頂の祠に槍の穂をそなえ祈願する薬師信仰であった。
村人の健康や生活を平安とする願いを代表しているのだから、一生懸命であったに違いないが、 それにしても、その日のうちに登って降りるのだからその健脚ぶりには恐れ入る。
仏教では、阿弥陀如来信仰と薬師如来信仰がある、前者が来世の安らぎを願うものに対して後者は、 現世の安らぎを求めるものであるが、さてさて当時の人々はどちらに重きを置いていたのだろうか。
いづれにしても薬師岳の昔は今ほど一般的な山ではなく、有峰の人々の信仰対象の山であったことには違いない。 一般的になったのは、 有峰ダムが完成してからだそうだ。

2.太郎坂

登山口の折立から1871ピークまでは、樹林帯である。愛知学院大遭難の慰霊碑で一礼して登りにとりつく。
樹林帯ではいつも「ほっとする」のは私だけだろうか、この感覚は大好きである。
遠くから山を見る時、最初は頂上に目が行ってしまうのだが、その麓にある木々の緑の広さがその山の雄大さを表しているように思う。 今、薬師岳の雄大な姿の緑の中に居る。
1871ピークを過ぎたところの登山道横にニッコウキスゲの群落がある。さらに少し登ったところにもキスゲとイワイチョウ、ワタスゲの群落がある。 さらに登った2196ピークへの急坂の手前にママコナ、アカモノ、が咲いている。

私は2000mまでは比較的元気だが、これを超えると金魚状態になってしまう。(空気を求めてパクパク)
森林限界も近づき夏の日光をさえぎる物もなくなってくる。ピークを登りきると尾根歩きになる。
お昼の時間となっていて、見晴らしの良いところでお弁当を広げる人が出てくる。 私も太郎兵衛平小屋の手前でお昼にする。食べたあと薬師岳を見ながら横になっていたらそのまま小一時間眠ってしまった。

3.太郎兵衛平

この時間、昼寝なんかをしない健全な登山者は、薬師岳山荘か薬師沢小屋を目指すのが大方である。
私の場合、この点は極めて不健全?な山登りだが、今回は、どう急いでも、どうのんびりしても変わりはないので大義名分は立つ。 とりあえず太郎平小屋に泊まりの手続きを済ませて、近辺の花探索を開始した。
小屋の前からは、左正面に水晶岳、正面手前に雲ノ平、その奥に鷲羽岳、その右に三俣蓮華岳、五郎岳。
太郎山へ登る道でハクサンイチゲ等が咲くお花畑を見つけて山々の景色とを併せて残った時間を使い切った。

4.薬師岳山頂

早朝に小屋を出て、テント場から登りだす。小さな沢を登る形でおよそ大きな山を登る雰囲気ではなく、 普段、近場の低山を登るときに出会う沢のような気がする。
せっせ、せっせと登れば、尾根にある小さなピークの薬師平に出た。小さなお花畑になっていて振り返れば黒部五郎岳が 遠くに見える。
登りはさらに急を増す。あたりの景色は、あきらかに高山の様子になり、息もあがってくる。 右手には槍ヶ岳が遠望できる。
薬師岳山荘でこれ幸いと休憩し、急登を再開する。懸命に登れば、非難小屋に到着する。 その向こうに頂上を見ることができる。
非難小屋から振り返れば、尾根が二つに分かれている、一方が今登ってきた尾根であり、もう一方が、 東南尾根で愛知学院大が迷い込んでしまった尾根である。
氷河遺跡の中央カールを覗き込みながら薬師岳頂上に至る。釼、立山、富山湾、が登頂の歓迎者であった。


非難小屋から振り返れば、尾根が二つに分かれている、一方が今登ってきた尾根であり、もう一方が、 東南尾根で愛知学院大が迷い込んでしまった尾根である。
氷河遺跡の中央カールを覗き込みながら薬師岳頂上に至る。釼、立山、富山湾、が登頂の歓迎者であった。