廃村八丁 (1999.10.24)晴れ


広河原のバス停から一つ手前の「菅原」の空き地に車を止めて、川向こうの林道を見ると、一軒家が見えます。
道の横には、小さな流れがあっておそらくは、生活の用水に利用しているのだろうと思えます。
側にある柿の木には、二つ三つと橙色の柿がなっています。

ずーっと昔にあったような、見たことのあるような懐かしい思いがします。
「家の中では、丸い膳を兄弟が囲みそこに母が、食事を運んでくる。天井からぶら下がった電気コードには、40Wの裸電球が点いている。」
ふっと、そのような昔見た感覚が、一軒家の前を通る時に起こります。

林道のアスファルトがとだえるころ、道は谷筋に入ります。廃村八丁へは、谷筋に沿っても行けますが、尾根からの道は、谷筋に入ってすぐに左手の尾根を駆け登ります。
しばらく急坂を登ります。前を行く「橋やん」に思わず、「オーィ休憩」と声をかけます。彼との体力差は、年齢差以上のものがあります。おまけにいつもながら夜な夜なのアルコールのせいもあります。

じぐざく道を登ってダンノ峠に到着します。登りらしい登りは、ここまでで 私にとっては、大助かりです。
紅葉にはまだ少し時間が必要な様子です。北山の中と言った雰囲気が楽しめます。
ぶらりのんびりと世間話もはさんで一歩きすると四郎五郎峠と刑部谷との分岐に出ます。
刑部谷は、帰り道に残して四郎五郎峠へ向かいます。峠とありますからやはり小さな尾根を横切るように登っています。ここまで来ると本当に山深い所に来たと言う思いがします。

この地域は、鎌倉時代から知井と弓削の境界をめぐって争いがあったと言います。
この争いに関わって、炭焼きを業とした村が廃村だそうです。今で言えば、シェア争いのために営業拠点を設けると言ったことと同じでしょう。
どちらの村の拠点だったかは知りませんが、明治の時代までこの山中で生活したのですから、これはやっぱり大変なことだったのでしょう。

この山深い村の必要理由は別として、その生活について「橋やん」としばし議論をし、

・この距離を歩いて他の集落なり都心部に出るのは、大変だ。
・その時代、歩くことが交通の中心だから今の大変さとは単純に比較できない。
・山中の生活はなにかと不便でやはり大変だ。
・電気と言うものが生活の中に入るまで、あるいはガスや石油、汽車や自動車 が出てくるまではさほど格差はないだろう。
・昔の時代でも都会の遊びや楽しみは山中のそれとでは大きな格差があるだろう。
等などぶらりのんびりの会話を楽しみ、その結論が出ない内に廃村に到着しました。

時は昼を回っています。

「廃村八丁」へは、アプローチに時間がかかります。出町柳からバスで2時間です。
高度差は大した事はありません。展望はほとんど無い、深い山中の山歩きと言ったところでしょうか。
出かける前に「お昼は、弁当ではなくて現地でちょっとした炊飯をやろう。準備は私にまかしとけ。」と言っていたのですが、前夜が遅くなって十分な準備が出来ていませんでした。
そんなことは、百も承知の「橋やん」は、しっかり準備をしてくれていました。
まー私のだらしないのは、今に始まったことではありませんから、「当たり前」は聞くまでもないのでしょう。ここまで見透かされるのは、喜ぶべきだらしなさと言えるのかも知れません。

「廃村八丁」で炊飯の後、記念写真を撮って引き返します。途中で刑部谷に入り刑部滝経由で戻ります。
滝は7〜8mでしょうか、くびれた形をしています。高巻いて登ります。満腹状態では、結構、急勾配はこたえます。

ダンノ峠から分岐を見落としてホトケ谷に入り込みました。「同じ道を通らずに済んで良かったナ」とは、なんたるだらしなさでしょうか。

菅原のバス停からあたりを眺めていたら、遠くに一本の煙が立ち昇っていました。なぜか、煙の下の「一家団欒」を想像してしまっていました。


_ンノ峠から分岐を見落としてホトケ谷に入り込みました。「同じ道を通らずに済んで良かったナ」とは、なんたるだらしなさでしょうか。

菅原のバス停からあたりを眺めていたら、遠くに一本の煙が立ち昇っていました。なぜか、煙の下の「一家団欒」を想像してしまっていました。